mixiユーザー(id:12941520)

2021年10月31日03:31

42 view

仏米同盟条約とその歴史

■米仏の大統領、対中国にらみ関係修復をアピール 「重要な同盟国だ」
(朝日新聞デジタル - 10月30日 13:37)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=6722314

仏米同盟条約(アメリカ合衆国では単に同盟条約、またはフランスとの同盟条約と呼ばれる)は、アメリカ独立戦争の最中に結ばれたフランスとアメリカ合衆国の間の防衛同盟である。イギリス軍に攻撃された場合に互いの軍事的な支援を無期限に約束した。

条約における合意事項
同盟条約はフランスにとって実質的に保険政策となるものだった。それは当時フランスと休戦状態にあったイギリスが、「直接的敵対行為で、あるいは通商と航行を(妨げる)ことで」その休戦を破った場合に、アメリカ合衆国の支援を保障するものだった。条約にはこの軍事同盟の諸条件が記され、イギリスと将来和平協定が結ばれた場合の要求事項を定め、また将来「イギリスから危害を及ぼされる可能性のある」スペインなどヨーロッパ諸国との同盟交渉の道を開く秘密の条項が含まれていた。

第1条 – 4条: 防衛同盟の条件
条約の最初の条項は、アメリカ独立戦争の敵対関係が続く間に、フランスとイギリスの間に戦争が始まったとした場合に、フランスとアメリカ合衆国の間に互いの軍事力を結集して軍事同盟が結成され、「アメリカ合衆国の自由、主権および絶対的で無制限の独立と、さらに通称に関する事項」を維持することを直接の目的として尽力する、とされていた。

第5条 – 9条: イギリスとの和平協定の諸条件
条約のこの部分は、軍事作戦に成功してイギリスから獲得した領土、あるいは署名した諸国との敵対関係を終わらせる和平条約で、イギリスが割譲した領土を前もって分けるために使われている。

別の条項で、フランスもアメリカも紛争の間に行った互いの奉仕にたいして、如何なる補償も求めないこと、また両国は互いの同意無しに、さらにアメリカ合衆国の独立がイギリスに認められる保障なしに、戦いを止めないこと、イギリスとの和平条約に調印しないことが定められている。

第10条は、ほとんどスペインに向けられたものだが、「イングランドから危害を受けることになった」他国を、同盟に加えるために諸条件を交渉する目的で招請することを定めている。

第11条は、将来両国が領有する領土を公約している。アメリカ合衆国はフランスが現在主張している領有権および戦争中に獲得する領土の領有権を、全ての他国に対して、フランスを支援することを保障し、フランスは見返りにアメリカ合衆国国土の領有権を支持し、合衆国の「自由、主権および絶対的かつ無制限の独立と、さらに通称に関する政府の事項」を支援することを公約している。

第12条は、フランスとイギリスの間に宣戦が布告されたときにのみ条件付条約の合意が発効すること、アメリカ独立戦争が終わったときに条約に規定する土地と外交の保障を行い、両国の領土所有を正式に確立する和平条約とすることが定められている。

その後の経過
1778年3月17日、この日はフランスの駐英大使がイギリス政府に対し、アメリカ合衆国を独立国家として公式に認め、同盟条約と友好通商条約を結んだことを伝えた4日後だったが、イギリスはアメリカ独立戦争に直接関わっているフランスに対して宣戦布告した。フランスが戦争に参入したことが引き金となり、1779年4月12日にアランヘス条約に調印した後でスペインがフランスの同盟国としてイギリスとの戦争状態に入り、さらには1780年12月、フィールディングとバイラントの事件中に禁制品をフランスに運んでいるとしたオランダ商船をイギリスが捕獲した後で、イギリスはネーデルラント連邦共和国に対して宣戦布告した。フランスはアメリカとの同盟条約に調印した後、大陸軍にとって是非とも必要だった武器、弾薬および制服を供給した。さらに西インド諸島での軍事力を増強し、イギリスがカリブ海での勢力を確保するために北アメリカから陸軍と海軍の資源を割くように仕向けた。フランスが参戦したことは、ロシャンボー伯爵の指揮する10,800名の陸軍と、グラス伯爵の指揮するフランス艦29隻が、ジョージ・ワシントンとラファイエット侯爵の軍隊と合流し、イギリス軍コーンウォリス卿の軍隊を降伏させたヨークタウン包囲戦の成功で、その重要さが証明された。このことで戦争の残り期間は、北アメリカ大陸での戦闘を実質的に終わらせることができた。イギリスはアメリカ独立戦争の敵国に対し、個別に和平の交渉を行おうとしたが、スペイン、フランス、およびアメリカ合衆国はイギリスとの交渉を共同して行い、1783年のパリ条約で敵対関係を終わらせた。

