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2021年12月23日00:40

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12月23日の日記

今日の出来事:1570年−志賀の陣:堅田の戦い、1587年−尾浦城の戦い、1854年−安政大地震「寅の大変」:安政東海地震発生、1948年−極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受けたA級戦犯7名の絞首刑を執行、1958年−東京タワーの完工式、1990年−オグリキャップが有馬記念で優勝して引退

今日は、志賀の陣:堅田の戦いです。延暦寺が浅井・朝倉勢の味方をした事により、織田軍は早期決戦を行う事が出来ず、明智光秀、佐久間信盛を主将として美濃・近江の国衆を中心に比叡山を包囲しました。摂津では「三好三人衆」が活動しており、長引く不利を悟った織田信長は包囲して1ヶ月後に菅屋長頼を使者を立てて朝倉義景に決戦を促しましたが、黙殺されました。信長が比叡山包囲のため、身動きがとれなくなっている事を知った各地の反織田勢力は、この機に一気に挙兵する事になりました。信長が上洛戦で破った六角義賢が近江の一向門徒と共に南近江で挙兵し、美濃と京都の交通を遮断した他、伊勢長島では顕如の檄を受けた願証寺の門徒が一向一揆を起こしました。また、「三好三人衆」は野田城・福島城から打って出て京都を窺いましたが、和田惟政が奮戦して食い止めました。この時、木下藤吉郎、丹羽長秀は琵琶湖東岸の横山城で浅井軍が東岸を南下しないように守備していましたが、一揆勢が美濃と京都の交通を遮断したため出陣しました。木下、丹羽の両軍は、六角軍や一揆勢を破りました。しかし、情勢は悪化して12月18日に長島門徒の攻撃を受けた尾張の小木江城で、信長の弟・信興が討死しました。12月22日に堅田の猪飼昇貞、居初又次郎、馬場孫次郎が織田方に内通したため、信長は坂井政尚、安藤守就の子・安藤右衛門佐、桑原平兵衛らを堅田の砦に侵入させ、防備を固める事で西近江の物流の差し押さえを狙いました。しかし、朝倉軍も素早く坂井政尚の堅田入りを察知し、翌23日には朝倉景鏡、前波景当や一向宗門徒らが比叡山より下って堅田に攻め寄せました。坂井政尚の軍は堅田を囲まれて孤立しましたが奮戦し、前波景当を返り討ちにして討ち取りましたが、結局は数に押し込まれて織田軍は壊滅し、坂井政尚、安藤右衛門佐らは戦死しました。猪飼昇貞らは堅田を捨てて船で琵琶湖を渡って逃走し、失敗に終わりました。比叡山の包囲は2ヶ月に及び、織田信長は朝廷と足利義昭を動かして講和を画策しました。朝倉義景は、朝廷と足利義昭の仲介を受け入れて、信長との講和に同意しました。織田軍は勢田まで撤退し、浅井・朝倉軍はほぼ3ヶ月ぶりに高島を通って帰国し、「志賀の陣」は終了しました。延暦寺はこの戦いで信長の通告を無視して浅井・朝倉方に味方した事で、翌年に「比叡山焼き討ち」を受ける事になります。

