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2021年12月22日00:21

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12月22日の日記

今日の出来事:1185年−鎌倉幕府による守護・地頭の設置が後白河法皇によって認められる、1629年−紫衣事件:後水尾天皇が明正天皇に譲位、称徳天皇以来859年ぶりの女性天皇誕生、1868年−小諸騒動、1885年−日本で内閣制度が発足し、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任

今日は、守護・地頭の設置です。「守護」は、鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官です。令外官である追捕使が守護の原型で、後白河法皇が源頼朝に「守護・地頭」の設置と任免権を認めた事によって、幕府の職制に組み込まれました。将軍により任命され、設立当時の主な任務は在国の「地頭」の監督でした。鎌倉時代は「守護人奉行」といい、室町時代には「守護職」といいました。軍事・警察権能だけでなく、経済的権能を獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった「守護」が「守護大名」となりました。「守護大名」による領国支配の体制を「守護領国制」といいます。さらに「守護大名」の一部は「戦国大名」となりました。室町幕府滅亡後、織豊政権成立により「守護」は置かれなくなり「守護制度」が自然消滅しました。「地頭」は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職です。「地頭職」といい、「守護」とともに設置されました。平氏政権期以前から存在しましたが、源頼朝が朝廷から認められて正式に全国に設置しました。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理しました。江戸時代でも領主の事を「地頭」と呼びました。幕府が御家人の所領支配を保証する事を「本領安堵」、幕府が新たに所領を与える事を「新恩給与」、いずれも「地頭職」への補任という手段を通じて行われました。「地頭職」への補任は、所領そのものの支給ではなく、所領の管理・支配の権限を認める事を意味していました。所領を巡る紛争(所務沙汰)の際には、幕府の保証する「地頭」の地位だけでは十分ではありませんでした。「地頭」の中には荘園領主・国司から荘官、郡司、郷司、保司として任命される者もいました。「地頭」は、幕府及び荘園領主・国司からの二重支配を受けていました。
以下は守護大名の一覧です。
斯波氏(尾張・越前・遠江・越中・加賀・信濃)
畠山氏(河内・能登・越中・紀伊・山城)
細川氏(和泉・摂津・丹波・備中・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐)
一色氏(三河・若狭・丹後・伊勢(北)・志摩・山城・尾張)
赤松氏(摂津・播磨・美作・備前)
京極氏(出雲・隠岐・飛騨)
山名氏(但馬・因幡・伯耆・石見・備後・安芸・播磨・美作)
北畠氏(伊勢(南))
土岐氏(美濃・伊勢)
今川氏(遠江・駿河)
大崎氏(若狭・(陸奥))
伊達氏(陸奥(追加設置))
武田氏(甲斐・若狭・安芸)
小笠原氏(信濃)
上杉氏(相模・伊豆・上総・武蔵・上野・越後)
佐竹氏(常陸)
六角氏(近江)
仁木氏(伊賀)
宇都宮氏(下野)
小山氏(下野)
結城氏(下野)
千葉氏(下総)
富樫氏(加賀)
大内氏(石見・安芸・周防・長門・筑前・豊前)
河野氏(伊予)
渋川氏(肥前)
大友氏(豊後・豊前・筑後)
少弐氏(筑前・肥前・豊前)
阿蘇氏(肥後)
菊池氏(肥後)
島津氏(日向・大隅・薩摩)
宗氏(対馬)
興福寺(大和)

次に、紫衣事件です。紫衣とは紫色の法衣や袈裟で、古くから宗派を問わずに高徳の僧・尼が朝廷から賜りました。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもありました。1613年、幕府は寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」を定め、さらにその2年後には「禁中並公家諸法度」を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授ける事を禁じました。幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えました。これを知った江戸幕府3代将軍・徳川家光は、事前に勅許の相談がなかった事を法度違反とみなし、多くの勅許状の無効を宣言しました。京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じました。幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にする事に強く反対しました。大徳寺住職・沢庵宗彭や前住職の宗珀、妙心寺の東源慧等、単伝ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出しました。1629年、幕府は反抗した高僧、沢庵を出羽国上山に、宗珀を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へと各々流罪としました。この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示しました。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった「征夷大将軍」とその「幕府」が、「天皇」よりも上に立ったという事を意味しました。後水尾天皇は、この「紫衣事件」と徳川家光の乳母・春日局が朝廷に参内するなどの、天皇の権威を失墜させる江戸幕府の行いに耐えかねて、二女・興子内親王(明正天皇)に譲位しました。興子の母は徳川秀忠の娘・東福門院和子でした。これは、古代より「天皇となった女性は即位後、終生独身を通さなければならない」という「しきたり」がありました。この決まりは元来、皇位継承の際の混乱を避けることが主要な意図でしたが、後水尾天皇はこの不文律を利用し、皇室から徳川の血を排除し、後世までその累が及ばぬようにするという意図をもって、娘でまだ7歳の明正天皇を即位させました。これにより称徳天皇以来859年ぶりに女帝が誕生しました。後水尾上皇は以後、霊元天皇までの4代の天皇の後見人として院政を行いました。1632年、大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海や柳生宗矩や祖心尼の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許されました。沢庵が柳生宗矩に与えた書簡を集めた「不動智神妙録」は、「剣禅一味」を説き、禅で武道の極意を説いた最初の書物です。沢庵は江戸に出て、神田広徳寺に入りました。しかし、京に帰る事は許されず、駒込の堀直寄の別宅に身を寄せて1634年まで留まりました。その後、宗珀とともに大徳寺に戻った後、将軍・徳川家光が上洛しました。天海や柳生宗矩・堀直寄の強い勧めで、沢庵は家光に謁見しました。こうして家光は、沢庵に深く帰依するようになりました。翌年に家光に懇願されて再び江戸に下りました。沢庵は江戸に留まる事を望みませんでしたが、家光の強い要望により、帰郷できませんでした。1639年、家光は萬松山東海寺を創建し、沢庵を住職としました。家光は政事に関する相談を度々、行いました。沢庵は最終的に「紫衣事件」で幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らへ紫衣を完全に奪還し、無住状態の大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯を揺らぎないものにしたのです。大根の漬物である「沢庵漬け」は沢庵が考案しました。徳川家光が東海寺に沢庵を訪れた際、「大根のたくわえ漬」を供したところ、家光が気に入り「たくわえ漬にあらず沢庵漬なり」と命名しました。こうして江戸に「沢庵漬け」が広まりました。1646年1月27日、沢庵は江戸で没しました。「墓碑は建ててはならぬ」の遺誡を残しましたが、円覚山宗鏡寺 (兵庫県豊岡市出石町)と萬松山東海寺(東京都品川区)に墓があります。