両国関係の悪化
1783年のパリ条約の直後に、アメリカ側は条約の中で軍事同盟を終わらせる期日を決めていなかったことを疑問に思い始めた。それは条約が未来永劫に続くことを意味し、実質的にアメリカ合衆国とフランスの間の恒久的同盟を作ったことを意味していた。フランスと永久に結びつくことを嫌ったアメリカ人、特に財務長官のアレクサンダー・ハミルトンとその支持者である連邦党は、フランス革命を条約を公式に破棄する機会と捉えた。ヨーロッパ諸侯はフランス革命中にルイ16世が処刑されたことで、この条約は破棄されたと考える合意があったが、アメリカ合衆国大統領のジョージ・ワシントンはトーマス・ジェファーソンと共に、フランスの支配体制が変わっても条約は有効なままであると宣言した。

ワシントン政権は条約が有効なままであると宣言したが、ワシントン大統領の中立宣言とそれに続く1794年中立維持法によって、実質的に条約の軍事条項は無効化し、二国間の関係が次第に悪化する時期の始まりとなった。フランスの新しい大使エドモンド=シャルル・ジュネは、市民ジュネ事件の間にスペインの領土とイギリスの軍艦を攻撃するために、民兵隊を立ち上げ私掠船を用いようとしたが、ワシントンの中立宣言でフランスに対する世論を変え、長い間フランス贔屓で国務長官を務めていたトーマス・ジェファーソンを辞任に追い込むことになった。さらに1794年のロンドン条約、通称ジェイ条約に調印することで、多くのフランス人は、アメリカ独立戦争の間にその独立のために戦うアメリカにフランスが与えた支援にも拘わらず、アメリカ合衆国がイギリスの要求に屈し、フランスを捨てた裏切り者であると確信した。

ジョージ・ワシントンの辞任挨拶で、同盟関係がさらに悪化した。ワシントンはこの挨拶文で、アメリカ合衆国は条約の軍事条項を遂行する必要が無いこと、さらに同盟条約の結果として、現在フランスと結んでいるような恒久的な同盟の危険性について警告した。この条約に対する大衆の反感はジョン・アダムズ大統領のときに最高に達し、XYZ事件の最中にフランスがアメリカの全権使節を拒み、関係正常化を拒んだ後で、1798年7月7日にアメリカ合衆国議会によって条約の公式な破棄が宣せられた。フランスがフランス革命戦争の間にアメリカ海軍の艦船を捕獲したことに対する報復として、アダムズ内閣が擬似戦争と呼ばれるフランスに対する宣戦布告なき戦いを遂行することで、実質的に同盟条約を無効化し、フランス政府のみによって維持されている軍事同盟について、「非公式に」戦争状態にある二国間の「公式の」宣言と表現された。

同盟条約の破棄
両国関係が悪化し、相互の公式および大衆感情は悪化していたが、正式に両国がこの条約を破棄したのは、モルテフォンテーヌ条約、通称1800年協議への調印を行った1800年9月30日になってからだった。これで1778年に始まったフランスとアメリカの軍事同盟が終わった。
3 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2021年10月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      

最近の日記