次に、尾浦城の戦いです。大宝寺氏は、出羽国の豪族です。本姓は藤原氏、鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする武藤氏の流れを汲み、少弐氏とは同族です。大宝寺氏は、鎌倉時代に庄内地方の地頭として入部しました。最初は本姓である「武藤」姓を名乗っていましたが、大泉荘の地頭であった為に「大泉氏」を称し、後に荘園の中心であった大宝寺城に居住したため、姓を「大宝寺氏」へと改姓しました。1568年に本庄繁長が甲斐・武田信玄の誘いによって上杉氏に叛いた時、大宝寺義増は盟友として本庄氏に加担しました。しかし、上杉謙信に軍を差し向けられて降伏・臣従しました。和睦の条件として、大宝寺義増の子・義氏が春日山城に人質として送られました。1569年に父の隠居により、藤島城主・土佐林禅棟や前森蔵人の後見を受けて尾浦に帰参すると家督を相続しました。土佐林氏は、出羽国南部・日本海沿岸地域を中心に親上杉派を統率し、家中での主権を握っていました。1570年、土佐林氏と関係の深い越後の国人・大川長秀が尾浦城に攻め込むと、大宝寺義氏と土佐林禅棟は対立しました。大宝寺義氏は、本庄繁長を通じて上杉謙信に調停を依頼して事態を収拾させました。翌1571年に、今度は土佐林禅棟の配下の国人・竹井時友が反乱を起こし、谷地館に籠城しました。大宝寺義氏はこれを機として挙兵し、土佐林禅棟を討ち取ると反・大宝寺勢力を徹底的に討伐しました。出羽国のうち、田川郡、櫛引郡、遊佐郡の3郡を手中に収めて、大宝寺氏の勢力を復権させました。大宝寺氏は大泉荘の地頭出身で、田川郡、櫛引郡南部がこの大泉荘に含まれたため、領国を「荘内」と呼んでいました。そして、大宝寺義氏の蹟により遊佐郡までを治めたため、現在の山形県日本海沿岸から出羽山地に至るまでの地域を「庄内地方」と呼ようになりました。積極的な外交政策を展開して庄内地方に権威を振るった大宝寺義氏でしたが、1578年に上杉謙信が急死すると、家臣の国人衆・来次氏秀が謀反を起こしました。この謀反は鎮圧されましたが、隣国の最上氏が勢力を拡大させたため、大宝寺義氏は来次氏秀に知行を加増して手懐けざるを得ませんでした。また、「御館の乱」が発生し、大宝寺義氏は上杉景虎を支持しましたが、本庄繁長は上杉景勝を支持しました。このため、上杉氏との繋がりを失いました。1581年、鵜沼城(新庄城)城主・日野左京亮が最上義光に降伏すると、村山郡内の諸将も続々と恭順しました。飽海郡と接する地にある真室城主・鮭延秀綱も交戦の末に降伏し、大宝寺領と最上領とが隣接する事になりました。1582年、豊島氏の挙兵に支援して以来、対立姿勢にあった檜山郡の安東氏に対抗するため、大宝寺義氏は陸奥・大浦為信(後の津軽為信)と同盟を結び、安東氏の注意を北に引きつけました。しかし、最上氏と安東氏が同盟を結ぶと情勢が悪化し、庶流・砂越氏や川北の来次氏が大宝寺義氏から離れていきました。1583年、焦った大宝寺義氏は出羽山地の雪が解けて、最上氏が領する村山郡と荘内が繋がる前に先手を打つために、大軍を率いて由利郡へ侵攻しました。しかし、安東氏、最上氏との内通により、砂越・来次の両氏が日和見の立場をとって出陣せず、寒雪が吹き付ける冬の戦と不利な状況となり、安東軍に大敗を喫して荘内へと退却しました。大宝寺義氏は直ぐに砂越・来次懲罰軍を編成し、側近の酒田代官・前森蔵人に指揮を預けました。前森蔵人は、弟・勝正と共に一旦は出陣しましたが、取って引き返すと逆に尾浦城を包囲しました。この状況を見た大宝寺義氏は潔く観念し、4月27日に城外の高館山にて自害しました。大宝寺義氏の死後、藤島城主で弟の義興が尾浦城に入って家督を継ぎました。前森蔵人は東禅寺城に入り、東禅寺義長と称して酒田を領しました。結局、荘内の地は最上氏の下、東禅寺、来次、大宝寺、砂越の四氏がそれぞれ治める形となりました。大宝寺義興には男児が居なかったため、本庄繁長の二男・千勝丸(後の義勝)を養子に迎えました。1585年、大宝寺義興が最上方の清水城を攻めると、荘内の最上方の国人が一斉に蜂起しました。これを好機と捉えた最上義光は、軍を率いて六十里越街道を踏破して荘内に侵攻しました。本庄繁長は、「新発田重家の乱」で動けなかったため、伊達政宗を頼って和議を結びました。しかし、すぐに破れて東禅寺義長と弟・勝正が決起しました。大宝寺義興は、東禅寺城を囲んで追い詰めましたが、最上義光の援軍が到着すると形勢は一気に逆転しました。そして、一年の籠城による奮戦の末に居城・尾浦城は陥落しました。1587年12月23日、大宝寺義興は自害しました。しかし、養子・義勝は辛くも実父・本庄繁長の下に逃げ帰りました。
十五里ヶ原の戦い:十五里ヶ原の戦いは、本庄繁長が率いる上杉・大宝寺連合軍と東禅寺義長・勝正兄弟が率いる最上軍との戦いです。庄内を手に入れた最上義光は、東禅寺氏にこの地の統治を命じました。この時、大宝寺義興の養子となっていた本庄繁長の子・義勝は、実父の下に逃れて捲土重来を誓いました。これ以後、大宝寺氏は上杉氏の完全な影響下に置かれる事になりました。翌1588年、最上家の本家で正室の実家である大崎氏の内紛に伊達政宗が武力介入すると、最上義光は伊達政宗を討つため大崎領に援軍を派遣しました。同時に伊達領に出兵して、各地を攻略しました。最上義光が伊達政宗との戦に忙殺されているのを好機と見た上杉景勝は、庄内占領のために兵を動かしました。上杉景勝は、本庄繁長と大宝寺義勝に尾浦城攻撃を命じました。一方で東禅寺兄弟は野戦での迎撃を決め、両者は十五里ヶ原で対峙しました。当初は両軍互角の状況でしたが、次第に数で劣る最上軍が追い詰められていきました。東禅寺義長は、敵本陣に突撃して討死しました。兄の討死の報を受けた弟・勝正は、単身本陣へ突入して不意を突いて本庄繁長に斬り掛かりました。しかし、逆に本庄繁長と側近達に討ち取られました。東禅寺勝正の一撃で、本庄繁長の兜は込め髪から耳の下まで切り取られました。この時、東禅寺勝正が手にしていたのが名刀・正宗で、この後に本庄繁長の手に渡って「本荘正宗」と言われるようになりました。この後、最上軍は朝日山城などで抵抗を続けましたが敗れ、庄内地方は上杉景勝の版図となりました。本庄繁長は余勢を駆ってさらに兵を進めましたが、東根で最上勢の猛反撃に遭って撤退しました。

