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2021年12月27日00:39

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12月27日の日記

今日の出来事:694年−持統天皇が飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都、784年−桓武天皇が長岡京に遷都、1868年−箱館戊辰戦争:大滝山の戦い、1923年−虎ノ門事件、1995年−名神高速道路の秦荘PA(滋賀県愛荘町)〜東名高速道路の赤塚PA(愛知県豊川市)間で日本最長記録となる154kmの渋滞が発生

今日は、持統天皇が「飛鳥浄御原宮」から「藤原京」に遷都です。「藤原京」は、「飛鳥京」の西北部、奈良県橿原市に所在した日本史上最初で最大の都城です。また、日本史上最初の「条坊制」を布いた本格的な唐風都城です。 この都で華咲いたのが「白鳳文化」でした。「白鳳文化」は、天皇や貴族中心の文化でした。大官大寺や薬師寺などが造営されました。「白鳳文化」を代表するものとしては興福寺仏頭などがあります。規模は、5.3km四方で少なくとも25平方キロメートルあり、「平安京(23平方キロメートル)」や「平城京(24平方キロメートル)」をしのぎ、古代最大の都でした。大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香久山)を内に含む規模でした。都の中心やや北寄りに内裏・官衙のある「藤原宮」を配置し、藤原宮から北・南方向にメインストリートである朱雀大路がありました。京域内には、朱雀大路を境にして東側が左京、西側が右京で、それぞれ南北・東西に十坊の「条坊制」地割りが設定されています。「藤原宮」はほぼ1km四方の広さでした。周囲をおよそ5mほどの高さの塀で囲み、東西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていました。南の中央の門が正面玄関に当たる朱雀門です。「藤原宮」は、南北約600m、東西約240mにおよぶ日本で最大の規模を持つ朝堂院遺構です。大極殿などの建物は中国風に瓦葺で造られました。

次に、桓武天皇が「長岡京」に遷都です。「長岡京」は、784年〜794年まで山城国乙訓郡に存在した日本の首都です。現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区にありました。「長岡京」は桓武天皇の勅命により、「平城京」から北へ40kmの長岡の地に遷都して造営されました。「平城京」の地理的弱点を克服しようとした都市でした。「長岡京」の近くには桂川、宇治川、木津川の3つの大きな川が淀川となる合流点がありました。全国からの物資を荷揚げする港「山崎津」を設け、ここで小さな船に積み替えました。そこから川を遡ると直接、都の中に入る事ができました。「長岡京」にはこうした川が3本流れ、船で効率よく物資を運ぶ事ができ、陸路を使わざるを得なかった「平城京」の問題を解消できました。桓武天皇は自らの宮殿を街より15mほど高い地に築いて、天皇の権威を目に見える形で示し、「長岡京」が天皇の都である事を強調しました。当時、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的でした。しかし、「平城京」から宮殿を移築するのではなく、「難波宮」と「長岡京」は淀川で通じている事から、「難波宮」の宮殿を移築しました。また、遷都の際に桓武天皇は朝廷内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用し、反対する勢力を遠ざけました。しかし、785年に造長岡宮使の藤原種継が暗殺されました。首謀者の中には、「平城京」の仏教勢力である東大寺に関わる役人が複数いました。そして、桓武天皇の皇太弟・早良親王もこの叛逆に与していた事が明らかになり、親王は配流先で恨みを抱いたまま死去しました。親王の死後、日照りによる飢饉・疫病の大流行、皇后や皇太子の発病などの様々な変事が起こりました。その原因を占ったところ、早良親王の怨霊に因るものとの結果が出て、親王の御霊を鎮める儀式を行いました。しかし、その2ヵ月後の大雨によって都の中を流れる川が氾濫し、大きな被害を蒙りました。このため、和気清麻呂の建議もあって遷都から僅か10年後の794年に「平安京」へ遷都する事になります。

その次に、箱館戊辰戦争:大滝山の戦いです。松前城を攻略した土方歳三は12月24日、江差方面へ退却した松前軍を追討するために出発しました。松前兵は松前城から退却する途中の村々で、旧幕府軍が来たら食べ物に毒を混ぜるように命じていました。12月26日に原口に入った旧幕府軍の「額兵隊」10数名が「蛸の酢味噌あえ」を食べたとたん、急に苦しみ嘔吐しました。しかし、医師の診察と治療により、翌日には全員が回復しました。12月27日、江差の手前の大滝山に差し掛かりました。大滝山は裾野が海に入りこんでいて、道が山なりに曲がりくねった道となっていました。松前軍は道の坂の上に陣を張り、そこから坂の下の旧幕府軍に向けて銃撃してきました。攻め倦んでいた旧幕府軍「額兵隊」の隊長・星恂太郎は一隊を迂回させると、さらに高いところから松前兵を銃撃しました。突然の奇襲を受けた松前兵は混乱し、そのまま江差に向けて退却しました。

