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2021年12月17日00:58

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12月17日の日記

今日の出来事:今日の出来事:1488年−長享の乱:高見原の戦い、1880年−東京・京橋で最後の仇討ち事件、1902年−教科書疑獄事件、1903年−ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功、1944年−バルジの戦い:マルメディ虐殺事件、1994年−古都京都の文化財が世界遺産に登録

今日は、長享の乱:高見原の戦いです。山内・上杉顕定は、「実蒔原の戦い」、「須賀谷原の戦い」で扇谷・上杉定正に敗れました。上杉定正は、1488年12月に古河公方・足利政氏と長尾景春に援軍を請い、総勢2000の軍勢で出陣しました。一方、上杉顕定も3000の軍勢で出陣しました。両軍は、武蔵の高見原(現・埼玉県小川町)、鷹野原(同・寄居町)で激突しました。山内・上杉顕定の軍が総崩れとなり、鉢形城に敗走しました。

次に、最後の仇討ち事件です。秋月藩執政・臼井亘理は、大久保利通からも嘱望されるほどの開明派でしたが守旧派の反感を買い、国家老・吉田悟助の命を受けた「干城隊」の襲撃を受け、妻ともども残忍に殺害されました。藩の裁定は臼井殺害の犯人を罰せず、臼井家を罰する不合理なもので、臼井亘理の息子・臼井六郎は周囲の反対にもかかわらず、「敵討ち」の決意を固めました。その後、明治の時代となり1873年2月、司法卿・江藤新平が出した「復讐禁止令」により「敵討ち」は禁止されました。武士は士族となり、「廃刀令」によって帯刀も認められず、自らの存在意義を見失おうとしていました。法務省の判事となっていた父の仇・一瀬直久の手がかりを追うため、臼井六郎は上京しました。殺害現場を目撃した下女・なかは、福岡県庁に給仕として入って情報を集め、臼井六郎を影ながらに助けていました。一瀬直久は新政府で裁判所判事となり、静岡に居ると聞いて臼井六郎は静岡へ行きましたが、既に東京へ転勤になっていました。臼井六郎は、一瀬直久の行方を探りながら、北辰一刀流・山岡鉄舟の元で剣の腕を磨き、機会を窺っていました。そしてたまたま、旧藩主・黒田長沖邸で毎月1回、旧秋月藩士を集めて碁会が開かれ、一瀬直久もそこに来ている事を聞きました。明治13 年12月17日、臼井六郎は黒田邸を物陰から見張り、一瀬直久が館へ入るのを見るとすかさず後を追い、階段を上りかけた一瀬直久に向か って「親の敵、覚悟せい。」と叫びました。一瀬直久は最初ぎょっとした顔をしましたが、すぐ翻して階段を駆け上ろうとしました。そこで臼井六郎は後を追い、13年来の仇・一瀬直久に向かって短刀を突き立てました。引き抜いてはもう一度刺しました。それから頸動脈を切断 して一瀬直久が絶命した事を知ると、臼井六郎はゆっくりと館を出ました。親の仇討は、旧幕府時代であれば美談としてもてはやされて無罪放免でしたが、「仇討ち禁止令」が発布された今は罪人となりました。裁判の結果、死罪は免れましたが終身禁固刑に処せられました。模範囚だった事もあり、「帝国憲法」発布の祝典により、罪一等を減ぜられ、明治24年獄中生活約10年で釈放されました。これが日本最後の「仇討ち事件」として、記録されました。

その次に、教科書疑獄事件です。明治期の学校教科書は、当初は認可制でした。その後、政府が1886年に「教科用図書検定条例」を定め、翌1887年5月に「教科用図書検定規則」を定めた事で、教科書会社が発行した教科書を検定する制度が実施されるようになりました。当時の小学校教科書は、各道府県ごとに審査委員を配置し、道府県単位で検定された教科書の採択を行うようになりました。そのような状況の下で、教科書会社による採択働きかけや、売り込みなどの活動も激しくなっていきました。教科書採択をめぐって不正行為があるという疑惑は、たびたび新聞紙上で取り上げられるようになりました。1902年の秋、教科書会社の1つである普及舎の社長が、列車内に自分の手帳を置き忘れました。手帳に贈賄の事実関係が記されていた事から事件が発覚しました。12月17日、当局は教科書会社の金港堂・普及舎・集英堂・文学社など二十箇所を一斉に捜索し、金港堂社長・原亮一郎らを検挙しました。これを皮切りに贈収賄事件の一斉摘発が進められ、県知事や文部省の担当者、府県の採択担当者、師範学校校長や小学校長、教科書会社関係者など、40道府県200人以上が摘発されました。うち152人が予審に付され、116人が有罪判決を受けましたが、冤罪も多数含まれていました。また、「教科書疑獄事件」に関係した金港堂・集英堂・普及舎・冨山房・国光社などが発行する教科書は採択禁止となりましたが、文学社は無罪とされました。「教科書疑獄事件」発覚以前から、文部省は教科書国定化を計画していました。また帝国議会でも、事件発覚以前に複数回にわたり、教科書国定化の建議が提出されていました。事件の発覚により、政府は一気に教科書国定化を進める事となりました。事件発覚の翌年、1903年には小学校教科書国定化の法案が成立し、国定教科書が導入されました。