その次に、安政大地震「寅の大変」:安政東海地震発生です。安政東海地震は、1854年12月23日8時〜9時頃に発生した東海地震です。南海トラフ東側半分の東海道沖が震源域になりました。約32時間後に発生した「安政南海地震」と共に一連の東海・東南海・南海連動型地震として「安政大地震」と総称されています。駿河湾から遠州灘沖を震源とする巨大地震が起き、被害は関東地方から近畿地方に及びました。特に沼津から伊勢湾岸沿いと甲府盆地の被害が甚大でした。家屋の倒壊は甲斐、信濃、近江、越前、加賀まで及びました。房総半島沖から土佐沖までが激しい津波に見舞われました。波高は甲賀で10m 、鳥羽で5〜6m 、錦浦で6m、二木島で9m 、尾鷲で6mに達しました。津波は駿河湾西側や遠州灘では引き潮から始まりましたが、伊豆半島沿岸では潮が引く事なく津波の襲来に見舞われました。伊豆半島では昼過ぎまでに何十回と襲来し、大きな波は3回打寄せました。そのうち第二波が最大でした。この「安政東海地震」では全壊2万、半壊4万、焼失6千、流失1万5千、死者3千と言われています。しかし、この32時間後に南海トラフの連動地震となった「安政南海地震」が発生する事になります。

その次の次に、極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受けたA級戦犯7名の絞首刑を執行です。1948年12月23日、A級戦犯7名(東條英機 、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、武藤章、松井石根、広田弘毅)が絞首刑となりました。処刑された7人の遺体は横浜市西区の久保山霊場で火葬され、遺骨は米軍により東京湾に捨てられました。しかし、12月25日に小磯国昭の弁護人だった三文字正平が共同骨捨て場から遺灰を密かに回収し、近くの興禅寺に預けました。1949年5月に伊豆山中の興亜観音に密かに葬られました。その後、1960年8月16日に愛知県幡豆郡幡豆町三ヶ根山の山頂付近に移されました。三ヶ根山には「殉国七士廟」が設けられ、その中の殉国七士の墓に遺骨が分骨されて安置されて今に至ります。1978年、靖国神社が死刑及び獄中死の14名を「昭和時代の殉難者」として合祀しました。合祀されたのは、死刑になった7人と、判決前に病死した永野修身、松岡洋右、服役中に獄死した梅津美治郎、東郷茂徳、小磯国昭、白鳥敏夫、平沼騏一郎です。また、A級戦犯に指定されて逮捕前に自殺した小泉親彦(割腹自殺)、橋田邦彦(服毒自殺)、本庄繁(割腹自殺)、近衛文麿(服毒自殺)もいます。

