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2021年12月25日00:40

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12月25日の日記

今日の出来事:1926年−大正天皇が崩御、裕仁親王(昭和天皇)が即位し、昭和に改元、1941年−第二次世界大戦:香港の戦いが終結、1990年−初のWorld Wide Web(WWW)のシステムが稼動

今日は、大正天皇が崩御です。大正天皇は、日本の第123代天皇です。初の一夫一妻制をとった天皇です。明治天皇の第三皇子として東京の青山御所で誕生しました。生母は典侍・柳原愛子で、明宮嘉仁と命名されました。生来健康に恵まれず、生まれてから年が明けるまで重い病気を患いました。明治天皇と皇后・一条美子との間には皇子女がおらず、側室が出生した親王・内親王ら4人も、第三皇子・大正天皇の出生以前に相次いで薨去していたため、皇太子となりました。しかし、健康に優れず学業に集中できなかったため、留年する事もありました。1894年、健康状態から学業を続ける事が困難であるとして、学習院を中退しました。1900年5月10日、嘉仁親王は九条節子(後の貞明皇后)と結婚しました。結婚後、明治天皇とは対照的に側室を置かず「一夫一妻」を貫き、子煩悩で家庭的な一面を見せました。皇室における側室の制度が法的に廃止されたのは後の昭和天皇の時代でしたが、側室そのものを事実上最初に廃止したのは大正天皇でした。1912年7月30日、明治天皇崩御を受けて践祚し「大正」と改元しました。1917年頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を休む事が多くなりました。1919年には食事をとる事も、勅語を読む事も出来なくなるほど病状は悪化していました。1921年11月25日、当時20歳だった皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政に就任する事で大正天皇は事実上の退位となり、宮内省発表による「天皇陛下御容體書」によって病状は公にされました。このため、後々にも「病弱な天皇」として一般に認識される事になりました。その後は日光・沼津・葉山と転地療養を続けていましたが、1926年11月に病状が極度に悪化し、12月25日午前1時25分、静養中の葉山御用邸で、長らく会えなかった実母・柳原愛子(二位局)の手を握ったまま崩御しました。47歳でした。天皇として史上初めて、関東の地である多摩陵に葬られました。毎年12月25日には大正天皇例祭が行われています。

