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2021年07月24日09:04

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四日市公害訴訟判決から49年「患者がいる限り 終わらない」教師辞め闘い続けた県議 萩原 量吉さん(80)

四日市公害訴訟判決から49年
「患者がいる限り 終わらない」
教師辞め闘い続けた県議
萩原 量吉さん(80)

四日市公害問題と闘い続けた元県議が、四日市市にいる。萩原量吉さん(80)=同市坂部が丘=は、公害に苦しむ人々を見て「天職」と感じていた高校教師を辞めて県議となり、行政の責任を追及した。24日で公害訴訟判決から49年。「苦しんでいる患者がいる限り、公害は終わらない」と継承を訴える。(片山さゆみ)

萩原さんは一九四〇年、津市に生まれた。三重大卒業後、四日市農芸高校の化学と物理の教師に。コンビナートに近い塩浜地区に住む生徒に家庭訪問に行くと、どんよりと曇った中、のどの奥を刺すような臭いがした。「えらいところに住んどんのやなあ」。思わず出た言葉に、生徒は「何言うとんの? 今日はまだええ方やに」と返した。「化学を教えていたのに、実態は何も知らなかった。生徒への無遠慮な言葉を今でも恥じている」と振り返る。

北勢地区の高校教員でつくる公害対策委員に参加し、被害や現地の調査に乗り出した。六〇年代、ぜんそく患者が増え、六六年には公害による症状を苦にした初の自殺者も出た。「有毒なガスを垂れ流し、市民を苦しめておいて、なぜ罪に問われないのか」。企業や、立地を許可した行政への怒りが募っていった。

「公害をなくすには、政治が変わらないと」。七一年、三十歳で県議選へ出馬した。定数八の四日市選挙区で五番目となる九千四十票を集めて当選。六七年から始まった公害訴訟の最中、「公害反対」の世論が当選を後押しした。

七一年七月に初めて一般質問に立ち「知事も四日市公害の加害者の一員であることを自覚せよ」と当時の田中覚知事を追及した。亜硫酸ガスの排出規制では、煙突一本ごとの規制ではなく、工場からの全排出量を対象とする「総量規制」を訴えた。元化学教師として、各企業の亜硫酸ガス排出量など具体的なデータを示しながら厳しく迫った。

翌年七月二十四日。公害訴訟は、原告勝訴の判決で幕を閉じた。「画期的な判決だが、煙は止まっていない」。影響がひどかった磯津地区で、判決後に始まった原告以外の患者と企業との自主交渉に参加した。住民とともに、企業の責任をただした。

判決の影響で公害対策の風潮が広まると、同年に県は公害防止条例を改正し、国に先行して硫黄酸化物の総量規制を導入。萩原さんはその後も追及の手を緩めず、窒素酸化物の総量規制実現に向けても尽力した。

最後に立候補したのは二〇一一年。十四票の僅差で落選した。七十歳という年齢もあり、延べ七期を務めた県議の活動を終えた。その後も公害を伝える講演活動を続けている。

十八日、市内での講演で萩原さんは「公害の功罪を振り返る時期に来た」と話した。県は国の指示で「四日市地域公害防止計画」を一九七一年から策定してきたが、二〇一〇年度で第八次計画が終わった後、新たな策定は見送った。「公害が著しいという状況ではなくなった」というのが理由だ。

だが、萩原さんは「大気汚染物質の排出基準をクリアしていても、ゼロになったわけではない」と納得していない。「住宅地と工場が近接している状況は昔と変わらず、低濃度の汚染が健康に及ぼす影響も長期的に見ていく必要がある」と考える。「公害の実態を伝え、一人一人に考えてもらいたい。八十歳になり、もう最後かなといつも思うが、体力の続く限り続けたい」と力を込めた。

四日市公害 1955年、四日市市塩浜にある第2海軍燃料廠(しょう)跡地の民間払い下げが決定し、国策による石油化学コンビナートの建設が始まった。60年代、塩浜地区内でコンビナートのばい煙によるぜんそく患者が急増し、1000人以上が亡くなった。67年に患者9人が、コンビナート企業6社を相手に健康被害の賠償を求めて津地裁四日市支部に提訴。72年7月24日、同支部は判決で、発症と排煙の因果関係や企業側の共同不法行為を認め、計約8800万円の損害賠償を命じた。2021年7月現在で認定患者は317人いる。
(中日新聞2021年7月24日)

萩原量吉 四日市公害裁判 判決49周年 記念講演
「四日市公災害は終わっていない!」
2021/07/18
https://youtu.be/2eFkcPTIhxs

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