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2021年12月05日01:05

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12月05日の日記

今日の出来事:1868年−箱館戊辰戦争開戦:峠下の戦い、1904年−日露戦争:旅順攻囲戦、日本軍が203高地を占領、1945年−バミューダトライアングル事件、1952年−ロンドンスモッグ発生、死者12000人の大惨事、1996年−厳島神社、原爆ドームが世界遺産に登録される

今日は、箱館戊辰戦争開戦:峠下の戦いです。江戸城無血開城により、新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封でした。これにより約8万人の幕臣を養う事が困難となり、多くの幕臣が路頭に迷う事を憂いた徳川家の海軍副総裁・榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策しました。榎本武揚は新政府への軍艦の引渡しに応じず、悪天候を理由に艦隊を館山沖へ移動させました。恭順派の幕臣・勝海舟の説得で、「富士山丸」など数隻を引渡しましたが、「開陽丸」など主力艦の温存に成功しました。仙台藩を中心とする「奥羽越列藩同盟」から支援要請があり、「開陽丸」を旗艦として8隻からなる旧幕府艦隊(開陽丸・蟠竜丸・回天丸・千代田形の軍艦4隻と咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸の運送船4隻)が品川沖を脱走し、仙台を目指しました。この榎本艦隊には、若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎などの重役の他、大塚霍之丞や丸毛利恒など「彰義隊」の生き残りと人見勝太郎や伊庭八郎などの「遊撃隊」、そして、旧幕府軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など、総勢2000余名が乗船していました。榎本艦隊は出航翌日から悪天候に見舞われて離散し、「咸臨丸」、「美賀保丸」の2隻を失いながらも仙台東名浜沖に集結しました。直ちに艦の修繕と補給が行われ、庄内藩支援のために「千代田形」と陸兵約100名を乗せた運送船2隻(長崎丸・太江丸)を派遣しました。しかし、その頃には「奥羽越列藩同盟」は崩壊しており、米沢藩、仙台藩、会津藩と主だった藩が相次いで降伏しました。庄内藩も援軍が到着する前に降伏し、「戊辰戦争東北戦線」は終結しました。榎本武揚は、幕府が仙台藩に貸与していた運送船「太江丸」、「鳳凰丸」と桑名藩主・松平定敬、歩兵奉行・大鳥圭介、「旧新選組」副長・土方歳三らと旧幕臣からなる「伝習隊」、「衝鋒隊」、仙台藩を脱藩した「額兵隊」などの兵、約2500名を吸収して仙台を出航しました。途中、幕府が仙台藩に貸与して海賊に奪われていた「千秋丸」を拿捕し、さらに宮古湾に寄港して旧幕臣の保護を旨とする嘆願書を新政府に提出し、蝦夷地を目指しました。箱館港には諸外国の船が入港しており、「開陽丸」などが入港すると混乱を招く恐れがあったため、1868年12月4日に箱館の北、鷲ノ木に約3000名が上陸しました。旧幕府軍は大鳥圭介と土方歳三の二手に分かれて箱館へ向けて進軍を開始しました。箱館府知事・清水谷公考に使者を派遣し、新政府への嘆願書を携えた人見勝太郎、本多幸七郎ら30名が先行しました。しかし、榎本軍が上陸したのを知った清水谷公孝は、榎本軍を迎え撃つために弘前藩、福山藩、越前大野藩、松前藩などの兵と箱館府兵を峠下方面に向けて出発させました。そして、峠下で弘前藩兵などからなる箱館府軍の待ち伏せに遭い、「箱館戦争」の戦端が開かれました。峠下村の宿に宿泊中の人見勝太郎一行を、箱館府軍が砲撃しました。不意を襲われ混乱した人見勝太郎たちでしたが、すぐに体制を立て直し反撃、さらに後方の「伝習隊」と合流して総攻撃を開始し、箱館府軍はわずか数時間で敗退しました。榎本軍は軍を立てなおし、箱館に向けて進軍します。