その次の次に、ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功です。ライト兄弟は、アメリカ出身の飛行機の発明者で、世界初の飛行機パイロットです。世界最先端のグライダーパイロットでもありました。自転車屋をしながら兄弟で研究を続け、1903年に飛行機による有人動力飛行に世界で初めて成功しました。ウィルバー・ライトとオーヴィル・ライトの兄弟は、1903年12月17日に、ノースカロライナ州のキティホークにあるキルデビルヒルズにて、12馬力のエンジンを搭載した「ライトフライヤー号」によって世界で初の有人動力飛行に成功しました。兄弟が初飛行に成功した時の写真は、2人に撮影を頼まれた海難救助所員のジョン・T・ダニエルズが撮ったものです。合計4回の飛行が試みられ、1回目:12秒、2回目:12秒、3回目:15秒、4回目:59秒の飛行に成功しました。これが、時代を新たに拓く事となりました。

そのまた次に、バルジの戦い:マルメディ虐殺事件です。1944年12月16日、ドイツ軍は「ラインの守り」作戦を発動しました。ベルギー南部からフランス東部に展開した連合軍に対し、ルントシュテット攻勢(連合国側の呼称「バルジの戦い」)として知られる大攻勢を開始しました。その翌日の12月17日、攻勢の主力を務める第6SS装甲軍の先鋒、ヨアヒム・パイパー親衛隊中佐が率いるパイパー戦闘団が、ベルギーのマルメディとリヌーヴィルの間で米第285砲兵観測大隊に遭遇しました。小戦闘の後にアメリカ軍部隊は降伏し、パイパーら部隊主力は進撃を再開しました。後には護衛隊と共に捕虜150人が十字路の近くの野原に集められ、武装解除され後方に送られるのを待つばかりとなっていました。一人の親衛隊将校がピストルを引き抜き、最前列に立っていた衛生兵を撃ち、次に隣に立っていた兵士を撃ちました。他の親衛隊員達も機関銃で銃撃に加わりました。捕虜の射殺は一般的で、両軍とも捕虜の殺害を行っていました。捕虜の多くは近くの森に逃げ、約72〜84人が死亡しました。彼らの死体はそのまま放置されました。アメリカ軍の偵察部隊がその夜に虐殺現場を発見し、ニュースは連合軍内に伝わりました。アメリカ軍は1945年1月13日に虐殺が発生した地点を奪還し、1月14日と15日に遺体が回収されました。戦後、パイパー戦闘団の内の武装親衛隊員は逮捕され、1946年5月にマルメディでの殺人容疑で裁判が行われました。 しかし、捕虜殺害がパイパーを始めとした独軍指揮官の命令によるものであると、立証される事はありませんでした。戦闘中に偶発的に起きた事件であり、多数の捕虜が虐殺されたのは事実ですが、計画的に行われたものではない、そのため、戦後に「マルメディ虐殺犯」として告発された74名の隊員は審理の結果、多くが死刑判決を受けましたが、後に減刑されて1956年までに全員が釈放されました。釈放後、パイパーは偽名でフランスに隠匿していましたが、1976年に正体が発覚して自宅に火炎瓶を投げ込まれて焼死しました。

最後に、古都京都の文化財が世界遺産に登録です。古都京都の文化財は、京都府京都市・宇治市、滋賀県大津市にある寺社などから構成されるユネスコの世界文化遺産です。登録されている遺産は、以下です。「賀茂別雷神社(上賀茂神社)」、「賀茂御祖神社(下鴨神社)」、「教王護国寺(東寺)」、「清水寺」、「延暦寺」、「醍醐寺」、「仁和寺」、「平等院」、「宇治上神社」、「高山寺」、「西芳寺(苔寺)」、「天龍寺」、「鹿苑寺(金閣寺)」、「慈照寺(銀閣寺)」、「龍安寺」、「西本願寺」、「二条城」現在、京都市を中心に以下の追加登録計画が持ち上がっています。「大徳寺と禅林寺(永観堂)」、この他に京都市が「京都御所」、「嵯峨野」、「嵐山一帯」の追加登録を目指しています。その他に「東山一帯」、「桂離宮」、「修学院離宮」についても検討されています。

今日の誕生日:藤原頼嗣(鎌倉幕府第5代将軍)、後宇多天皇(第91代天皇)、貝原益軒、フランシスコ(第266代ローマ教皇)、三島ゆり子、有藤通世、夏目雅子、假屋崎省吾、TARAKO、上祐史浩、有森裕子、西村知美、牧瀬里穂、佐々木恭子、ポーラ・ラドクリフ、KEN(DA PUMP)、川村エミコ(たんぽぽ)、バイク川崎バイク、大瀧彩乃(元チェキッ娘)、川久保拓司、水野良樹(いきものがかり)、福田明日香(元モーニング娘。)、ふくい舞、緒方龍一(w−inds.)、高梨臨、則本昂大、岩橋玄樹(元King & Prince)、宇野昌磨、川上千尋(NMB48)、佐々木美玲(日向坂46)、小野田紗栞(つばきファクトリー)

今日の記念日:飛行機の日、明治ブルガリアヨーグルトの日

今日の「今日訓」:1903年、アメリカ・ノースカロライナ州のキティホークで、ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功した事で「飛行機の日」、ヨーグルトの本場であるブルガリアから認められたヨーグルトとして、1973年12月17日に発売された「明治ブルガリアヨーグルトの日」となりました。
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