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2021年10月09日03:52

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10月09日の日記

今日の出来事:1446年−李氏朝鮮国王・世宗がハングルの解説本「訓民正音」を頒布(ハングルの日)、1600年−関ヶ原の戦い:郡上八幡城の戦い、1864年−天狗党の乱:那珂湊の戦い、1981年−ドラマ「北の国から」第1回放送、1984年−柔道選手の山下泰裕が「国民栄誉賞」受賞

今日は、関ヶ原の戦い:郡上八幡城の戦いです。石田三成が徳川家康に対して挙兵すると、美濃国では岐阜城主・織田秀信が西軍に加担し、郡上郡八幡城主・稲葉貞通は家康の西上を阻止するため犬山城に入りました。遠藤宗家の遠藤慶隆と、犬地の遠藤胤直の両遠藤氏も共に織田秀信に招かれて西軍加担を勧誘されました。遠藤慶隆はかつて八幡城主だったのを秀吉に改易された経緯があり、弟・慶胤らと協議の上で東軍に加担する事を決めました。しかし、遠藤胤直は織田秀信に加担を約束し、上ヶ根に布陣しました。遠藤慶隆はこれに対して子・慶勝を妙観寺に置いて守備させました。江戸にいた遠藤慶隆の娘婿・金森可重は、家康の命で急遽本領の飛騨に戻ると、自身が坂本口から、別働隊が白川口から進入し、八幡城を総攻撃する旨を遠藤慶隆に報せて合流を促しました。八幡城では稲葉貞通が留守なため、末子・通孝が寡兵で守備し、兵の不足を補うため領内の浪人・町人・農民の壮年者のほとんどを動員して各所を固めました。遠藤慶隆は兵400人を率いて出陣し、稲葉軍の防備を避けて飛騨川を渡河して前進を続け、麻ヶ滝で稲葉軍守備隊を撃破すると、二隊に分かれて法師丸と野尻に着陣しました。また、遠藤慶隆の弟・慶胤らは、400の兵で沓部口から攻め入りました。この時、稲葉貞通は旧交のあった福島正則からの密書により東軍参加を勧められ、それに従いました。そこで福島正則は、井伊直政らを介して遠藤慶隆・金森可重に八幡城攻撃の中止を求めましたが、遠藤慶隆らはすでに出陣していた上、稲葉貞通が未だ犬山にあって後背も知りがたいと返答しました。一方、金森可重の援軍は、坂本口から久須見に至ると稲葉軍に出会い、戦闘を避けて転進して滝山に布陣しました。金森軍の別働隊は五町山に登って陣を構え、赤谷の遠藤慶隆と合わせて三方から八幡城を攻撃する態勢を整えました。遠藤軍は吉田川を渡り、守備側の柵を突破して一隊が城の裏木戸に、遠藤慶隆の本隊は大手に向かいました。金森可重軍は城北の搦め手に迫りましたが二重の濠に阻まれ、双方戦闘を繰り返しましたが決着が付きませんでした。その間、遠藤慶隆隊は大手から一の門に接近し、城内からの射撃に応戦の末、門内に乱入しました。裏木戸の守備兵を撃破した別隊も、二ノ曲輪に突入しました。一方、金森可重の一隊は二の丸に進撃しましたが、城兵の防戦に阻まれ、東木戸を破って二ノ曲輪に進入しました。そのため、遠藤・金森両軍が誤ってしばらく同士討ちをしてしまいました。やがて、連合して二ノ門から二ノ丸の攻撃を開始しました。また、搦め手でも金森軍と稲葉軍との攻防戦が続き、多数の死傷者を出しました。日が暮れても両者の勝敗はつかず、寄せ手はそれぞれの陣営に退却しました。遠藤慶隆と金森可重は協議の結果、城中へ軍使を派遣して降伏勧告をしました。両軍の和議が成立し、遠藤慶隆は愛宕山に本陣を移しました。ところが、急を告げられた犬山の稲葉貞通が郡上に向かい、長子・典通や中山城主の稲葉忠次郎もこれに従って八幡へ到着しました。その朝は霧が深かった上、和睦直後で油断していた愛宕山の遠藤軍は、稲葉軍に急襲され、遠藤長助・鷲見忠左衛門・粥川五郎左衛門・粥川小十郎・餌取作助の五人が奮戦の末に犠牲となりました。遠藤慶隆はやっとの事で、小野山の金森可重の陣まで逃げ延びました。稲葉貞通は八幡城に入り、城中から使者を送って再度和議が成立しました。遠藤慶隆は直ちに兵を東美濃に戻すと、上ヶ根の砦を攻撃して遠藤胤直を降伏させました。使者を信濃の下諏訪にいた徳川秀忠に送って戦況を報告し、自身は家康の下に向かいました。遠藤慶隆は赤坂の家康本陣に到着すると、家康と面会を果たし、戦況報告をした後に東軍に合流しました。「関ヶ原の戦い」で東軍が勝利すると、稲葉貞通は豊後臼杵5万石に転封され、遠藤慶隆は八幡城を受け取り、中山城を接収しました。遠藤慶胤が死去すると、遠藤慶隆は郡上全域2万7000石を領有しました。