次に、日露戦争:旅順攻囲戦です。203高地は、中国北東部の遼東半島南端に位置する旅順にある丘陵です。「日露戦争」でロシア海軍の基地のあった旅順港を巡る日露の争奪戦により、激戦地となった場所です。旅順攻略が必要不可欠になり、日本陸軍は第三軍を編成して旅順要塞を攻撃しました。203高地は、当初あまり重要視されませんでした。日本側が観測できる地点は203高地の他にもあり、既に総攻撃前に占領した大孤山から観測射撃を実施していました。砲撃開始2日目には戦艦「レトヴィザン」に命中弾を与えました。これにより、旅順艦隊に危機感を抱かせ、「黄海海戦」への端緒となりました。ロシア側も203高地一帯は要塞主防御線から離れており、移動に時間がかかり、他の防御保塁からもまる見えで攻めるに不利な地点であった事から、警戒陣地・前進陣地として運用していました。しかし、「南山の戦い」後より防御強化の工事がなされて第三軍の包囲完了時点では、かなり強固な陣地となっていました。こうした理由により第一回総攻撃では目標とされませんでしたが、攻撃失敗後に海軍が旅順港停泊中のロシア艦隊を砲撃する際、弾着観測点として好適であるとして秋山真之が攻略を進言しました。これに当初から要塞西方主攻勢論だった中央の大本営が同調し、203高地攻略を支持しました。しかし、満州軍総司令官・大山巌や総参謀長・児玉源太郎、現地軍である第3軍司令官・乃木希典らは、「既に大孤山からの観測砲撃や「黄海海戦」で旅順艦隊は壊滅しており、観測点など必要としない。艦隊を殲滅しても要塞守備隊が降伏しない限り、第3軍は北上する事ができない。そのためには、要塞正面への攻撃による消耗戦しかない。」と判断し、海軍や大本営の203高地攻撃要請を却下し続けました。しかし、大本営からの圧力に第3軍が屈し、1904年11月28日に203高地攻撃を開始しました。一度は奪取に成功しましたが、ロシア軍が反攻して奪還され、一進一退の激戦となりました。しかし、12月5日に203高地は陥落、日本軍が占領しました。そして、永野修身海軍大尉が指揮した陸上からの砲撃で、ロシア東洋艦隊を壊滅させました。この戦いで要塞の予備戦力が枯渇し、続く要塞正面での攻防で有効な迎撃ができず、正面防御線の東鶏冠山保塁、二龍山保塁などが相次いで陥落し、翌1905年1月1日に要塞は降伏しました。しかし、多くの戦死者を出しました。第7師団は、15000人ほどの兵力が5日間で約3000人にまで減少しました。ロシア側の被害も大きく、ありとあらゆる予備兵や臨時に海軍から陸軍へ移された水兵までもが、この高地で命を落としました。

その次に、バミューダトライアングル事件です。バミューダトライアングルは、フロリダ半島の先端と大西洋にあるプエルトリコ、バミューダ諸島を結んだ三角形の海域です。1945年12月5日に、アメリカ海軍のアヴェンジャー雷撃機5機が訓練飛行中に消息を絶ちました。この事件は、バミューダ・トライアングルの飛行機消滅の超常現象として長期にわたり出版、報道されています。その後、この海域で船や飛行機、または乗務員のみが消えてしまうという事件が伝説となり、有名になりました。「ブラックホール説」、「宇宙人説」、「メタンハイドレート説 」、「マイクロバースト説」などの原因仮説が現在でも争論されています。

その次の次に、ロンドンスモッグ発生です。ロンドンスモッグはロンドンで発生し、一万人以上が死亡した史上最悪規模の大気汚染による公害事件です。ロンドンは冬に濃い霧が発生する事で知られていますが、これは19世紀以降の「産業革命」と石炭燃料の利用により、石炭を燃やした後の煙やすすが霧に混じって地表に滞留し、「スモッグ」と呼ばれる現象を起こして呼吸器疾患など多くの健康被害を出していました。1952年12月5日から12月10日の間、高気圧がイギリス上空を覆い、その結果、冷たい霧がロンドンを覆いました。あまりの寒さにロンドン市民は通常より多くの石炭を暖房に使いました。その頃は、ロンドンの地上交通を路面電車からディーゼルバスに転換する事業が完了したばかりでした。こうして暖房器具や火力発電所、ディーゼル車などから発生した亜硫酸ガス(二酸化硫黄)などの大気汚染物質は、冷たい大気の層に閉じ込められ、滞留して濃縮されて「pH2」といわれる強酸性の高濃度の硫酸の霧を形成しました。この濃いスモッグは、前方が見えず運転ができないほどのものでした。特にロンドン東部の工業地帯・港湾地帯では自分の足元も見えないほどの濃さでした。建物内にまでスモッグが侵入し、コンサート会場や映画館では「舞台やスクリーンが見えない」との理由で上演や上映が中止されました。同様に多くの家にもスモッグは侵入していました。人々は目が痛み、のどや鼻を痛め咳が止まらなくなりました。大スモッグの次の週までに、病院では気管支炎、気管支肺炎、心臓病などの重い患者が次々に運び込まれ、4000人もの人が亡くなりました。その多くは老人や子供や慢性疾患の患者でした。その後の数週間でさらに8000人が死亡し、合計死者数は12000人を超える大惨事となりました。この衝撃的な結末は大気汚染を真剣に考え直す契機となり、スモッグがすぐそこにある深刻な問題である事を全世界に知らしめました。イギリスでは多くのすすを出す燃料の使用を規制し、工場などがすすを含んだ排煙を出す事を禁じる新しい基準が打ち出されました。1956年と1968年の「大気浄化法」と、1954年の「ロンドン市法」の制定につながりました。

