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2021年07月21日00:27

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07月21日の日記

今日の出来事:1654年−玉川上水が完成、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が羽黒山に到着、1757年−秋田騒動、1863年−長州藩の高杉晋作が奇兵隊を結成、1868年−北越戊辰戦争:今町の戦い、1877年−西南戦争:小林・高原の戦い、1972年−刑事ドラマ「太陽にほえろ!」が放送開始、1983年−南極のヴォストーク基地で世界最低気温となる氷点下89.2℃を記録

今日は、玉川上水が完成です。玉川上水は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水であり、江戸の6上水(神田上水、玉川上水、本所上水(亀有上水)、青山上水、三田上水、千川上水)の一つです。幕府により江戸の飲料水不足を解消するため、多摩川からの上水開削が計画されました。工事の総奉行に老中で川越藩主・松平信綱、水道奉行に伊奈忠治が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負いました。資金として公儀6000両が拠出されました。羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかった事もあり、引水工事は困難を極めました。当初は日野から取水しようとしましたが、開削途中に試験通水を行ったところ“水喰土”(浸透性の高い関東ローム層)に水が吸い込まれてしまい、流路を変更しました。2度目は福生を取水口としましたが岩盤に当たり失敗しました。こうした事情を受けて、総奉行・松平信綱は家臣の川越藩士・安松金右衛門を設計技師に起用しました。安松金右衛門の案に従って工事を再開し、約半年で羽村・四谷大木戸間を開通し、玉川上水はついに完成しました。そして、江戸市中への通水が開始されました。しかし、工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつきました。そのため、庄右衛門・清右衛門兄弟は家を売って費用に充てました。庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられました。玉川上水は、その後の新田開発によって多くの分水(用水路)が開削されて武蔵野の農地へ水を供給し、農業生産に大きく貢献しました(野火止用水、千川上水など33分水が作られました)。

次に、奥の細道:松尾芭蕉が羽黒山に到着です。最上川を下った芭蕉は、次に出羽三山を訪れました。まず、一つ目の羽黒山に登りました。ここで、この句を詠みました。「涼しさや ほの三か月の 羽黒山」

その次に、秋田騒動です。1754年、秋田藩は米の凶作の対策として、幕府の許可の下で「銀札」の発行を開始しました。しかし、米の値上げを見込んだ商人らに「銀札」による米の買い上げを拒否されため、「銀札」の兌換資金である銀正貨による買い上げに切替えました。こうして、銀札発行は事実上失敗しました。1757年、銀札発行を巡って家中で推進派と反対派の抗争が激化しました。藩主・佐竹義明の叔父である佐竹北家の義邦と佐竹東家の義智は、反対派の家老・石塚義陳、岡本元貴、平元正直に事態の収拾を依頼されて城に出府しました。しかし、推進派は藩主・佐竹義明に、義邦らに陰謀があると讒言したために謹慎を命じられました。その後、讒言である事が発覚して謹慎を解かれ、推進派は騒動を企んだとして死罪等の厳罰に処され、銀札の発行は中止されました。推進派の家老・山方助八郎、梅津外記、大越甚右衛門は切腹、銀札本方奉行・川又善左衛門は打ち首、用人・小野崎源右衛門、勘定奉行、銀札奉行、銀札本方役、御膳番ら10数名が改易、追放、閉門などに処されました。反対派は褒賞を受け、義邦と義智は500石の加増を受けました。

