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2021年12月28日00:14

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12月28日の日記

今日の出来事:1065年−ロンドンのウェストミンスター寺院が竣工し、聖別される、1570年−長島一向一揆蜂起、小木江城の戦い、1868年−箱館戊辰戦争:館城の戦い、開陽丸沈没

今日は、ロンドンのウェストミンスター寺院が竣工です。ウェストミンスター寺院は、イギリスのロンドン・ウェストミンスターにある、イングランドの教会です。戴冠式などの王室行事が執り行われ、内部の壁と床には歴代の王や女王、政治家、著名人(ニュートン、ダーウィン、スチーブンソン等・・・)などが多数埋葬されています。墓地としては既に満杯状態で、新たに埋葬するスペースはなくなっています。国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)が隣接しています。イギリス中世の大規模なゴシック建築で、11世紀にエドワード懺悔王が建設しました。1066年以降、英国国王の戴冠式が行われています。1245年にヘンリー3世が再建、フランスの建築家を招いて、フランスのゴシック建築にならって現在の寺院を建てました。14世紀末までにほぼ完成しましたが、正面部分は16世紀初め、塔は17世紀と長期間にわたって建設されました。多くの学校や職場で使用されている始業、終業のチャイムの音階は、ウェストミンスター寺院のために1927年に作曲された「ウェストミンスターの鐘」が元となっています。1987年、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。

次に、長島一向一揆蜂起、小木江城の戦いです。長島は元々、「七島」で木曽川、揖斐川、長良川の河口付近の輪中地帯です。この付近には数十の寺院・道場が存在し、本願寺門徒が大きな勢力を持ち、尾張国西南部・美濃国南部・伊勢国北部における一種の自治勢力でした。1501年、これらの統制のために本願寺蓮如の六男・蓮淳を住職として、杉江の地に願証寺が創建されました。以後、本願寺門徒は地元の国人領主層を取り込み、地域を完全に支配しました。門徒衆は約十万人、石高は約十万石を擁しました。この勢力は巨大なために、織田氏や斎藤氏をはじめ、各国領主たちはまったく立ち入る事が出来ませんでした。稲葉山城を追われた斎藤龍興は、長島へ逃げ込みました。門徒側も、織田信長の「尾張統一」や「美濃攻略」、上洛後に行なった「北伊勢侵攻」には不介入でした。しかし、これにより長島は織田信長の勢力圏に周囲を囲まれる事となりました。1570年、本願寺の反信長蜂起「石山合戦」に伴って、長島でも門徒が蜂起しました。更に願証寺が北勢四十八家の豪族や紀伊の雑賀衆などに檄を飛ばし、これらが長島へと集結しました。また、信長によって領地を追われて長島の地に逃げ込んでいた斎藤龍興や、尾張弥富の服部党、石橋義忠らの非門徒の武士団の連合軍も一斉に蜂起しました。下間頼旦らに率いられた数万に及ぶ一揆衆は、長島で唯一信長側についていた伊藤氏が城主を務める長島城を攻め落として城を奪うと、続けて「信長包囲網」によって完全に孤立していた信長の弟、織田信興の尾張・小木江城を包囲しました。この時、信長は浅井長政や朝倉義景らと比叡山で対峙し、桑名城にいた滝川一益は籠城していたため、援軍を送る事が出来ませんでした。織田信興は孤立無援の中で奮戦し、6日間耐えましたが落城しました。織田信興は天守で自害しました。この時、80人余りの家臣が織田信興に殉じました。この後、伊勢桑名城の滝川一益を敗走させます。弟・信興を殺された信長の一揆衆に対する憎悪は高まり、これが1574年の「長島一向一揆大虐殺」につながりました。

