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2021年12月20日00:15

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12月20日の日記

今日の出来事:1857年−吉田松陰が松下村塾を開講、1858年−錦江湾入水、1904年−三越呉服店創立、三井との連名で「デパートメントストア」宣言を行う、1914年−東京駅開業、1962年−首都高速開通

今日は、吉田松陰が松下村塾を開講です。松下村塾は、長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に設立された木造瓦葺き平屋建ての小舎で、当初からあった八畳の一室と、後に杉家の母屋を増築した十畳半の部分からなっています。松陰の叔父・玉木文之進が1842年に自宅で私塾を開き、「松下村塾」と名付けました。吉田松陰もここで学びました。松陰の外叔・久保五郎左衛門がその名を継承し、子弟の教育にあたりました。1857年に藩校「明倫館」の塾頭を務めた吉田松陰が引き継ぎましたが、1858年に松陰が野山獄に再投獄されると廃止されました。武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れました。藩校「明倫館」は士分と認められた者しか入学できず、町・農民はもちろん、武士に仕えながら卒(卒族)、軽輩と呼ばれた足軽・中間なども入学できなかったのとは対照的でした。短期間しか存在しませんでしたが、「尊王攘夷」を掲げて京都で活動した人物や、「明治維新」で新政府に関わる人間を多く輩出しました。塾生は約50名ほどいました。著名な門下生には、「尊王攘夷」、「倒幕」の全国志士の総元締の役割を果たした久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、寺島忠三郎、この人々の死んだ後を受け継いで藩論を「倒幕」にまとめ、征長の幕府軍を打ち破った高杉晋作がいました。高杉晋作、久坂玄瑞は、「識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」と呼ばれました。この2人に吉田稔麿を入れて「松陰門下の三秀」と言い、さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称されました。これら直門の高弟の衣鉢を継いで、末弟子の伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、松本鼎、岡部富太郎らが、明治政府の最高指導者となりました。他の門下生には、「萩の乱」を起こした前原一誠や飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎、時山直八、駒井政五郎、中村精男、玉木彦助、飯田正伯、杉山松助、久保清太郎、生田良佐、宍戸璣(山県半蔵)らがいます。桂小五郎(後の木戸孝允)は塾生ではないのですが、「明倫館」時代の松陰に兵学の教えを受けています。なお、吉田松陰の「松下村塾」は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」でした。講師には松蔭の他に富永有隣がいます。松下村塾は「明治維新」の後に復活し、1892年まで存続しました。萩市の松陰神社の境内には、修復された当時の建物があります。2009年1月5日に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一つとして世界遺産暫定リストに追加掲載されました。2015年の審議にむけて、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」という名称で、2014年1月29日に正式推薦され、2015年7月5日「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の名称で世界文化遺産に登録されました。