最後に、虎ノ門事件です。虎ノ門事件は、大正時代に起きたテロ事件です。虎ノ門外において皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が社会主義者の難波大助に狙撃を受けた事により、第2次山本内閣は総辞職を余儀なくされました。1923年12月27日、摂政として第48通常議会の開院式に出席するため、自動車で貴族院へ向かっていた皇太子に、虎ノ門外で群衆の中にいた難波大助が接近し、ステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃しました。銃弾は車の窓ガラスを破り、皇太子には命中しませんでしたが、同乗していた侍従長・入江為守(入江相政の父)が軽傷を負いました。その直後、難波大助は周囲の群衆によって袋叩きにされました。難波大助の身柄を確保しようとする警察官は、身をもって殴打を防がなければなりませんでした。難波大助は逮捕された後、大逆罪で起訴されて死刑判決を受け、1924年11月15日に死刑執行されました。この事件の背景には、「関東大震災」後の社会不安や、「大杉事件」・「亀戸事件」・「王希天事件」などの労働運動弾圧に対する社会主義者達の反発がありました。当時の内閣総理大臣・山本権兵衛は、摂政である皇太子に即刻辞表を提出しました。それを受けた皇太子は12月29日に山本権兵衛を慰留しましたが決意は変わらず、1月7日に内閣総辞職は認められました。また、当日の警護責任を取り、警視総監の湯浅倉平と警視庁警務部長の正力松太郎が懲戒免官になりました。難波大助の出身地、山口県の知事に対して2ヶ月間の2割減俸、途中で難波大助が立ち寄ったとされる京都府の知事は譴責処分となりました。また、難波大助の郷里の全ての村々は正月行事を取り止めて謹慎し、難波大助が卒業した小学校の校長と担任は教育責任を取って辞職しました。難波大助の父で衆議院議員の難波作之進(庚申倶楽部所属)は事件の報を受けるや直ちに辞表を提出し、閉門の様式に従って自宅の門を青竹で結んで、家の一室に蟄居して食事も充分に摂らずに餓死しました。難波大助の長兄は勤めていた鉱業会社を退職しました。難波大助の処刑後、皇太子は「家族の更生に配慮せよ」と側近に語りました。この難波作之進の死により、選挙地盤は松岡洋右が引き継ぐ事となります。更に戦後は岸信介、佐藤栄作という大物保守系政治家に引き継がれ、昭和史を動かす遠因となりました。次の清浦内閣の陸相のポストを巡って、薩摩閥の上原勇作が推す福田雅太郎と長州閥の田中義一が推す宇垣一成とが争いました。福田雅太郎は「関東大震災」時に関東戒厳司令官の立場であった事から、無政府主義者らの暗殺の標的とされていました。このため、摂政の身に再び危険が及ぶ恐れがある事を理由に宇垣一成が後任の陸相となりました。宇垣一成は次の加藤高明内閣でも陸相を再任し、宇垣軍縮を実行しました。後年、上原勇作が田中義一に一矢報いた事件が「張作霖爆殺事件(満州某重大事件)」です。

今日の誕生日:ヨハネス・ケプラー、大谷光瑞、浅沼稲次郎、加藤登紀子、テリー伊藤、奈美悦子、藤井尚之(元チェッカーズ)、橘高文彦(筋肉少女帯)、福田正博、濱田マリ(元モダンチョキチョキズ)、神田利則(元いいとも青年隊)、青山祐子、竹原ピストル(元野狐禅)、PES(RIP SLYME)、坂井良多(鬼越トマホーク)、内田眞由美(元AKB48)、アイナ・ジ・エンド(BiSH)、稲場愛香(Juice=Juice)

今日の記念日:ピーターパンの日、浅草仲見世記念日、寒天発祥の日

今日の「今日訓」:本日は、1904年にイギリスの劇作家ジェームス・バリーの童話劇「ピーターパン」がロンドンで初演された事で「ピーターパンの日」、1885年、浅草の「仲見世」が新装開業しました。東側に82件、西側に57件の計139件が煉瓦作りで開店した事で「浅草仲見世記念日」、12月末頃に初めての寒天の元となる「ところてん」が御駕籠町で島津藩に提供された事から12月、伏見=ふしみ(243)を「24+3=27」として「寒天発祥の日」となりました。
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