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2021年12月07日00:25

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12月07日の日記

今日の出来事:1868年−箱館戊辰戦争:七飯・大野・川汲峠の戦い、1869年−大村益次郎死去、1944年−昭和東南海地震、1995年−白川郷・五箇山の合掌造り集落が世界遺産に登録

今日は、箱館戊辰戦争:七飯・大野・川汲峠の戦いです。「峠下の戦い」で箱館府軍を破った旧幕府軍は、大鳥圭介が率いる本隊が到着して500人になりました。250人を人見勝太郎が率いて七飯へ進撃、残りは大鳥圭介が率いて大野に進軍する事になりました。一方、新政府軍には箱館府権判事の堀真五郎が到着し、指揮を執りました。堀真五郎は、長州藩士で「寺田屋事件」や「四境戦争」に関わりました。人見勝太郎の隊は七飯村を通過した所で待ち伏せを受けました。人見勝太郎は援護射撃隊を残して後退し、林の中に潜ませました。その後、援護射撃隊を後退させると追撃して来た新政府軍を伏兵で銃撃しました。新政府軍は、堀真五郎が負傷して五稜郭へ退却しました。ここで、新選組隊士・三好胖が戦死しました。三好胖は、江戸幕府老中で唐津藩主・小笠原長行の甥でした。大野村へ進軍した大鳥圭介隊は、福山藩、大野藩兵と遭遇しました。大鳥圭介は1時間程の戦闘で、新政府軍を撃破しました。そして、もう一隊の主力部隊・土方歳三隊は、砂原から鹿部に進軍し、仙台藩士・星恂太郎が率いる仙台藩兵からなる「額兵隊」を先鋒として、川汲峠に進軍させました。川汲峠で新政府軍と戦闘になり、これを撃破しました。川汲峠の敗報で、新政府軍は五稜郭からも撤退しました。こうして大鳥隊、土方隊は共に五稜郭へ入城します。

次に、大村益次郎死去です。大村益次郎は、「四境戦争」と「戊辰戦争」で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった人物です。太政官制で軍務を統括した兵部省の初代・大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者となりました。兵部卿(大臣)は仁和寺宮嘉彰親王でしたが、名目上だけの存在でした。大村益次郎が事実上、近代日本の軍制建設を指導しました。大村益次郎は「戊辰戦争」で参謀として活躍した「門弟」である山田顕義を兵部大丞に推薦し、彼に下士官候補の選出を委任しました。山田顕義は山口藩諸隊から中心に約100名を選出し、京都に設けられた河東操練所で下士官候補の訓練を開始しました。また、大村益次郎は、大阪に軍務官の大阪出張所を設置しましたが、同じく大阪城近くに兵部省の兵学寮を設け、フランス人教官を招いてフランス軍をモデルとする新しい軍を建設を始めました。このほか京都宇治に火薬製造所を、また大阪に造兵廠(大阪砲兵工廠)を建設する事も決定されました。このように着々と構築していた1869年、大村益次郎は軍事施設視察と建設予定地の下見のため、京阪方面に出張しました。京に着くと、伏見練兵場の検閲、宇治の弾薬庫予定地検分を済ませると、下阪しました。大阪では大阪城内の軍事施設視察、続いて天保山の海軍基地を検分しました。そして、京へ戻った翌日夕刻、大村益次郎は京都三条木屋町上ルの旅館で、長州藩大隊指令の静間彦太郎、大村の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、元長州藩士の神代直人、団伸二郎、太田光太郎、伊藤源助、五十嵐伊織、金輪五郎、宮和田進、関島金一郎ら8人の刺客に襲われました。静間彦太郎と安達幸之助は死亡、大村益次郎は重傷を負いました。その時の疵は前額、左こめかみ、腕、右指、右ひじ、そして右膝関節に負ったのですが、特に右膝の疵が動脈から骨に達するほどの深手でした。兇徒が所持していた「斬奸状」で、大村益次郎襲撃の理由が兵制を中心とした急進的な変革に対する強い反感にあった事が記されていました。大村益次郎は一命を取りとめましたが重傷で、山口藩邸へ移送されて数日間の治療を受けた後、傷口から菌が入って敗血症となりました。ボードウィン、緒方惟準らの治療を受け、大阪の病院(後の国立大阪病院)に転院と決まりました。大村益次郎は河東操練所生徒・寺内正毅(のち陸軍大将、総理大臣)、児玉源太郎(のち陸軍大将)らによって担架で運ばれ、高瀬川の船着き場から伏見で1泊の後、天満八軒屋に到着、そのまま鈴木町大阪仮病院に入院しました。ここで楠本イネやその娘の阿高らの看護を受けましたが、病状は好転せず、蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術を受ける事となりました。だが手術のための勅許を得る事で東京との調整に手間取り、「切断の義は暫時も機会遅れ候」と手遅れとなっていました。12月2日に手術を受けましたが、翌12月3日に敗血症による高熱を発して容態が悪化、7日の夜に死去しました。こうして新政府軍の軍師として「戊辰戦争」を指揮した大村益次郎は、「戊辰戦争」終結後のわずか半年で命を落としました。犯人は一人がその場で死亡、神代直人は逮捕時に自刃、残り6人も後に逮捕され、処刑されました。大村益次郎の軍制構想は山田顕義、船越衛、曾我祐準、原田一道、大島貞薫らによってまとめられ、兵部少輔・久我通久と山田顕義の連署で「兵部省軍務ノ大綱」として太政官に提出されました。