次に、錦江湾入水です。月照は、大坂の町医者の長男として生まれました。1827年、叔父・蔵海の伝手を頼って京都の清水寺成就院に入りました。1835年、成就院の住職になりました。しかし、「尊皇攘夷」に傾倒して京都の公家と関係を持ちました。徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派に与したため、大老の井伊直弼から危険人物と見なされました。西郷隆盛と親交があり、西郷が尊敬する島津斉彬が急死した時、殉死しようとする西郷に対し止めるように諭しました。その後、「安政の大獄」で追われる身となり、西郷隆盛と共に京都を脱出して薩摩藩に逃れましたが、藩では厄介者である月照の保護を拒否し、日向国送りを命じられました。これは、薩摩国と日向国の国境で月照を斬り捨てるという意味でした。月照・西郷隆盛らは乗船しましたが、前途を悲観して死を覚悟し、12月20日夜半、西郷と共に錦江湾の竜ヶ水沖で入水しました。すぐに平野国臣らが救助しましたが、月照は死亡しました。西郷隆盛は奇跡的に一命を取り留めて蘇生しましたが、回復に一ヶ月近くかかりました。藩当局は死んだものとして扱い、幕府の捕吏に西郷と月照の墓を見せると、捕吏は月照の下僕・重助を連れて引き上げました。辞世の句は「大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも」です。薩摩藩は、幕府の目から隠すために西郷隆盛の職を免じ、奄美大島に潜居させる事にしました。菊池源吾(熊本の菊池氏を祖としていたので、吾が源は菊池なりという意味で付けられた。)と変名して、鹿児島から山川郷へ出航しました。1859年、伊地知正治・大久保利通・堀仲左衛門等に後事を託して山川港を出航し、七島灘を乗り切り、名瀬を経て、潜居地の奄美大島龍郷村阿丹崎に着きました。龍家の一族、佐栄志の娘・愛加那を島妻としました。留守家族にも家計補助のために藩主から下賜金が与えられました。三弟の竜庵が表茶坊主から還俗して信吾(後の従道)と名乗りました。1860年には愛加那との間に菊次郎が誕生しました。1861年、島津久光は公武周旋に乗り出す決意をして重臣の更迭を行い、小納戸役の大久保利通・堀仲左衛門らの進言で西郷隆盛に召還状を出しました。西郷隆盛は召還状を受け取ると、世話になった人々への挨拶を済ませ、愛加那の生活が立つようにした後、1862年に阿丹崎を出帆して、口永良部島・枕崎を経て鹿児島へ着きました。生きている事が幕府に発覚しないように大島三右衛門(大島に三年住んでいたという洒落)と改名しました。下関の白石正一郎宅で平野国臣から京大坂の緊迫した情勢を聞いた西郷隆盛は、村田新八・森山新蔵を伴って大坂へ向けて出航し、激派志士たちの京都焼き討ち・挙兵の企てを止めようと試みました。しかし、姫路に着いた島津久光は、西郷が待機命令を破ったこと、堀仲左衛門・海江田信義から西郷が志士を煽動していると報告を受けた事から激怒し、西郷隆盛・村田新八・森山新蔵の捕縛命令を出しました。捕縛された西郷隆盛らは、鹿児島へ向けて船で護送されました。島津久光は、伏見の寺田屋に集結している真木和泉・有馬新七らの激派志士を鎮撫するため、奈良原繁・大山綱良らを寺田屋に派遣し、有馬新七ら8名を上意討ちにしました「第一次寺田屋事件」。護送されて山川港で待命中の西郷は、大島吉之助に改名させられて徳之島へ遠島、村田新八は喜界島へ遠島が命ぜられました。森山新蔵は船中で自刃しました。西郷隆盛は徳之島湾仁屋に到着した日、偶然にも愛加那が菊草を生みました。徳之島来島を知らされた愛加那が大島から子供2人を連れて西郷のもとを訪れました。久しぶりの親子対面を喜んでから数日後、さらに追い打ちをかけるように沖永良部島へ遠島する命令が届きました。薩摩では「生麦事件」を契機に起きた「薩英戦争」、幕府は薩摩の意見を取り入れて「文久の改革」で松平慶永が政事総裁職、徳川慶喜が将軍後見職、会津藩主・松平容保が京都守護職、桑名藩主・松平定敬が京都所司代となり、幕権を回復させました。長州藩の「下関事件」、奈良の「天誅組の変」と長州への「八月十八日の政変」から「七卿落ち」、但馬の「生野の変」など、開港に反対する攘夷急進派が抵抗をして幕権の失墜をはかりました。大久保利通や小松帯刀らの勧めで、西郷隆盛を赦免召還する事にしました。1864年、吉井友実・西郷従道らを乗せた蒸気船「胡蝶丸」が沖永良部島和泊に迎えに来ました。途中で大島龍郷に寄って妻子と別れ、喜界島遠島中の村田新八を伴って帰還の途につきました。鹿児島に帰った西郷隆盛は島津斉彬の墓参をし、村田新八と共に鹿児島を出帆し、京都に到着すると軍賦役(軍司令官)に任命されました。こうして「池田屋事件」が起こって「禁門の変」となり、西郷隆盛は会津藩と共に長州藩を叩きました。このため、長州藩からは「薩奸会賊」と呼ばれ、恨まれるようになったのです。

その次に、三越呉服店創立です。三越呉服店は、江戸時代の1673年に伊勢商人の代表格・三井家(伊勢国・松阪)の三井高利が江戸本町一丁目(現在の日本銀行所在地辺り)の小さな借り店舗に、呉服店「越後屋」を開業しました。「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名を馳せました。現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現し、当時は富裕層だけのものだった呉服を、広く一般市民のものにしました。1683年に「天和の大火(八百屋お七火事)」にあい、本町から駿河町に移転し、両替店(現在の三井住友銀行)を併置しました。現在の商号「三越」は、三井家の「三井」と創業時の「越後屋」からとったもので、1904年に「合名会社三井呉服店」から「株式会社三越呉服店」へ改称した時からのものです。この改称の案内の際に「デパートメントストア宣言」を行いました。これが日本での百貨店の歴史の始まりとなりました。日本橋本店は、東京都選定歴史的建造物に選定されています。

