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2021年08月08日18:56

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啐啄同時(そったくどうじ)

たまには教師らしい話でもしようかと思い立ちました。
管理人です、こんにちは。
最近の自分の教育観として、非常にしっくり来ると感じた言葉がありましてね。
ズバリ、「啐啄同時」。
これは、鳥の習性から来ている言葉なんです。親鳥が卵を温めていると、やがて卵の中でヒナがかえり、外に出ようと内側から卵の殻をつつく。その音に気づいた親鳥は、ヒナがかえった卵の殻を外側からも同時につついてやることで、ヒナが殻を破る手助けをしてやるのだとか。
そこから転じて、「受け手が知りたいと熱望したタイミングに合わせて、教え手が必要な情報を伝えてこそ、本当の学びは生まれる」といった意味を表します。
ここに、私は2つの解釈を乗せて日々の仕事に励んでいます。
1つ目は、教師が伝えるべきは教科の知識だけではない、ということです。
残念ながら、日本の教育システムの大部分は知識の押しつけです。生徒が知りたいと言い出すのを待っているような時間の猶予はとてもありません。だから、教科の知識に限っては、興味を引き出せる工夫は最大限するものの、ある程度は強行します。
しかし、生徒が本当に知りたいと願うことは、教科の外側にこそあふれています。
自分について、家族や友人との関係について、世界について、未来について…中学生という年代の生徒は、驚くほどに多様な悩みや迷いを内面に持ち合わせています。ここにこそ、生徒自身が本気で「何とかしたい」「どうしよう…」と感じる学びの種があるのです。
この種を的確に見出し、その生徒に合った形で助言ができれば、子どもは驚くような吸収力で知識を自分のものとして壁を乗り越えていきます。幸いなことに、最近、こうした生徒との出会い、学びのサポートがうまくいった経験が何度かできました。教師の仕事を、「教科の知識や部活の技術を教え込むこと」と思い込んでた過去の自分には見えなかったやりがいが、「啐啄同時」という言葉には込められているなぁ、と感じています。
2つ目の解釈は、子どもの興味がわくを座して待つのではなく、扉をたたき続ける努力をするべき、ということです。
こちらは自分の経験から説明します。
私はしばしば本屋に行って、何となく興味を引かれる本を探すのですが、少し前までほとんど興味のなかったテーマの本に、ある日唐突に目が行く、という経験が多いのです。
これは、後から思い返すと、職員室での雑談でちらっと耳にしたとか、ラジオで登場したゲストの話が気になったとか、掃除の時間に使った古新聞の広告欄に載っていた情報だったとか、とても些細なきっかけが、新しい分野の本を開くという学びにつながっていました。
だから、理科の教師だから理科の話だけを生徒にするのではなく、むしろ日常に転がる雑多な話題を、生徒の心に届くように形を整えて提供するようにしています。そうした話題がきっかけになって、「あ、自分はこのテーマにちょっと心惹かれるぞ。もうちょっと知りたいぞ」なんて、生徒の中のヒナが目覚めると嬉しいなぁ、と思っています。
2つ目の解釈については、「ケーキの切れない非行少年たち」という本の中で、こんな一説が出てくるのですが、上手に言うなぁと感心しました。

「子どもの心に扉があるとすれば、その取手は内側にしかついていない。」
子どもの心の扉を開くには、子ども自身がハッとする気づきの体験が最も大切であり、我々大人の役割は、説教や叱責などによって無理やり扉を開けさせることではなく、子ども自身にできるだけ多くの気づきの場を提供することなのです。

まぁ、そんなこんなで「啐啄同時」。
ころころと気移りする性格なので、半年後くらいには全然違うことを言っているかもしれませんが、今の時点ではこんな風に感じながら教師やってます、ということで。

それでは、また。
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