次に、第二次世界大戦:香港の戦いが終結です。香港の戦い(作戦名「C作戦」)は、「太平洋戦争」の緒戦で日本軍によるイギリスの植民地「香港」の攻略戦です。香港は、1841年の「アヘン戦争」でイギリスが占領し、1898年の「南京条約」で99年間の租借地となっていました。以来、香港はイギリスが極東に持つ唯一の海軍基地となっていました。「満州事変」を契機にイギリスは香港の防備の強化を決定し、1936年に九龍半島中央部一帯の要塞線(ジン・ドリンカーズ・ライン)が完成しました。1937年に「日中戦争(支那事変)」が勃発すると、香港は蒋介石の重慶政府が諸外国との連絡を維持するための窓口となり、物資の中継基地や宣伝謀略の基地となったため、日本軍にとっては目障りな存在となっていました。1938年、日本軍は広東を攻略し、香港周辺の制空権・制海権が日本軍のものとなりました。1940年6月、日本軍は深圳を攻略してイギリスと中国との国境を完全に封鎖し、強力な要塞を擁する香港攻略を視野に入れて攻城重砲を動員しました。7月15日には、それら重砲を主力とする軍直轄の軍砲兵:第1砲兵司令部(司令官:北島驥子雄中将)を設置、帝国陸軍最大の重砲兵団である第1砲兵隊を編成し、担当師団として第38師団が予定され、国境封鎖と訓練にあたりました。1941年11月6日、南方作戦準備発令とともに香港攻略準備が発せられました。日本軍は、陸軍(総兵力39700名)、第23軍司令官:酒井隆中将、参謀長:栗林忠道少将、参謀副長:樋口敬七郎少将、海軍、第二遣支艦隊司令長官:新見政一中将、巡洋艦「五十鈴」、駆逐艦3隻基幹でした。12月8日払暁、第23軍飛行隊は啓徳飛行場のイギリス軍機に対して航空第一撃を加えました。イギリス軍は対応が遅れ、空軍機と義勇軍使用の民間機あわせて12機が炎上、2機が大破して全飛行機を失ってしまいました。同日、第23軍各部隊も順次国境を突破して前進しました。酒井軍司令官は九龍要塞ジン・ドリンカーズ・ライン主陣地への組織的攻撃を意図し、各部隊に準備を命じました。歩兵第228連隊は全軍の最後尾に配置され、遅れて城門貯水池付近の前線に到着しました。目前にある城門貯水池南岸の255高地は、ジン・ドリンカーズ・ラインの中枢点でした。9日夜、土井連隊長は第3大隊に夜襲の決行を命じました。20時30分、若林東一中尉の率いる第10中隊は255高地のイギリス軍陣地に突入し、3時間の戦闘の末に奪取しました。若林中隊はさらに前進し、10日1時には341高地まで占領しました。第1砲兵隊は準備未了の状態でしたが10日午後から砲撃を開始し、イギリス軍の主要な砲兵陣地を制圧、右翼の歩兵第230連隊も11日未明から攻撃前進を始め、昼までにジン・ドリンカーズ・ライン西側の主防衛線である366高地と256高地を占領しました。11日12時、イギリス軍は香港島への撤退を発令しました。九龍半島での掃討戦は13日までに終了しました。開戦前、日本軍では九龍半島の攻略に数週間を見込んでいましたが、実際に要した日数は開戦後わずか6日でした。日本軍の戦死22名、戦傷121名、イギリス軍は遺棄死体165、捕虜49名を数えました。軍司令部では、土井連隊長の独断専行について軍法会議に付すべきとの声もあがりましたが、「若林中尉が、前線を偵察中に偶然、敵兵力配備の欠陥と警戒の虚を発見し、挺進敵陣地に突入しこれを奪取した」とする事で収拾が図られ、支那派遣軍総司令部と大本営に報告されました。若林中尉には後に感状が授与され、「斥候中の挺進奪取」という作り話はたちまち世上に流布し、多くの書物に事実として記載される事になりました。九龍半島を占領した日本軍に対して、イギリス軍は香港島と洋上の艦船から砲撃を浴びせました。13日、九龍半島の貯水池から香港島への給水が断たれました。14日から日本軍は香港島へ向けて砲爆撃を開始し、第1砲兵隊は九龍半島対岸の海岸要塞に向けて3日間で2000発を打ち込みました。渡海作戦は、歩兵団長の指揮する右翼隊(歩兵第228、第230連隊各主力基幹)が九龍及び大全湾付近より香港島北角付近へ、左翼隊(歩兵第229連隊基幹)が鯉魚門方面から同島北東部へ上陸する作戦でした。18日20時準備射撃を開始しました。20時40分第1波が離岸し、21時45分奇襲上陸に成功しました。第2波は一転して激しい防御射撃を受けましたが19日払暁までに渡海を完了し、香港島北東部を確保しました。イギリス軍は、在香港重慶軍事使節団長・陳策提督の「中国軍6万が国境に集結して日本軍を背後から攻撃せんとしている」との言葉を信じていました。19日〜20日にかけて戦闘は混戦状態を呈しました。イギリス軍は頑強な抵抗を続け、日本軍は複雑な地形と堅固なトーチカ群に遭遇して前進を阻止させられました。20日、ニコルソン山の要塞を攻撃した日本軍右翼隊は同日夜にこれを占領したものの、死傷者は600名に及びました。左翼隊も山麓の香港ホテルに陣取るイギリス軍の猛射を受けて前進できなくなりました。赤柱半島でも激戦となりました。赤柱半島は付け根の正面がわずかに250メートル、縦深3キロに及ぶ半島で、海岸砲台や高射砲陣地を備えて鉄条網を張り巡らせ、約1500名が守備する要塞地帯でした。日本軍は2個大隊と砲兵をもって攻撃をかけましたが、攻略する事が出来ませんでした。21日、日本軍はニコルソン山中で貯水池を発見しました。数人の中国人が給水施設を動かしていましたが直ちに停止させると、たちまち香港市街は全面断水となりました。同日、ようやく日本軍はニコルソン山の南北の線に沿って戦線を構築し、22日には香港ホテルを奪取してイギリス軍を東西に分断しました。さらに数日激戦が続き、第23軍将兵が前途多難の戦闘を覚悟した25日17時50分、香港島西部の陣地にあったヤング総督とマルトビイ少将が遂に白旗を掲げました。19時30分、日本陸海軍司令官は停戦を命じ、ここに「香港の戦い」は終わりました。この日は香港人に「黒いクリスマス」と呼ばれています。降伏の交渉は日本軍が司令部を置いていた「ザ・ペニンシュラ香港」の3階で行われました。香港島内での戦いで、日本軍は戦死683名、戦傷1413名を出しました。イギリス軍の戦死は1555名、捕虜は戦闘間で1452名、戦闘後は9495名でした。「香港の戦い」で捕虜となったイギリス軍は11000名、内訳はイギリス人が5000名、インド人が4000名、カナダ人が2000名でした。イギリス軍は半年間は持ちこたえる構えで食糧弾薬等を準備していましたが、香港はわずか18日間で日本軍によって攻略されました。日本軍は香港に対して中国本土とは区別して占領地行政を施行しました。当初、酒井軍司令官を長官とする軍政庁を設置し、後に大本営陸軍部直轄の香港占領地総督を置きました。1942年1月19日、磯谷廉介陸軍中将が香港総督に任命されました。貿易に依存していた香港経済は停滞し、さらに日本軍は軍票を発行してインフレーションを誘発しました。1945年の「終戦」に至るまで日本軍による軍政は維持されました。