次に、天狗党の乱:那珂湊の戦いです。水戸藩支藩の宍戸藩主・松平頼徳、水戸藩執政・榊原新左衛門が率いる水戸藩「大発勢」は、水戸近郊の那珂湊に布陣しました。「筑波勢」もこれに接近し、「大発勢」に加勢する姿勢を示しました。松平頼徳は、水戸城下の神勢館に進んで再度入城の交渉を行いましたが、またも拒絶されたため、全面衝突となりました。「大発勢」は善戦しましたが、田沼意尊が率いる幕府追討軍主力が笠間に到着し、「諸生党」側に参戦すると、再び那珂湊へ後退しました。「筑波勢」の加勢を受けた「大発勢」は、「諸生党」・市川三左衛門らの工作で「筑波勢」と同一視され、幕府による討伐の対象とされました。こうして「大発勢」は、「筑波勢」と共に「諸生党」と戦う事になりました。この合流によって、挙兵に反対であった武田耕雲斎も「筑波勢」と行動を共にする事になりました。幕府追討軍と「諸生党」は那珂湊を包囲、洋上には幕府海軍「黒龍丸」が展開して艦砲射撃を行いました。松平頼徳の依頼を受けて、市川三左衛門との仲介を試みていた水戸藩家老・山野辺義芸は幕府軍、「諸生党」と交戦状態に陥った末に降伏、居城の助川海防城も攻撃を受けて落城しました。その後、筑波勢の田中愿蔵隊が助川海防城を奪還して籠城しましたが、これも幕府軍の攻撃を受けて陥落しました。その後、敗走した田中愿蔵隊は棚倉藩を中心とする軍勢に八溝山で討伐され、そのほとんどが捕えられて処刑されます。「幕府に真意を訴える機会を与える」という口実で誘き出された松平頼徳は、筑波勢との共合の責任を問われて切腹させられます。松平頼徳の家臣ら1000人余りも投降しました。この時、降伏した榊原新左衛門ら43名は後に佐倉藩や古河藩などに預けられ、数ヶ月後に切腹または処刑されました。「大発勢」の解体と「那珂湊の戦い」での敗戦により、挙兵勢力は大混乱に陥りましたが、脱出に成功した1000人余りが水戸藩領北部の大子村に集結します。ここで、武田耕雲斎を首領、「筑波勢」の田丸稲之衛門と藤田小四郎を副将とし、上洛して禁裏御守衛総督・一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴える事を決しました。世間は、この一行を「天狗党」と呼ぶ事になります。

