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2021年11月15日18:34

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留学の話

いつも読んでいる経済系メルマガより。こういうテーマでの大河ドラマもありでは?あとは、ジョン万次郎で作ってみるとか。

●150年前、旧暦のきょう、日本初の女子留学生5人は、岩倉遣外使節団の一行に加わって「アメリカ丸」に乗船、横浜港からサンフランシスコへ向かった。留学期間10年を全うしたのは年少の山川捨松(11歳)、永井繁子(9歳)、津田梅子(6歳)の3人。中でも会津藩最後の家老の妹である山川捨松(1860〜1919年)は行動的で多方面にわたり活躍し、明治日本の女性像を一変させた。
足跡をたどり今特に思うことは、「留学期間10年」についてである。内にあっては廃藩置県や富国、対外的には不平等条約解消や強兵など、急ぎに急いでいた中で、明治初めのわが国は、10年かけて人を育てる長い時間軸を忘れていなかった。
   日本経済新聞 大機小機 2021年11月12日 
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★岩倉使節団と同行して留学したので明治日本は「10年かけて人を育てる」と
筆者は考えられたようですが、実際には少し異なります。

留学を勧めたのは、北海道開拓使の黒田清隆の体験に基づく強い押しがあった
からです。開拓使就任前に黒田は米国を視察して、実際に海外訪問して学ぶことの意義を痛感しました。

彼の強い押しがあったことから、体制も十分確立していない明治政府のトップ3(岩倉具視、大久保利通、木戸孝允)そろって2年も海外視察にでたのです。この使節団によって「観光」という言葉、「光を観る」という言葉が生まれました。

留学生派遣は、使節団が行くのでせっかくだからということでした。
使節団には、密入国して学位をとった新島襄が米国から加わり、新島の体験が
強く反映された理事功程が作られ明治教育の礎が出来たのです。

黒田清隆は、留学生派遣の他に、新島襄の推薦のもと、「少年よ大志をいだけ」で有名なクラーク博士を招聘して北海道大学の前身の札幌農学校を作って、教育の基礎を確立します。

留学した女子たち5人のうち、年令の高い二人はホームシックで帰国しましたが山川は、兄も留学してて近くにいたことや、ホームステイ先で同年の女の子と姉妹のように育てられたことから気丈に生活でき、永井繁子とは同じ学校に進み、津田梅子とも、米国の姉妹とともに仲良くできたことから、長い留学期間を共に過ごせたようです。

帰国した明治14年には、黒田は開拓使官有物払下げ事件で失脚し、明治14年の政変が起きて政府は混乱しました。

折角、学を得て帰国した3人は、相応しい職を得ることもなく、山川と永井は
軍人へ嫁ぎ、津田は学習院で嘱託の英語教師をしたあと、再留学しています。
山川は夫がスイス留学した経験があったことが大きかったようです。

育った人を活用する土壌は無かったようです。

ちなみに、永井繁子の兄は三井物産創業者の益田孝、山川捨松の兄は東大、京大、九州大の総長を務めた山川健次郎で、姉の操はロシア留学しています。
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