その次に、昭和東南海地震です。昭和東南海地震は、1944年12月7日午後1時36分、紀伊半島東部の熊野灘、三重県尾鷲市沖約20kmを中心とする震源で発生した巨大地震です。当初は「遠州灘地震」と呼ばれていましたが、東海地域の軍需工場が壊滅的な打撃を受けた事を隠すため、「東南海地震」に変更しました。1945年前後にかけて4年連続で1000名を超える死者を出した4大地震(鳥取地震、三河地震、南海地震)の一つです。東南海地震震源域で発生した前回の巨大地震「安政東海地震」から90年ぶりの発生となりました。当時、日本は「太平洋戦争」の最中で、軍需工場の被害状況などの情報が日本の国民や敵国に漏れる事を恐れた軍部は情報を統制しました。また翌8日が「真珠湾攻撃3周年(大詔奉戴日)」という事もあり、戦意高揚に繋がる報道以外の情報はより一層統制されました(12月8日の各紙の1面トップはいずれも昭和天皇の大きな肖像写真および戦意高揚の文章で占められていました)。地震についての情報は、1面ではない紙面の最下部のほうにわずか数行程度、申し訳程度に記載されただけで、しかも「被害は大したことはない」、「すぐに復旧できる」といった主旨の、実態とは大きくかけ離れた虚偽の内容が書かれていました。また、被害を受けた各地の住民には、被害について話さないようにとする戦時統制に基づく通達が行政側からまわりました。学徒動員され、半田市の中島飛行機の工場で働いていた少女は、同世代の友人が崩れ落ちてきた屋根の下敷きになって死亡するのを目撃して自身も死にかけましたが、そうした出来事・被害状況を「決して人に話さないように。話すことはスパイ行為に等しい。」などと、教師から指示されました。実際には日本の軍部のそのような狙いとは裏腹に、世界各国の震度計で地震は観測・記録されていたため地震は把握されており、翌日のアメリカ合衆国の主要紙は日本で大地震が発生した事を大きく伝えました。例えば、ニューヨークタイムズは「地球が6時間にわたって揺れ、世界中の観測所が、「破壊的」と表現した」と、大々的に報じました。「日本の中央部で大地震」といった見出しで、地域まで特定して見出しをつけたものもあります。この地震の状況を心理戦として「ドラゴーンキャンペーン作戦」として宣伝ビラ投下作戦を米軍が実行しました。また、連合国側は状況把握しており、特に軍需工場等の戦略拠点の被害状況を注視しました。地震による家屋の倒壊、地震直後に発生した津波により、三重県、愛知県、静岡県を中心に、推定1223名の死者・行方不明者を出しました。地震後の津波では震源域に近い尾鷲市を中心に熊野灘沿岸一帯に壊滅的な被害をもたらしました。この地域を震源とする大地震は周期性があり、21世紀前半にも次の地震が発生する可能性が高いとされています。