その次に、ドラマ「北の国から」第1回放送です。「北の国から」は、東京都から故郷の北海道に帰郷して、大自然の中で暮らす一家の姿を描きました。脚本は倉本聰、連続ドラマ放送後、8編に及ぶスペシャルドラマが放映されました。主題歌の作曲・スキャットは、さだまさしです。映画「キタキツネ物語」と「アドベンチャーファミリー」の大ヒットにより、似たようなものができないかとフジテレビから倉本聰に話が持ち込まれた事から企画が始まりました。コンセプトは、アメリカ合衆国のテレビドラマシリーズ「大草原の小さな家」をヒントにしたものです。フジテレビはこの路線を継続し、別の脚本家によるアメリカを舞台にしたドラマ「オレゴンから愛」を制作・放映しました。「北の国から」は、21年間に渡って放送されましたが、制作スタッフの高齢化による定年退職や、長期ロケによる高額な制作費により、続編の制作が困難になった事から「2002遺言」をもって制作を終了しました。フジテレビ系列局である北海道文化放送が、連続ドラマ版を開局10周年記念番組としての位置付けて番組制作に協力しました。その後のスペシャルドラマ版でも制作協力をしており、毎回長期に渡る北海道ロケによって制作されました。これにより、美しい自然や祭りなどで富良野市が日本中に知られるようになり、過疎の村だった麓郷地区には第1作放送直後から、休日になると数百人の観光客が見物に訪れるようになりました。最終作が放送された2002年度には249万人が訪れました。富良野は北海道の観光名所となり、ドラマに使われた丸太小屋が再現された他、富良野市農業協同組合駅前4号倉庫を改造した「北の国から資料館」が設置されました。連続ドラマ第1話で黒板親子が降り立った布部駅の入口脇には、倉本聰の筆による「北の国から ここに始まる」と書かれた碑が建てられました。舞台を麓郷とする着想は、富良野に移住した倉本聰が麓郷で林業を営んでいた人物と出会った事がその始まりでした。ドラマに登場する中畑和夫はこの人物をモチーフとしたキャラクターです。この人物は妻とともにロケ地の提供や撮影への協力を献身的に行って、ドラマを支えました。倉本聰は彼を「北の国から」の全作品を通しての最大の功労者で、彼がいなかったら出来ていないと評しています。
連続ドラマ
「北の国から」1981年10月9日−1982年3月26日金曜日22時からの放送、全24話。最終回には20%を突破、平均視聴率は14.8%を記録しました。
スペシャルドラマ
1.北の国から’83冬(1983年3月24日放送)−26.4%
2.北の国から’84夏(1984年9月27日放送)−24.3%
3.北の国から’87初恋(1987年3月27日放送)−20.5%
4.北の国から’89帰郷(1989年3月31日放送)−33.3%
5.北の国から’92巣立ち(1992年5月22日・23日放送)−32.2%・31.7%
6.北の国から’95秘密(1995年6月9日放送)−30.8%
7.北の国から’98時代(1998年7月10日・11日放送)−25.9%・24.8%
8.北の国から’2002遺言(2002年9月6日・7日放送)−38.4%・33.6%

最後に、柔道選手の山下泰裕が「国民栄誉賞」受賞です。山下泰裕は、東海大学体育学部武道学科2年の時、19歳にして史上最年少優勝を果たし、「怪物」と呼ばれるようになりました。全日本学生選手権に出場しましたが、決勝で中央大学の吉岡剛に1−2の判定負けを喫しました。この一戦は公式戦で山下泰裕が喫した16回目の敗戦でしたが、これ以降敗れる事は一度もありませんでした。その直後に日ソ親善試合に出場して1試合のみながら勝利しました。ここから公式戦203連勝がスタートする事となりました。1980年4月には東海大学大学院体育学研究科修士課程に進学しました。入学直後の全日本選手権では準決勝で松井勲に判定勝ちすると、決勝では遠藤純男を横四方固で破り、4連覇を達成しました。しかし、5月24日の日本オリンピック委員会総会で、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻に抗議するためモスクワオリンピック大会不参加が最終的に決定されました。この不運に挫ける事なく、4年後のロサンゼルスオリンピックも再び日本代表に選ばれました。柔道のモスクワオリンピック代表のうち、4年後も再び代表に選ばれたのは山下泰裕ただ一人でした。1984年8月のロサンゼルスオリンピックでは、2回戦で西ドイツのアルトゥール・シュナーベルと対戦した際、軸足の右ふくらはぎに肉離れを起こしてしまいました。山下泰裕は左に組むため、右足・軸足の肉離れで大変不利な状況に立たされました。2回戦は送り襟絞めで勝利を収め、試合後控え室に引き返すまでの間、山下泰裕は肉離れを決して悟られまいと平然に振舞って普通に歩いたつもりでしたが、誰にでもわかってしまうほど明らかに足を引きずっており、それは映像にもはっきりと映っていました。山下泰裕が控え室に戻るなり、コーチ陣に慌てた表情で問い質され、自分の肉離れが全て悟られてしまった事に気が付きました。山下泰裕は一旦は落ち込みましたが、次の試合時刻が迫ってくる中で開き直ると、“足を引きずってもいいから相手を見据えて胸を張っていけ”と自身に言い聞かせて準決勝に臨みました。準決勝の相手はフランスのデル・コロンボでした。過去の対戦から組みし易い相手と山下泰裕は考えていましたが、軸足の肉離れが影響したためか、開始30秒で大外刈りによる効果を取られてしまいました。直後は動揺したものの直ぐに我に返り、激しく自身を鼓舞、守りに入ったコロンボ選手を大内刈りと横四方固めの合わせ技で逆転しました。エジプトのモハメド・ラシュワンとの決勝戦前、山下泰裕の頭には「金メダルを取り表彰台の中央で観客に満面の笑顔で応える山下」と「タオルを被って号泣してうつむく山下」の両方のイメージが交互に浮かびました。師匠の佐藤は「投げられても一本取られなければいい、寝技に持ち込んで勝つ方法もある」と冷静にアドバイスしました。一方、山下泰裕も、同じ控え室で気合を入れて調整をしている試合直前のラシュワンに対し、意図してにっこり微笑みかけました。目が合い、笑顔で応じたラシュワンの緊張が解けた様を見て、山下泰裕は勝機を感じました。ラシュワンのコーチは「初めの一分間は我慢して攻めないように」とラシュワンに指示しましたが、ラシュワンはそのアドバイスを忘れたかのように強気で攻め始めました。冷静な山下泰裕はラシュワンの攻めに無意識に反応、ラシュワンが体勢を崩した瞬間を捉えて押さえ込みに持っていき、横四方固めを決めました。一本を伝えるブザーが鳴った瞬間、山下泰裕は畳に両手を力強く突いて立ち上がり、涙でくしゃくしゃになった表情を隠そうともせずに喜びを表現しました。この表情は繰り返し放送され、山下泰裕の決して平坦ではなかった道のりを示す名場面となりました。全て一本勝ちでの金メダルでした。表彰台の中央に上ろうとする山下泰裕に、ラシュワンは山下泰裕の足を気遣って手を差し伸べました。これは、友情の証として世界から評価されました。またラシュワンも、山下泰裕の右足を狙わなかったという主旨の発言をした事から、そのフェアプレーの精神を称えられました。そして、1984年10月9日にはこれまでの活躍が高く評価されて「国民栄誉賞」を授与されました。