最後に、箱館戊辰戦争:館城の戦い、開陽丸沈没です。
館城の戦い:土方歳三らが松前攻略のため、松前に出発してから約10日後の12月23日、松岡四郎次郎が率いる一隊、数百人が稲倉石、館村方面経由で江差に向かうルートで進軍を開始しました。26日早朝、松前藩は稲倉石の関所で榎本軍を待ち構えました。当初は一進一退の戦いをしていましたが、やがて昼頃には松前藩側の大砲の弾薬が尽き、その隙を榎本軍に突かれて松前藩兵は館城へと退却しました。稲倉石を突破した旧幕府軍はさらに進軍し、12月28日早朝、館村にある館城攻略を行いました。館城は、松前城では海から近すぎるため、海上からの軍艦の大砲の砲撃に曝される危険があるため、新たに江差の東にある内陸の館村に松前藩が建てた城です。しかし、この時はまだ建設を開始してから2ヶ月しかたっておらず、城と言っても土塁に板塀が立てられただけの砦でしかありませんでした。さらに攻撃の数日前に藩主・松前徳弘が江差方面の督戦の為に出発し、館城には100名程度の守備兵しかいませんでした。最初は旧幕府が地形の関係で大砲を持ち込めなかったため、双方が小銃の撃ち合いをしていました。やがて旧幕府軍の伊奈誠一郎、越智一朔が、銃弾を飛び交う中を決死の覚悟で城に近づき、表門の下を仰向けになって潜ると中から閂を開けました。そこから旧幕府軍が入り込むと、守備兵は戦意を失って退却しました。しかし、その中で頭を丸めた大男・三上超順が、右手に刀、左手に防弾のための俎板を持って伊奈誠一郎に斬りかかりました。伊奈誠一郎は小銃でそれを防いでいましたが、足を取られて倒れました。そこに越智一朔が伊奈誠一郎を助けようと三上超順に斬りかかりましたが、逆に斬られてしまいました。そこに、横田豊三郎、堀覚之助、黒沢正介らが囲みながら斬り付け、やっとの事で三上超順を倒しました。この三上超順は、松前法華寺の僧でした。しかし、武術に優れていたため藩主に認められ、還俗して松前藩の正義隊隊長となっていました。後に三上超順の勇戦の様から「今弁慶」と呼ばれるようになります。こうして館城を攻略した榎本軍は、館城に火を放って江差へと進軍する準備をしました。しかし、この日の夜に旧幕府軍にとって痛恨の出来事が起こります。
開陽丸沈没:「開陽丸」は、江戸幕府が所有していたオランダ製軍艦です。オランダでの愛称は「夜明け前」でした。榎本武揚はこの「夜明け前」を想起する「開陽丸」と名付けました。「大政奉還」の時には、僚艦の「回天丸」、「朝陽丸」と共に江戸湾にありました。しかし、江戸で薩摩藩の討幕派が戦闘行為を誘発させるため各所で扇動を行い、それに乗せられた幕臣は、江戸の薩摩藩邸・佐土原藩邸を焼討するという事件「江戸薩摩藩邸焼討事件」を起こしました。扇動した薩摩藩士は、薩摩藩船の「翔鳳丸」に乗って江戸脱出を図り、「開陽丸」は僚艦と共にこれを追跡砲撃しましたが、「翔鳳丸」は大坂に逃れました。これが、「開陽丸」の初の実戦となりました。大坂湾に入った「開陽丸」は、「富士山丸」、「蟠竜丸」、「翔鶴丸」、「順動丸」と共に大坂の警備に就きました。「開陽丸」は、兵庫港を出港した薩摩藩の「平運丸」に対して空砲で停船を命じましたが、「平運丸」が応じなかったため実弾で砲撃しました。翌日、薩摩側が抗議すると、榎本武揚は一連の行動は「万国公法」に則ったものであるとしてこれを突っ撥ねました。この事が「鳥羽・伏見の戦い」の引き金ともなりました。「戊辰戦争」が勃発すると、「開陽丸」は阿波沖で薩摩藩の「春日丸」、「翔鳳丸」を砲撃し、「翔鳳丸」を由岐浦に座礁させて圧倒的な勝利を得ました「阿波沖海戦」。「鳥羽・伏見の戦い」に敗れた事を知った榎本武揚は、将軍・徳川慶喜へ謁見するため「開陽丸」を降船しました。その間に大坂城を脱出した徳川慶喜が入れ違いに「開陽丸」に乗船し、副艦長・澤太郎左衛門に命じて大坂を出航し、江戸へ帰還してしまいました。置き去りにされた榎本武揚は、「富士山丸」に大坂城内の書類、重要什器、刀剣類、城内に有った金18万両を積み込み、フランスの軍事顧問団のブリュネ、カズヌーブらを乗せて大坂を出航し、江戸品川沖に入港しました。その後、榎本武揚は海軍副総裁に就任しました。「江戸城無血開城」により、「開陽丸」を新政府軍に譲渡する事を断固として拒否しました。そして、「開陽丸」を旗艦とした榎本艦隊(「回天丸」・「蟠竜丸」・「千代田形丸」)は、「遊撃隊」など陸軍兵を乗せた運送船4隻(咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸)を加えて品川沖を脱走しました。榎本武揚が総司令官を務めたため、「開陽丸」艦長には澤太郎左衛門が任命されました。途中暴風雨に遭い「美賀保丸」、「咸臨丸」を失いましたが、「開陽丸」は何とか仙台に到着しました。すぐに修繕が行われ、「奥羽越列藩同盟」が崩壊して行き場を失っていた大鳥圭介や土方歳三などの旧幕府脱走兵を艦隊に収容しました。そして、仙台折浜より蝦夷地へ渡航し、「箱館戦争」となりました。蝦夷地の鷲ノ木沖に到着した「開陽丸」は、しばらく鷲ノ木沖に停泊しました。旧幕府軍が箱館と五稜郭を占領すると、箱館港に入港して祝砲を撃ちました。旧幕府軍は松前城を奪取した後、江差へ進軍を開始しました。その援護のため、「開陽丸」も箱館を出港して江差沖へ向かいました。江差沖に到着後、陸地に艦砲射撃を加えましたが反撃がないため、斥候を出すと松前兵はすでに撤退していました。榎本武揚は最低限の乗組員を「開陽丸」に残して上陸し、江差を無血占領しました。翌日夜、天候が急変しました。「開陽丸」は、タバ風と呼ばれる土地特有の風浪に押されて座礁しました。江差沖の海底は岩盤が固く、錨が引っ掛かりにくい事も災いしました。「回天丸」、「神速丸」が救助に向かいましたがうまく行かず、「開陽丸」は岩礁に挟まれて身動きが取れなくなりました。留守を預かっていた機関長の中島三郎助は、艦内の大砲を一斉に陸に向けて撃ち、その反動で船を離礁させようと試みました。しかし、これもうまく行かず、乗組員は全員脱出して江差に上陸しました。そして、榎本武揚や土方歳三が見守る中、「開陽丸」は沈没しました。この主力戦艦の喪失により、新政府軍に対する海上戦力の優位が一挙に崩れ、その後の戦局に大きく影響を及ぼす事になるのです。

