川崎大気汚染公害裁判原告の孫として、私は裁判という社会システムを、日記タイトルの通りに考えるに至っている。
裁判とは、正義の実在を諮問するシステムではない。
教会に神は居ない、寺に在るのは納骨堂だ。
正義も神仏も人間の心の内にある、それ等は謂わば幻想だ。
私の母は一時期、公害病で肺気腫を患う祖父の健康被害について
「国に謝ってほしかった」
と言っていた。
しかし、公害病原告団の裁判を起こしたその折にも、国と企業は謝罪の言葉と銭金を原告達に寄越してくれた。
私の両親は、金銭など欲しがってはいなかった。
公害病患者達は、裁判に訴えた時点で既に『健康』を失い『職』を失い『働ける身体』を喪っていた。
令和3年現在、川崎大気汚染公害裁判原告団の一員であった公害病患者の孫である私は、アレルギー疾患が病因で気管支喘息を患っている。
私は、誰を訴えれば良いのか?、教えて貰いたい。
私は運命を恨むべきか?、祖父を恨むべきなのか?、私を産み育てた両親を恨めば良いのか?、私が生まれ来た不運を呪えば良いのか?、それとも川崎という土地を憎むべきなのか?。
裁判が終決してから長い年月が過ぎたが私は、病に伏した私の祖父を詰り私の両親を貶した者達を、令和3年の今日現在に至っても憎み蔑み呪い恨んでいる。
他に私が恨み憎み呪うべき相手はさして存在しない。
赤木雅子さん「国はひきょう」
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=6778792
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