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2021年10月29日00:05

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10月29の日記

今日の出来事:1183年−源平合戦:福隆寺縄手の戦い、1538年−第一次国府台合戦、1600年−関ヶ原の戦い:大垣城の戦い、富来城の戦い、1868年−会津戊辰戦争:鶴ヶ城総攻撃、1876年−不平士族の反乱:思案橋事件

今日は、源平合戦:福隆寺縄手の戦いです。備前国・福隆寺縄手(現・岡山市北部)で起こった木曽義仲軍と平氏方の武将・妹尾兼康の戦いです。妹尾兼康は、平家譜代の家人です。「保元・平治の乱」では平家軍に属して戦い、「鹿ケ谷の陰謀」でも平清盛の手足となって働いた腹心でした。妹尾兼康は、1180年に南都で蜂起した僧兵達の鎮圧を任せらましたが、本格的な武装を禁じられたため多くの死傷者を出しました。この事が後に平重衡らによる「南都焼き討ち」へとつながっていきます。1183年の平氏による北陸の反乱追討軍に従いましたが、「倶利伽羅峠の戦い」で平氏軍は大敗し、木曽義仲方の武将・倉光成澄に捕らえられました。木曽義仲は妹尾兼康の武勇を惜しんで助命し、身柄を倉光成澄の弟・成氏に預けました。妹尾兼康は木曽義仲に従いながらも、反撃の機会を伺っていました。その後、平家一門は都を落ちました。妹尾兼康は、平家を追討するために西国へ向かった木曽義仲軍に加わりました。「水島の戦い」で木曽義仲軍が敗れた後、妹尾兼康は自領である備前国・妹尾荘に案内すると弟・成氏を誘い出して殺害しました。出迎えた嫡子・妹尾宗康や備前・備中・備後三ヶ国で現地に残っていた平家方の武士たちを集め、軍勢2000余人で福隆寺縄手の笹の迫に要塞を構えると木曽軍に反旗を翻しました。その後、妹尾兼康方は木曽軍の猛攻に激しく抵抗して、倉光成澄を討ち取るなど奮戦しました。しかし、寄せ集めの勢であったため、木曽の大軍の前に攻め落とされました。妹尾兼康は落ち延びようとしましたが、取り残された子・宗康のために引き返すと、今井兼平の軍勢に突入して討死しました。木曽義仲は、備中国・鷺が森にかけられた妹尾兼康の主従三人の首を見て、その武勇を惜しみました。

次に、第一次国府台合戦です。古河公方・足利政氏とその子・足利高基が不和になると、高基の弟・空然は還俗して・足利義明と名乗りました「永正の乱」。足利義明は放浪の末、上総国の真里谷武田氏・五代当主の真里谷信清によって下総国小弓城に迎え入れられました。足利義明は真里谷氏に加え、里見氏等に擁立されて「小弓公方」と称されました。「古河公方」や千葉氏と対立して、鎌倉占領を目指しました。ところが、北条氏綱が台頭して鎌倉や武蔵江戸城を占領しました。こうして、足利義明と北条氏綱の関係が緊張する事になりました。北条氏綱は古河・小弓公方の争いには中立的な立場でしたが、足利義明が里見氏や真里谷氏の内紛に介入して江戸湾一帯にまで勢力拡大を図ると、亡命してきた真里谷信隆(信保の庶長子)を支援して対決の姿勢を見せました。更に古河公方・足利晴氏(義明の甥)も足利義明や山内上杉家との対抗のため、北条氏綱と同盟を結びました。更に武蔵・下総の国境にあった葛西城が北条氏の支配下に入ると、足利義明は北条氏綱との戦いを決意しました。足利義明は里見義堯・真里谷信応らの軍1万を従えて、国府台城に入りました。一方、北条氏綱も嫡男・氏康や弟の幻庵ら2万の軍を率いて江戸城に入りました。小弓軍は軍議にて、江戸川を渡河する北条軍を討つ事で合意しました。しかし、己の家柄と武勇を過信した足利義明は、足利将軍の一族に本気で弓を引ける者などいないと考え、自ら出陣して上陸した敵を討つと主張しました。渡河中に敵を殲滅させるべきだと言う里見義堯らの主張を退けました。これにより、里見義堯は足利義明を見殺しにして、その「空白域」に勢力を伸ばす事を考え、主戦場になるであろう松戸方面ではなく、その裏道である市川側からの挟撃に備えると称して陣を動かしたのでした。軍師・根来金石斎(大藤信基)の進言により無事に渡河を終えた北条軍は、小弓軍と国府台の北の相模台(現在の松戸市)で衝突しました。初めは小弓軍が優勢でしたが、次第に数で優勢な北条軍が押し始めました。弟・基頼や息子・義純が討死すると足利義明が逆上して北条軍に自ら突撃を図り、兵士の弓に当たって討死してしまいました。里見義堯は「義明戦死」の情報により、結局一度も交戦する事なく戦場を離脱し、小弓軍は崩壊して「小弓公方」は滅亡しました。勢いに乗った北条軍は小弓城と真里谷城を押さえて、真里谷信応を降伏させて再び異母兄・信隆を真里谷氏の当主にしました。この戦いの結果、北条氏の勢力は下総にまで浸透する事になりました。一方、足利義明の戦死と真里谷信隆の復帰によって勢力地図が一変し、権力の「空白域」と化した上総国南部に無傷であった里見義堯が進出し、真里谷氏の支配下にあった久留里城・大多喜城などを占領し、房総半島の大半を手中に収める事になりました。