今日の誕生日:六条天皇(第79代天皇)、ウッドロウ・ウィルソン(第28代アメリカ合衆国大統領)、石原裕次郎、渡哲也、藤波辰爾、藤山直美、高井麻巳子(現・秋元麻巳子、元おニャン子クラブ・うしろゆびさされ組)、トータス松本(ウルフルズ)、雨宮塔子、富永美樹、寺島しのぶ、村田修一、稲田直樹(アインシュタイン)、岡田唯(元美勇伝)、大家志津香(AKB48)、数原龍友(GENERATIONS from EXILE TRIBE)、新川優愛、志村玲那(元キグルミ)、前田憂佳(元スマイレージ)、藤田奈那(元AKB48)、吉本実憂(元X21)、ブラックスワン、牧野つくし、竈門禰󠄀豆子

今日の記念日:官公庁御用納め・仕事納め、煤払い(大掃除)、ディスクジョッキーの日、身体検査の日、シネマトグラフの日

今日の「今日訓」:本日は、「官公庁御用納め・仕事納め」です。1873年から、官公庁は12月29日から1月3日までを休暇とする事が法律で定められているため、28日が仕事納めとなります。この日が土・日曜日の場合は、直前の金曜日となります。多くの民間企業もこれに倣っています。また、「大掃除」です。一年分の汚れを除去し、新たな年に歳神を迎える準備をし、新年を新たな心持ちで始められるようにする意味があります。1888年、文部省がすべての学校に生徒の身体検査の実施を訓令した事で「身体検査の日」、1895年、パリでリュミエール兄弟が発明した「シネマトグラフ」で世界初の映画が公開されました。「シネマトグラフ」は、世界初の撮影と映写の機能を持つ複合映写機です。世界初の実写映画となった「工場の出口」(製作・監督はルイ・リュミエール)は、フランスのリヨンで撮影された50秒ほどのモノクロ無声ドキュメンタリー映画でした。これにより「シネマトグラフの日」、「オールナイトニッポン」の初代ディスクジョッキーとして活躍した、糸居五郎の1984年の命日で「ディスクジョッキーの日」となりました。
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