その次の次に東京駅開業です。東京駅は、東京の表玄関となるターミナル駅で、プラットホームの数が日本一多い駅です。在来線は地上5面10線と地下4面8線の合計9面18線、新幹線が地上5面10線、地下鉄は地下1面2線を有しており、面積は東京ドーム約3.6個分に相当します。赤レンガ造りの丸の内口駅舎は辰野金吾らが設計したもので、1914年に竣工、2003年に国の重要文化財に指定されました。「関東の駅百選」の認定駅でもあります。1889年に神戸まで全通した官設鉄道の新橋駅と、私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年の第9回帝国議会でこの新線の途中に中央停車場を建設する事が可決されました。施工は大林組が担当しました。「日清戦争」とその後の「日露戦争」が終わった1908年から建設工事が本格化し、1914年12月20日に開業しました。中央停車場は皇居の正面の原野に設定され、「東京駅」と名付けられました。1919年3月1日に中央本線が、1925年11月1日に東北本線が乗り入れ、1929年12月16日には東側の八重洲口が開設するなど、徐々に発展しました。しかし、「大平洋戦争」末期の「東京大空襲」では丸の内本屋の降車口に焼夷弾が着弾、大火災を引き起こしました。これによりレンガ造壁とコンクリート造床の構造体は残りましたが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われました。8月15日の終戦直後から修復体制を整えて計画を立案し、年末から1947年にかけて修復工事を行った結果、ほぼ現在の外観になりました。3つのドーム部分の外壁は修復しましたが、安全性に配慮してその他の焼失の著しかった3階部分内外壁は取り除いて2階建てに変更し、中央ドームは木造小屋組で元の形に復原、南北両ドームは丸型から台形に変更、軒蛇腹・パラペット・壁面・柱型・窓枠などは2階建てになっても忠実に復元し、南北ドーム内のホール天井はローマのパンテオンを模したデザインに変更しました。できるだけ早期に本格的な建て直しをするつもりで「4、5年もてば良い」とされた修復工事でしたが、占領軍の要求で突貫で進める中で、当時の鉄道省の建築家・伊藤滋や松本延太郎、工事を行った大林組の日夜の努力で、出来るだけ日本の中央駅として恥ずかしくないデザインによる修復をしました。一方、1929年12月16日には八重洲口が開設されました。1948年11月16日にモダンデザイン建築の八重洲駅舎が竣工しましたが、翌1949年4月29日に失火で焼失してしまいました。1954年10月14日に駅舎が建て替えられ、八重洲本屋が完成しました。八重洲口はその後も順次改築されて百貨店が出店し、地下街が拡がるなど賑やかになっていきましたが、丸の内側はレンガ造りのままでした。1964年10月1日に東海道新幹線が開業し、1972年7月15日には総武線地下ホーム、1990年3月10日には京葉線地下ホームが営業を開始、1991年6月20日には東北新幹線が当駅に乗り入れるなど、東京駅は順次拡大してきました。2003年2月、JR東海・丸の内中央ビル開業、2004年4月4日、東日本キヨスクが当駅内にある東京みやげ専門店「東京銘品館」をオープン、2007年3月8日、日本橋口に「サピアタワー」がオープン、10月25日、中央地下コンコースにエキナカ商業施設「グランスタ」がオープン、11月6日、八重洲口のツインタワー「グラントウキョウ ノースタワー」と「グラントウキョウ サウスタワー」がオープン、2010年3月28日、改札内1階にエキナカ商業施設「エキュート東京」がオープン、12月4日,改札内1階にエキナカ商業施設「グランスタダイニング」がオープン、2011年3月20日、京葉線連絡通路にエキナカ商業施設「Keiyostreet」グランドオープン、3月23日、グランルーフ南部先行開業、2012年8月22日、戦災以来、失われていた丸の内駅舎南北ドームの時計をこの日の14時に復旧、こうして2012年10月1日に復原工事が完成してグランドオープンとなりました。復原駅舎は地上3階(一部4階)、地下2階建、延べ床面積約4万3000平方メートルで、このうち駅施設とトラベルサービスセンターが約7800平方メートル、ホテルが約2万800平方メートル、ギャラリーが約2900平方メートル、地下駐車場が約3600平方メートル、設備室などが約7900平方メートルとなっています。同時に「東京ステーションギャラリー」が再オープン、改札内1階にエキナカ商業施設「セントラルストリート」がグランドオープン、北ドーム内に外国人観光客向けの「JR EAST Travel Service Center」を開設しました。10月3日、「東京ステーションホテル」が再オープンしました。2013年9月20日、八重洲口にグランルーフが完成しました。宇都宮線、高崎線や常磐線などの列車が1973年の打ち切り以来、東京駅への乗り入れが廃止となっていました。これを、東北新幹線の線路に神田付近で重層化を行う事により、再び東京駅へ乗り入れ、東海道線との直通運転を開始しました。これは「東北縦貫線計画」と呼ばれていましたが、「上野東京ライン」となりました。当初は2013年度開業の予定でしたが、「東日本大震災」の影響などにより遅れ、2015年3月14日に完成しました。また、2014年には東京駅開業100周年を迎えました。