最後に、厳島神社、原爆ドームが世界遺産に登録です。
厳島神社:広島県廿日市市の厳島にある神社です。厳島は一般に「安芸の宮島」と呼ばれ「日本三景」の1つに数えられています。平清盛により、現在の海上に立つ大規模な社殿が整えられました。社殿は現在、本殿・拝殿・回廊など6棟が「国宝」に、14棟が「重要文化財」に指定されています。その他、平家の納めた「平家納経」を始めとした「国宝・重要文化財」の工芸品を多数納めています。当社の「平舞台(国宝:附指定)」は「日本三舞台」の1つ、海上に立つ高さ16mの「大鳥居(重要文化財)」は「日本三大鳥居」の1つです。全国に約500社ある「厳島神社」の総本社で、ユネスコの「世界文化遺産」に「厳島神社」として登録されました。
原爆ドーム:原爆ドームの名で知られる「広島平和記念碑」は、日本の広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える記念碑(被爆建造物)です。元は広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は「広島県産業奨励館」と呼ばれていました。所在地は広島県広島市中区大手町1丁目10です。原子爆弾投下の目標となった「相生橋」の東詰にあたり、南には元安川を挟んで「広島平和記念公園」が広がっています。北は相生通りを挟んで広島商工会議所ビル、広島市民球場跡地と向き合っています。東側約200メートルの位置に、爆心地に比定される「島外科(島病院)」があります。1992年に日本政府が「世界遺産条約」を受諾した事を契機に、同年9月に広島市議会が「原爆ドームを国の世界遺産候補リストに登録するよう要望する」意見書を採択しました。市長は翌年1月に要望書を「文化庁」に提出しました。全国的な署名運動も始まり、1994年に165万人超の署名を添えた国会請願が衆議院・参議院両本会議で採択されました。1992年当初、日本政府は世界遺産への推薦には「その遺産が国内法(文化遺産であれば日本では文化財保護法)で保護されていること」が条件であるとし、「原爆ドームは歴史が浅く、文化財に指定できないため、推薦要件を満たさない」として「原爆ドーム」の推薦には消極的でした。この背景には、アメリカや中国・韓国を刺激したくないという政治的配慮が強く働いていましたが、結果としてこれが署名運動の盛り上がりにつながりました。1995年3月、「文部省」は「文化財保護法」に基づく「史跡名勝天然記念物指定基準」を改正し、6月に「原爆ドーム」を国の史跡に指定しました。これをうけて、日本政府は9月に「原爆ドーム」を「世界遺産」に推薦しました。「原爆ドーム」の登録審議は、1996年12月にメキシコのメリダ市で開催された「世界遺産委員会」会合で行われました。この時、アメリカ合衆国は「原爆ドーム」の登録に強く反対し、調査報告書から「世界で初めて使用された核兵器」との文言を削除させました。アメリカでは「原爆使用は日本に「ポツダム宣言」を受け入れさせた事で100万人のアメリカ軍将兵を「ダウンフォール作戦」での戦没から救ったと捉えられています。また、中華人民共和国は「日本の戦争加害を否定する人々に利用されるおそれがある」として審議を棄権しました。このようにして、ユネスコの「世界文化遺産」に登録され、「二度と同じような悲劇が起こらないように」との戒めや願いをこめて、特に「負の世界遺産」と呼ばれています。

今日の誕生日:マーティン・ヴァン・ビューレン(第8代アメリカ合衆国大統領)、土井晩翠、吉本せい、ウォルト・ディズニー、木下惠介、香川京子、フジ子・ヘミング、篠田三郎、弓月光、滝田栄、小林幸子、水沢アキ、川中美幸、原田真二、山田五郎、村田真一、観月ありさ、国分佐智子、島田秀平(元号泣)、道端アンジェリカ、鈴本美愉(元欅坂46)、manaka(Little Glee Monster)、レオ

今日の記念日:国際ボランティア・デー、バミューダトライアングルの日 、アルバムの日

今日の「今日訓」:本日は、1985年に定められた「世界中の経済と社会開発の推進のため、ボランティア活動に対する認識を高め、参加意識を拡大する日」で「国際ボランティアデー」、1945年12月5日に大西洋上でアメリカ軍機が突然消息をたった事で「バミューダトライアングルの日 」、「一年最後の(12月)に、その年の思い出をアルバムにまとめる5日(いつか・・・)」で「アルバムの日」となりました。
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