その次に、関ヶ原の戦い:大垣城の戦い、富来城の戦いです。
大垣城の戦い:「関ヶ原本戦」直前まで、西軍の前線司令部であった大垣城には、福原長堯を始め垣見一直、熊谷直盛、木村由信・豊統父子などが守備していました。これを東軍は松平康長、堀尾忠氏、中村忠一、水野勝成、津軽為信らが包囲して対陣していました。「関ヶ原本戦」が西軍の敗北に終わると、城内には動揺が広まりました。三の丸に肥後人吉城主・相良頼房が守備していました。相良頼房は、「会津征伐」に従軍中に石田三成に東下を阻止されました。そして、福原長堯の指揮下に入って同じ九州の大名である秋月種長・高橋元種と共に、三の丸を守備していました。西軍敗北の報を受け、相良頼房は重臣・犬童頼兄の助言と妹婿・秋月種長、その弟・高橋元種と相談の上、かねてより音信を取っていた井伊直政を通じて、徳川家康への内応を密かに連絡しました。連絡を受けた井伊直政は家康に報告し、直ちに大垣城開城を相良頼房らに命じました。このため相良頼房・秋月種長・高橋元種の三将は軍議と偽って籠城中の諸将を呼び出し、現れた垣見一直・熊谷直盛・木村由信・豊統父子を暗殺し、二の丸を制圧しました。これを知った福原長堯は本丸で相良頼房らを迎撃して奮闘しましたが、包囲軍に属していた西尾光教の説得によって城を明け渡して伊勢朝熊山へ蟄居しました。家康は福原長堯を許さずに切腹を命じました。内応した三将は領地を安堵されました。
富来城の戦い:「石垣原の戦い」で大友義統の軍を破った黒田官兵衛(如水)は、進撃を再開しました。安岐城を包囲し、亀甲車で城壁を崩し、間断なく大砲と火矢を城内へ射込んで威嚇しました。大垣城で殺害された熊谷直盛の城将・熊谷外記は降伏し、城兵の大半を配下に加えました。続いて富来城へ軍を進め、大垣城で殺害された垣見一直の家臣・筧利右衛門を降伏させ、ここでも城兵を配下に加えました。この後、黒田官兵衛は毛利吉成の家臣・毛利定房が守る香春岳城を攻め、本城の小倉城も攻略しました。さらに、臼杵城、佐伯城、角牟礼城、日隈城と攻略し、豊前・豊後を平定し、1万3千人の大勢力になりました。