最後に、首都高速開通です。東京に高速道路を建設する構想は「太平洋戦争」以前から存在していましたが、本格的に検討されるようになったのは「高度経済成長」が始まる1950年代後半になってからです。当時の東京では自動車の急増とともに各地で渋滞が頻発するようになり、放置すればやがて交通麻痺に陥ると予測されていました。政府はこの問題を解決するため、「首都高速道路」の建設を決定しました。
1959年6月17日:首都高速道路公団が誕生
1962年12月20日:京橋 - 芝浦(4.5km)均一料金制による料金徴収
1963年12月21日:本町 - 京橋 (1.9km)、芝浦 - 鈴ヶ森 (6.4km)、呉服橋 - 江戸橋JCT (0.6km)
1964年8月2日:鈴ヶ森 - 空港西 (4.6km)、汐留JCT - 新橋 (0.3km)、神田橋 - 初台 (9.8km)、呉服橋 - 初台 (10.2km)
1964年9月21日:三宅坂JCT - 霞ヶ関 (1.4km)
1964年10月1日:浜崎橋JCT - 芝公園 (1.4km)、渋谷 - 渋谷 (1.3km)
1966年7月2日:京橋JCT (0.1km)
1966年12月21日:空港西 - 羽田 (0.9km)、1号(羽田)線完成
1967年3月30日:竹橋JCT - 西神田 (1.2km)
1967年7月4日:芝公園 - 霞が関JCT (3.7km)、「都心環状線」が完成
1967年9月2日:谷町JCT - 渋谷 (2.7km)
1967年9月30日:一ノ橋JCT - 戸越 (5.9km)、2号(目黒)線完成
1968年7月19日:東神奈川 - 浅田 (6.8km)
1968年11月28日:浅田 - 羽田 (6.9km)
1969年5月31日:入谷 - 本町 (3.6km)、1号(上野)線完成
1969年6月27日:西神田 - 護国寺 (3.9km)
1969年12月19日:護国寺 - 北池袋 (3.0km)
1971年3月21日:江戸橋JCT - 向島 (7.9km)、両国JCT - 京葉道路接続部(10.4km)、7号(小松川)線完成、京葉道路と接続
1971年12月21日:渋谷 - 東名高速接続部 (7.9km)、3号(渋谷)線完成、東名高速と接続
1972年8月7日:東神奈川 - 横浜駅西口 (2.2km)
1973年2月15日:西銀座JCT - 神田橋JCT(1.6km)、八重洲線完成
1973年8月15日:永福 - 高井戸 (2.5km)
1973年10月27日:初台 - 永福 (4.0km)
1976年5月18日:中央道接続部 (0.7km)、4号(新宿)線完成、中央道と接続
1976年8月12日:大井 - 13号地(現: 臨海副都心)(2.8km)
1977年8月19日:北池袋 - 高島平 (8.6km)
1978年1月20日:新木場 - 浦安 (6.0km)
1978年3月7日:横浜公園 - 金港JCT (4.0km)、横浜駅西口 - 第三京浜接続部(1.8km)、神奈川2号(三ッ沢)線完成
1980年2月5日:箱崎JCT - 新木場 (7.0km)、9号(深川)線完成
1981年5月19日:有明 - 辰巳JCT (1.7km)
1982年3月30日:向島 - 千住新橋 (5.2km)、6号(向島)線完成
1982年4月27日:浦安 - 東関東道接続部 (6.9km)、東関東道と接続
1983年2月24日:大井 - 東海JCT (5.1km)
1983年11月30日:堀切JCT - 四つ木 (1.4km)
1984年2月2日:新山下 - 横浜公園 (1.8km)、神奈川1号(横羽)線完成
1984年12月12日:臨海副都心 - 有明 (1.8km)
1985年1月24日:小菅JCT - 三郷JCT (10.6km)、6号(三郷)線完成、常磐道へ接続
1987年9月9日:四つ木 - 葛西JCT (11.2km)、中央環状線東側完成、千住新橋 - 川口JCT (16.5km)、川口線完成、東北道へ接続
1989年9月27日:生麦JCT - 新山下JCT (8.8km)、神奈川5号(大黒)線完成、横浜ベイブリッジ開通
1989年12月26日:大井JCT新設
1990年3月20日:石川町JCT -横横道路接続部(7.7km)、神奈川3号(狩場)線完成、横横道路へ接続
1990年11月27日:高島平 - 戸田南 (2.6km)
1993年8月26日:芝浦JCT - 有明JCT (5.0km)、11号(台場)線、レインボーブリッジ開通
1993年9月27日:空港中央 - 東海JCT (4.2km)
1993年10月26日:戸田南 - 美女木JCT (2.2km)、5号(池袋)線完成、外環道と接続
1994年12月21日:大黒JCT - 空港中央 (16.4km)
1997年12月18日:川崎浮島JCT完成、東京湾アクアラインと接続
1998年5月18日:美女木JCT - 与野 (8.0km)、埼玉大宮線開通
1999年7月15日:横横道路接続部 - 杉田 (3.5km)、三渓園(仮)- 本牧ふ頭(4.1km)2000年4月17日:新都心西出入口開通、
2001年10月22日:杉田 - 三渓園 (7.0km)、湾岸線全線開通
2002年4月30日:川崎浮島JCT - 殿町 (3.5km)
2002年12月25日:板橋JCT - 江北JCT (7.1km)、中央環状線北側完成
2004年5月26日:与野 - 新都心 (2.3km)
2005年10月1日:首都高速道路(株)設立
2006年8月4日:新都心 - さいたま見沼 (3.5km)、埼玉新都心線完成
2007年12月22日:中央環状線西新宿JCT - 熊野町JCT (6.7km) 開通、湾岸線の13号地が臨海副都心へ改称
2009年2月11日:高速10号(晴海)線 豊洲 - 東雲JCT (1.5km) 開通
2009年3月29日:大師出入口(横浜方面)開通
2010年3月28日:中央環状線大橋JCT - 西新宿JCT (4.3km) 開通
2010年10月20日:大師JCT - 殿町(2.0km)、神奈川6号(川崎)線開通
2012年1月1日:距離別料金制へ移行
2012年12月20日:開通50周年
2013年4月1日:10号晴海線豊洲出入口に首都高初の自動精算機を設置
2015年3月7日:中央環状線大井JCT−大橋JCT(9.4km)開通し、中央環状線全線開通
2017年3月4日:湾岸線南本牧ふ頭出入口開通
2017年3月18日:神奈川7号横浜北線生麦JCT−横浜港北JCT(8.2km)開通
2018年3月10日:10号晴海線晴海−豊洲(12km)開通
2020年3月22日:神奈川7号横浜北西線横浜港北JCT−横浜青葉JCT(7.1km)開通