最後に、白川郷・五箇山の合掌造り集落が世界遺産に登録です。白川郷・五箇山の合掌造り集落は、飛越地方の白川郷と五箇山にある合掌造りの集落群です。1995年12月9日に「ユネスコの世界遺産(文化遺産)」に登録され、日本で6件目の「世界遺産」となりました。白川郷(岐阜県大野郡白川村)と五箇山(富山県南砺市)は、いずれも飛越地方庄川流域の歴史的地名で、白川郷は上流域、五箇山は中流域です。白川郷は荘白川ともいい、現在は岐阜県白川村と高山市荘川町に分かれています。五箇山は富山県の旧平村、上平村、利賀村の3村に含まれていましたが、現在はいずれも南砺市に属しています。「赤尾谷」、「上梨谷」、「下梨谷」、「小谷」、「利賀谷」の5つの谷からなるので「五箇谷間」となり、これが転じて「五箇山」の地名となりました。この地域は白山信仰の修験者や平家の落人伝説とも結びつきが深いです。日本は「世界遺産条約」を批准した1992年に、10件の「文化遺産」と2件の「自然遺産」を「世界遺産」の暫定リストに掲載しました。「白川郷・五箇山の合掌造り集落」は、そのうちの一つです。1994年9月に推薦書がユネスコの「世界遺産センター」に提出されました。史跡になっていた「相倉集落」と「菅沼集落」は、世界遺産登録を見据えて1994年12月に「重要伝統的建造物群保存地区」として選定されました。日本政府は推薦理由として、日本の木造建築群の中でもきわめて特異な要素、急勾配の屋根、屋根裏の積極的な産業的活用などを備えている事や、そのような集落が伝統的な大家族制などとともに稀少なものになってきており、保護の必要性がある事などを挙げました。また、日本では「法隆寺地域の仏教建造物」、「古都京都の文化財」に次ぐ3例目のシリアルノミネーションとなった事については、それが合掌造りの地域的な広がりを示すものであるとともに、地域ごとの差異を示す上でも好適としました。1995年12月の「第19回世界遺産委員会(ベルリン)」で初めて審議され、「世界遺産リスト」への登録が認められました。人が住み続けている村落で「世界遺産」に登録されたのは、「ホッローケー(ハンガリー)」、「ヴルコリニェツ(スロバキア)」に続いて3件目でした。「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として登録されたのは、「白川郷」や「五箇山」で「合掌造りの集落」が良好に残っている3集落、「白川郷の荻町集落」と「五箇山の相倉・菅沼の両集落」です。世界遺産登録後、急激に観光客が増加しました。五箇山は年間80万人、白川村は世界遺産登録前は年間観光客数が60万人でしたが、2002年には150万人を突破しました。
荻町集落:白川村の一部で、南北方向に約1500m、東西方向に350mの広がりを持っている集落です。状態の良い合掌造り住宅59棟が残り、明善寺庫裏の様式も合掌造りに分類されるため、これを含めて60棟です。「世界遺産」の登録面積は約3分の2を占めます。江戸時代末期から明治時代末期に建てられました。荻町の合掌造り家屋の中で特徴的なのは「和田家住宅」です。これは江戸時代に塩硝の取引で栄えた名主の家で、国の「重要文化財」に指定されています。
相倉集落:南砺市の旧平村に含まれる集落で、世界遺産登録の3集落では最も北にあります。南北方向に約500m、東西方向に約300mの広がりを持ち、20棟の合掌造り家屋が残る集落です。現在残る合掌造り家屋は、主として江戸時代末期から明治時代末期に建てられたものです。
菅沼集落:南砺市の旧上平村に含まれる集落です。南北方向に約230m、東西方向に約240mという広がりを持ち、9棟の合掌造り家屋が残る集落です。合掌造り家屋のうち、江戸時代末期に建てられたのは2棟で、6棟は明治時代に建てられ、残り1棟は大正時代末期の1925年に建てられました。

今日の誕生日:吉川広家、西園寺公望(第12・14代内閣総理大臣)、与謝野晶子、草鹿任一、古舘伊知郎、森博嗣、滝本晃司(元たま)、角田美喜(SHOW−YA)、菊地英昭(THE YELLOW MONKEY)、尾美としのり、香川照之、伊藤かずえ、林泰文、いしだ壱成、鈴木拓(ドランクドラゴン)、市川寛子、藤谷文子、宮本笑里、桜田通、羽生結弦、藤咲彩音(でんぱ組.Inc)、前田旺志郎(まえだまえだ)、若林源三

今日の記念日:大雪、国際民間航空デー、神戸開港記念日、クリスマスツリーの日、世界KAMISHIBAIの日

今日の「今日訓」:本日は、二十四節気の一つ「大雪」です。「雪いよいよ降り重ねる折からなれば也」と、雪が激しく降り始める頃です。1868年、神戸港が外国船の停泊地として開港した事で「神戸開港記念日」、1886年に、横浜で外国人船員のためにクリスマスツリーが飾られた事で「クリスマスツリーの日」、1944年に「ICAOの」設立を定めた「国際民間航空条約」の署名が行われた事を記念して「国際民間航空デー」,2001年に「紙芝居文化の会」が創立した事で「世界KAMISHIBAIの日」となりました。
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