その次の次に、会津戊辰戦争:鶴ヶ城総攻撃です。新政府軍は会津若松城を包囲し、小田山から連日の砲撃を加えましたが、難攻不落の名城・会津若松城を落とす事が出来ませんでした。雪が降れば、長州藩・薩摩藩を中心とする新政府軍が不利になるため、冬が来る前に決着を付ける必要がありました。そのため、新政府軍は会津若松城に総攻撃をかける事にしました。1868年10月29日(籠城22日目)、小田山・三日町口・甲賀町口など7カ所にアームストロング砲や四斤砲を約50門配置した新政府軍は、会津若松城に総攻撃を開始しました。新政府軍の総攻撃は、小田山からの砲撃を相図に始まり、朝6時から夕方6時まで三日間にわたり続きました。会津若松城には1日に1000発から2000発の砲弾が降り注ぎました。当時の砲弾は、着弾しても直ぐには爆発しないものが多く、しばらくすると爆発するというものでした。女性は濡れた布団や着物を持って砲弾に駆け寄り、砲弾を冷やして爆発や火事を防ぎました。これを「焼玉押さえ」といいました。本丸にある照姫の部屋に新政府軍の砲弾が直撃しました。照姫の警護をしていた、山川大蔵の妻・トセは「焼玉押さえ」に奔走中に砲弾が爆発しました。山川トセは負傷し、息を引き取りました。山本八重は弾丸の雨の中を籠城女性に弾薬の製法を教え、敵の砲丸を拾いあげて、藩主・松平容保にその性能を説明するなどしました。会津藩の大砲隊を指揮していたのが、山本八重の夫・川崎尚之助でした。八重は砲兵陣地に駆けつけると、砲術師の夫・川崎尚之助を助け、小田山上の敵砲と応戦するなど活躍をしました。このため、「幕末のジャンヌ・ダルク」と称されました。

最後に、不平士族の反乱:思案橋事件です。思案橋事件は前原一誠らが起こした「萩の乱」に呼応して、旧会津藩士・永岡久茂らが起こした明治政府に対する士族反乱未遂事件です。永岡久茂は、「戊辰戦争」で江戸大砲隊の一員として「鳥羽・伏見の戦い」に参戦しました。「奥羽列藩同盟」時には同盟締結のため、梶原平馬の片腕として奔走しました。「北越戦争」に赴いた後、「会津戦争」で鶴ヶ城が包囲された際に、榎本武揚より兵100名を借り受けましたが救援に失敗し、会津三絶と言われる「独木誰支大力傾」という詩を詠んで嘆きました。計画では、千葉県庁を襲撃して県令を殺害した後、佐倉の東京鎮台歩兵第2連隊を説得して日光から会津若松を襲い、前原一誠に呼応して挙兵する予定でした。1876年10月29日、「萩の乱」の発生を電文で知った永岡久茂ら旧会津藩士他14名は、東京・思案橋から千葉に向けて出航しようとしました。しかし、通報により駆け付けた警官隊と切りあいとなり、永岡久茂ら数名はその場で逮捕されました。逃走した者も中根米七を除き、逮捕されています。主犯の永岡久茂は事件の時に負った傷が元で獄中死します。裁判では井口慎次郎、中原成業、竹村俊秀の会津藩士3名が斬罪となりました。中根米七は1878年、喜多方町の寺院境内で切腹しました。警察側は寺本義久警部補と河合好直巡査の2名が殉職しました。中原成業は「束松事件」の犯人の1人で、脱獄した高津仲三郎の変名です。

今日の誕生日:エドモンド・ハレー、ヨーゼフ・ゲッベルス、高畑勲、児島明子、加茂周、小倉一郎、志穂美悦子、周防正行、高嶋政宏、つんく♂(シャ乱Q)、山下しげのり(元ジャリズム)、エドウィン・ファン・デル・サール、NIY(元SHAZNA)、堀江貴文、前園真聖、菅広文(ロザン)、横澤由貴、小川麻琴(元モーニング娘。)、佐伯美香(元AKB48)、新井和輝(King Gnu)、クリリン

今日の記念日:おしぼりの日、ホームビデオ記念日、トニックの日、てぶくろの日、国産とり肉の日、和服の日

今日の「今日訓」:本日は、10月はten=手の語呂合わせと10本の指から、29日は「ふ(2)く(9)」の語呂合わせで「おしぼりの日」、1969年10月29日に、ソニーと松下電器が家庭用ビデオテープレコーダ(U規格)の開発を発表した事で「ホームビデオの日」、「ト(10)ニック(29)」の語呂合わせで「トニックの日」、「て(10)ぶ(2)く(9)ろ(6)」の語呂合わせで「てぶくろの日」、干支の10番目が酉で10月に、肉(29)の語呂合わせで「国産とり肉の日」、「いい(1)わ(0)ふ(2)く(9)」の語呂合わせで「和服の日」となりました。
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