今日の誕生日:藤本定義、黒澤久雄(元ブロード・サイド・フォー)、ユリ・ゲラー、トミー・スナイダー(ゴダイゴ)、野田秀樹、池森秀一(DEEN)、横山智佐、荻原健司、荻原次晴、浅越ゴエ(ザ・プラン9)、桜井幸子、Die(Dir en grey)、増川弘明(BUMP OF CHICKEN)、 コージ(ブリリアン)、外崎修汰、中元すず香(BABYMETAL)、井沢守

今日の記念日:人間の連帯国際デー、霧笛記念日、デパート開業の日、シーラカンスの日、鰤の日

今日の「今日訓」:本日は、多様性の中での人類の連帯を祝い、2000年に定められたミレニアム開発目標の達成に向けて団結の重要性を思い起こす日で「人間の連帯国際デー」、1879年、尻屋埼灯台(青森県東通村)に蒸気式霧笛が採用された事を記念して「霧笛の日」、1904年、東京・日本橋の「三井呉服店」が「三越呉服店」と改称し、日本初のデパート営業を開始した事で「デパート開業の日」、1952年、コモロ諸島のアンジュアン島でシーラカンスが捕獲された事で「シーラカンスの日」、魚偏に師と書く「ブリ」は師走の魚でぶ(2)り(0)の読む語呂合わせで「鰤の日 」となりました。
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