今日の誕生日:水原秋桜子、大佛次郎、高英男、春日八郎、ジョン・レノン(元ビートルズ)、水前寺清子、仲井戸麗市(元RCサクセション)、ドン小西、大乃国康(第62代横綱)、デーヴィッド・キャメロン、なだぎ武(ザ・プラン9)、長野博(V6)、夏川りみ、ショーン・レノン、直井由文(BUMP OF CHICKEN)、高橋真麻、寺原隼人、北川綾巴(元SKE48)、大友花恋、入江聖奈

今日の記念日:世界郵便デー/万国郵便連合記念日、ハングルの日、トラックの日、塾の日、道具の日、東急の日、アメリカンドッグの日、ジュークの日、熟成肉の日、トクホの日、散歩の日、糖尿病とこころの日、仙台牛の日、土偶の日、金券の日、サイコロキャラメルの日、ハンドバッグの日、マカロンの日、熟睡の日

今日の「今日訓」:本日は、1446年、李氏朝鮮国王・世宗がハングルの解説本「訓民正音」を頒布した日で、「ハングルの日」、1927年に「明治サイコロキャラメル」が発売された事から「サイコロキャラメルの日」、語呂合わせ記念日:「ト(10)ラック(9)」から「トラックの日」、「じゅ(10)く(9)」で「塾の日」、「どう(10)ぐ(9)」で「道具の日」、「10(とう)・9(きゅう)」で「東急の日」、「10(ドッ)9(グ)」で「アメリカンドッグの日」、「10(ジュー)9(ク)」で「ジュークの日」、「じゅ(10)く(9)せい」で「熟成肉の日」、「10(ト)9(クホ)」で「トクホの日、「10(て)9(く)てく」で「散歩の日」、「10(糖)尿病と(9)こころ」で「糖尿病とこころの日」、「1009(センギュー)」の語呂合わせで「仙台牛の日」、「10(土)9(偶)」の語呂合わせで「土偶の日」、「109(得)」の語呂合わせで「金券の日」、「ハンド(10)バ(8)ッグ(9)」の語呂合わせで「ハンドバッグの日」、マカロンを立てて横から見ると「1」に見え、置いて上から見ると「0」に見える事から10月、マカロンの美味しさは人々を幸せな気持ちに包んでくれる事から吉兆のシンボルの勾玉の形から「9」日が「マカロンの日」、「熟(じゅく=10+9)」の語呂合わせで「熟睡の日」となりました。
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