最後に、東京タワーの完工式です。東京タワーは東京都港区芝公園4丁目にある集約電波塔です。この塔の建設に先立ち「日本電波塔株式会社」が設立され、建築設計の構造学を専門とする学者の内藤多仲と日建設計株式会社が共同で塔の設計を行いました。内藤多仲は当時話題を提供していたドイツのシュツットガルトテレビ塔(216.6m)を参考に鉄筋コンクリートの塔を想定した検討を行いましたが、特に基礎に関して敷地の関係など、かなりの困難が伴うとの判断から鉄塔で計算を進める方針となりました。前田久吉は「建設するからには世界一高い塔でなければ意味がない。1300年も前に既に高さ57メートルもある立派な塔(五重塔)が日本人の手で出来たのである。ましてや科学技術が進展した今なら必ず出来る」と高さの意義を強く主張し、設計の条件としてアンテナを含めた塔の高さが380メートル、高所に展望台を設置する。塔の下に5階建ての科学館をつくる事を挙げました。本来東京全域に電波を送るには380mの高さが必要とされていましたが、風の影響でアンテナが揺れて画像が乱れる可能性があったため、影響を受けずに且つ関東地方全部を守備範囲に出来るぎりぎりの寸法として、全高「333m」と偶然が続く語呂合わせのような高さになりました。この高さはフランス・パリのエッフェル塔の312mより21m高く、当時の自立式鉄塔としては世界最高でした。1957年5月から6月末までの約45日間でボーリング調査を行った時点では設計は未完成でした。短期間に完成させなければならないため、6月29日に増上寺の墓地を一部取り壊して既に設計の決まっていた基礎部の工事が開始されました。7月15日に最終的な設計図が完成し、9月21日には鉄骨の組み立てが始まりました。施工は竹中工務店、塔体加工は新三菱重工(現・三菱重工業)と松尾橋梁、鉄塔建築は宮地建設工業が請け負いました。当時の鳶の平均日給は500円、タワーでは750円でした。高さを増す毎に強風に苦しめられましたが、納期があるために風速15m/sまでは作業を実施しました。しかし、建設中の1958年6月30日午前10時に、昇っていた鳶職1人が強風に煽られて高さ61mから転落死し、麓にある増上寺で葬儀を行いました。着工から1年3か月後(543日間)の1958年12月23日、延人員219335人にて完成し、鉄塔本体の最上部に建設に携わった96人の技術屋たちの名前が刻まれた金属製の銘板が据えられました。総工費は当時の金額で30億円でした。「東京タワー」の名称は完成直前に開かれた審査会で決定しました。事前に名称を公募し、最終的には86269通の応募が寄せられました。一番多かった名称は「昭和塔」で、続いて「日本塔」「平和塔」でした。しかし、名称の査会に参加した徳川夢声が「ピタリと表しているのは『東京タワー』を置いて他にありませんな」と推挙し、その結果10月9日に「東京タワー」に決定しました。「東京タワー」での応募は223通(全体の0.26%)で、抽選で神奈川県の小学校5年生の女生徒に賞金10万円が贈られました。なお東京タワーの塗装作業にビートたけしの父・北野菊次郎が携わっていました。こうして、東京のシンボル・観光名所となった東京タワーは完成しました。2012年12月14日に文化審議会は、戦後日本の復興と高度経済成長の象徴として親しまれてきた東京タワーを、登録有形文化財にするように申請しました。2013年6月21日、国の「登録有形文化財」に登録されました。今後は「東京スカイツリー」のバックアップ機能を担うとともに、文化財として後世に引き継がれる事になります。

今日の誕生日:村上冬樹、明仁上皇(第125代天皇)、水森亜土、中津文彦、笑福亭鶴瓶、前田竹千代(元チャンバラトリオ)、庄野真代、原田悠里、綾辻行人、宮部みゆき、城之内ミサ、武藤敬司、野村万蔵、山崎まさよし、柴田倫世、柏原収史、矢田亜希子、大谷みつほ、なちゅ(元SDN48)、倉科カナ、樫野有香(Perfume)、亀井絵里(元モーニング娘。)、林直次郎(平川地一丁目弟)、橘ゆりか(元アイドリング!!!19号)、小島瑠璃子、坂口渚沙(AKB48)、ノッポン

今日の記念日:上皇誕生日、東京タワー完成の日、テレホンカードの日、クリスマスイブイブ

今日の「今日訓」:本日は、上皇誕生日です。「クリスマス・イヴ」の前日である事から「クリスマスイブイブ」、1958年、東京都港区芝公園に「東京タワー」が完成した事で「東京タワー完成の日」、最初のカード式公衆電話が始動した日なので「テレホンカードの日」となりました。
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