最後に、初のWorld Wide Web(WWW)のシステムが稼動です。World Wide Web(略名:WWW)は、インターネット上で提供されるハイパーテキストシステムです。W3または単にWebとも呼ばれます。WWWではドキュメント(ウェブページ)の記述には主にHTMLやXHTMLといったハイパーテキスト記述言語が使用されます。ハイパーテキストとは、ドキュメントに別のドキュメントのURIへの参照を埋め込む事で(これをハイパーリンクと呼ぶ)インターネット上に散在するドキュメント同士を相互に参照可能にするシステムです。主にマウスによるクリックなどによってページ間を移動する事や、別のファイルである画像をドキュメント内に表示させる事などが挙げられます。そのつながり方が蜘蛛の巣を連想させる事から「World Wide Web」(世界に広がる蜘蛛の巣)と名付けられました。HTMLの記述方式は比較的単純なため、急速に広く普及しました。WWWにアクセスするためのソフトウェア(ユーザーエージェント)は「WWWクライアント」と呼ばれます。そのうち、利用者による閲覧を目的としたものは特にウェブブラウザ(WWW ブラウザ、あるいは単にブラウザ)と呼ばれます。また、WWWサービスを提供するソフトウェアを「WWWサーバソフトウェア」あるいは単に「ウェブサーバ」といいます。検索エンジンとウェブディレクトリの出現により、WWW は徐々にその真価を発揮し始めます。数学的な理論に基礎付けられたウェブページの順位決定法を実用化する事によって、検索エンジンの首座は、一気呵成に確定しました。それとは対照的に、すべての分野に亘って個々の事例の集積を要する「ウェブディレクトリ」の作成は、継続的で地道な作業によって成し遂げられる辞書の編纂と似ています。WWWを参照するにはウェブブラウザなどのソフトウェアを使用します。ウェブブラウザはウェブページなどのドキュメントをWWWサーバから取得し、モニターなどの出力デバイスに表示します。ウェブページに含まれるハイパーリンクをたどる事で他の文書を閲覧したり、情報をサーバに送る事で何らかの相互作用をもたらす事もできます。ウェブページは「ウェブサイト」と呼ばれる関連情報を集めた単位でまとめられています。開発当初、WWWは文字情報を扱うだけの比較的単純なものでした。しかし、1992年にイリノイ大学の米国立スーパーコンピュータ応用研究所 (NCSA) によって、現在のように画像なども扱えるようになりました。同校の学生であったマーク・アンドリーセンらは文字だけでなく画像なども扱える革新的なブラウザ「Mosaic」を開発しました。そして、このソフトに改良を加えるために無料でソースコードを公開したため、「Mosaic」はたちまち普及し、WWWは誰でも手軽に使う事のできる世界的なメディアとなりました。1993年4月30日、CERNは「World Wide Web」を無料で誰にでも開放する事を発表しました。日本最初のホームページを開設したのは、高エネルギー加速器研究機構所属の森田洋平でした。2001年の研究によれば、ウェブ上の文書は5500億個以上も存在し、その多くは「深層Web」にあるといいます。2002年の20億以上のWebページを調査した結果によると、英語のコンテンツが56.4%で最も多く、以下はドイツ語(7.7%) 、フランス語(5.6%)、日本語(4.9%)となっていました。これ以降、中国語のページの増加が目立っています。2005年1月では、75種類の言語でWeb検索を行ってサンプリングし、一般に検索可能なWebは少なくとも115億ページ存在するとの結果を得ました。2006年2月では、静的なページだけでも150億ページ以上、動的に生成されるページを含めると350億ページ以上が存在すると推定されました。

今日の誕生日:尼子経久、アイザック・ニュートン、乃木希典、ハンフリー・ボガート、メリー喜多川、植木等、関根潤三、夏八木勲、大和なでしこ、角川博、トーマス・オマリー、谷中敦(東京スカパラダイスオーケストラ)、アニータ・アルバラード、三浦大輔、中西哲夫(笑い飯)、岡島秀樹、高橋みゆき、枡田絵理奈、黒瀬真奈美、武井咲、バカボンのパパ、銭形幸一(警部)、ジェロニモ・ジュニア(サイボーグ005)、UFO仮面ヤキソバン

今日の記念日:クリスマス、スケートの日、大正天皇祭

今日の「今日訓」:本日は、クリスマスです。救世主「イエス・キリスト」の降誕を祝う日です。クリスマスツリーの習慣は、中世ドイツの神秘劇で「アダムとイヴの物語」を演じた際に使用された樹木に由来しています。また、クリスマスツリーに飾りつけやイルミネーションを施す風習は、19世紀以降のアメリカ合衆国で始まったものです。サンタクロースは、キリスト教の聖師父である奇蹟者「聖ニコライ(ニコラウス)」の伝説が起源となっています。日本語の「クリスマス」は、英語の「Christmas(キリスト)のmass(ミサ)」に由来しています。他に「降誕祭」、「聖誕祭」、「聖夜」などの呼び方があります。英語の「Christmas」を、ややくだけた略記とした「Xmas」または「X−mas」があります。日本・台湾・東南アジアの一部では、「X’mas」の表記が利用されています。ロシア語での「クリスマス」の略記は、「ハリストス(キリストの現代ギリシャ語・ロシア語読み)の降誕」を意味します。
1861年、函館に滞在していたイギリスの探検家トーマス・ライト・ブラキストンが、日本で初めてスケートをしたことで「スケートの日」、1926年に大正天皇が崩御した事で「大正天皇祭」となりました。
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