その次に、小諸騒動です。小諸騒動は、水戸藩の「天狗党」が小諸領内を通過した時の対応を発端に起きた人事に関する不満と、藩主の家督を巡る争いです。長岡藩主・牧野氏の奉行格加判であった河井継之助が騒動調停の為、小諸城に登城した事でも知られています。1868年12月22日、国家老・真木則道、城代家老・牧野成道、奉行・高崎郁人、奉行・高栗儀人ら4名を、加藤成美、牧野成賢らが藩主に虚偽の報告をして斬首し、家族を追放処分にしました。この処分に不満な者達は、長岡藩へ訴え出ました。小諸藩の騒動を懸念した長岡藩は、河井継之助を派遣して調停を図る事にしました。そして、全ての家臣の処分を無効にしました。この騒動で、小諸藩主・牧野康済は謹慎、加藤成美は永禁固、牧野成賢は禁固刑に処せられました。斬首された4名の名跡再興が認められ、長岡藩主・牧野氏の家臣が小諸藩大参事に就任しました。その他、多くの家臣が処罰されました。

最後に、内閣制度が発足、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任です。明治維新後、古代の「律令制」を参考にして新たに設置された太政官を国政の最高機関とした「太政官制」が採られました。1873年の「官制改革」では、太政官正院に置かれた太政大臣と参議から構成される合議体である「内閣」が国政全般にわたる意思決定機関とされました「太政官内閣制」。また、参議と省卿が分離しているという問題は、「明治六年政変」後に「参議省卿兼任制」を採用する事で解決を図りました。これらの改革は天皇に対する輔弼と執行の一体化を指向するもので、後の内閣制度につながるものでした。1881年10月12日、明治天皇が出した「国会開設の詔」の中で、1890年を期して「國會」(議会)の開設を目指すと表明しました。政府の中心で「立憲主義体制」の整備を図っていた伊藤博文らは、「太政官制」に替わる新たな政府機構の策定に取り組みました。1885年12月22日に、「太政官達第69号」が発せられ、「太政官制」を廃止して内閣総理大臣と各省大臣による「内閣制」が定められ、ここに「内閣制度」が始まりました。内閣書記官長は、太政官内閣制の時期に非常設の官職として設置されましたが、内閣制発足後も引き続き置かれました。同時に「内閣職権」が制定され、形式的には内閣総理大臣に強い権限が与えられたものの、実際には藩閥間の勢力が拮抗し、内閣が強い指導力を発揮する事はできませんでした。内閣の組織には宮内大臣は含まれず、「宮中(宮廷)」と「府中(政府)」の別が明定されました。初代・内閣総理大臣には、長州藩出身の参議・伊藤博文が就任しました(第1次伊藤内閣)。内閣総理大臣は1871年以来、三条実美が務めてきた太政大臣とは異なり、公卿が就任するという慣例が適用されず、どのような身分の出自の者であっても国政のトップに立つ事ができました。内閣制度は各省大臣の権限を強め、諸省に割拠して力をつけた専門的な官僚をコントロールできる大臣の主導権を確立しました。
以下が初代内閣名簿(第1次伊藤内閣)です。
内閣総理大臣:伊藤博文(宮内大臣を兼任)
外務大臣:井上馨
内務大臣:山県有朋
大蔵大臣:松方正義
陸軍大臣:大山厳
海軍大臣:西郷従道
司法大臣:山田顕義
文部大臣:森有礼
農商務大臣:谷干城
逓信大臣:榎本武揚

今日の誕生日:安徳天皇(第81代天皇)、黒田孝高(官兵衛・如水)、ジャコモ・プッチーニ、塚原光男、ロビン・ギブ(元ビージーズ)、モーリス・ギブ(元ビージーズ)、榊原広子(ダ・カーポ)、村上弘明、吉村明宏、江原啓之、高知東生、中野英雄、さとうふみや、国生さゆり(元おニャン子クラブ)、森田まさのり、飯尾和樹(ずん)、白島靖代、安めぐみ、依布サラサ、忽那汐里、清野桃々姫(BEYOOOOONDS)

今日の記念日:改正民法公布記念日、酒風呂の日、スープの日

今日の「今日訓」:本日は、1947年に「民法」の第4編と第5編を全面改正する「改正民法」が公布されました。これにより、家父長制の家族制度が廃止され、戸籍が夫婦単位となりました。これを記念して「改正民法公布記念日」、「いつ(12)もフーフー(22)」の語呂合わせで「スープの日」となりました。
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