その次の次に、長州藩・高杉晋作が奇兵隊を結成です。「奇兵隊」とは、藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊です。「奇兵」とは正規の武士を意味する「正規兵」の反対語で、藩士・武士のみからなる「撰鋒隊」に対する反対語です。「下関戦争」の後に藩に起用された高杉晋作の発案によって組織された戦闘部隊です。この諸隊の編制や訓練には高杉晋作が学んだ「松下村塾」の塾主・吉田松陰の「西洋歩兵論」の影響がありました。当初は外国艦隊からの防備が目的で、本拠地は廻船問屋の白石正一郎邸に置かれましたが、のちに赤間神宮へ移りました。「奇兵隊」が結成されると数多くの藩士以外の者からなる部隊が編制され、「長州藩諸隊」と総称されました。奇兵隊士が「撰鋒隊」と衝突した「教法寺事件」の責めを負い、高杉晋作は総督を更迭されました。その後、河上弥市と滝弥太郎の両人が総督職を継ぎました。その後、総督は赤根武人、軍監は山縣狂介(後の山県有朋)が務めました。京都で「八月十八日の政変」が勃発すると、朝廷から長州勢力が追放されました。翌年、「新選組」が長州藩の攘夷激派を襲撃した「池田屋事件」が起こりました。その後に、長州藩は「禁門の変」を起こして朝敵となりました。幕府は朝敵・長州藩を伐つため、「第一次長州征伐」を行いました。この戦争で「奇兵隊」は戦いましたが、長州藩は「第一次長州征伐」に敗北しました。しかし、亡命していた高杉晋作が帰藩して決起します「功山寺挙兵」。高杉晋作が藩政の主導権を握り、藩の保守勢力を一掃し、長州藩の方針は倒幕に定まります。その後、幕府によって再び「第二次長州征伐(四境戦争)」が行われ、「奇兵隊」ほか諸隊は幕府と戦い勝利します。その後、「奇兵隊」は「戊辰戦争」の新政府軍主力として各地を転戦します。

そのまた次に、北越戊辰戦争:今町の戦いです。列藩同盟軍の見附・赤坂・与板方面での攻勢により、新政府軍は三方へ釘付けになりました。この為、今町方面の守備が手薄になった事を察知した河井継之助は、米沢藩参謀・甘粕継成と会津藩・佐川官兵衛と軍議を行ない、この機を活かして一気に今町を攻め落とし、長岡城奪回の橋頭堡を築こうと決意しました。長岡藩兵と古屋佐久左衛門が率いる「衝鋒隊」と佐川官兵衛が率いる「会津藩朱雀隊」が今町へ向かいました。河井継之助は、この軍勢を3つに分けました。今町の搦手に当たる安田口を攻撃する河井自身が率いる長岡藩兵と佐川官兵衛が率いる「会津藩朱雀隊」の中央軍、三条から今町に繋がる本道を進んで坂井口を攻撃する山本帯刀が率いる長岡藩兵による左翼軍、今町の刈谷田川対岸の中之島口を攻撃する古屋佐久左衛門が率いる「衝鋒隊」による右翼軍の3つに分かれ、3方面から今町を目指して進軍を開始しました。これに対して新政府軍は、今町には高田藩兵と上田藩兵、尾張藩兵と地元の志願農兵隊の「方義隊」が布陣していました。河井継之助はまず、陽動役の左翼軍に注意を引き付けさせ、新政府軍をそちらへ向かわせました。その隙に河井継之助自らが率いる中央軍が安田口に猛攻を仕掛けた為、尾張藩兵は瞬く間に崩れました。同じく右翼軍の攻撃を受けた中之島口では、高田藩兵が敗走しました。しかし、尊王の意思に燃える志願農兵部隊「方義隊」が奮戦し、右翼軍の攻撃を防ぎました。しかし「衝鋒隊」の攻撃をいつまでも耐える事は出来ず、ついに「方義隊」も敗走しました。今町陥落の危機が伝わり、見附方面の新政府軍の指揮を取っていた薩摩藩・淵辺群平と長州藩・三好重臣、そして長府藩「報国隊」軍監・熊野直介が駆けつけ、崩れ始めた新政府軍の建て直しを計りました。長州藩「奇兵隊」を率いて堀潜太郎も加勢しました。これにより、長岡藩小隊長の斎田轍が戦死するなどの損害を受けました。しかし、河井継之助・古屋佐久左衛門・佐川官兵衛が兵を叱咤激励したため、再び列藩同盟軍が攻勢を強め、安田口の源介坂では凄まじい死闘が行なわれる事になりました。こうして、三好重臣が負傷、堀潜太郎が重傷(後に死亡)、そして熊野直介が戦死と次々に新政府軍の指揮官が倒れ、新政府軍は崩れ去りました。しかし、唯一健在だった指揮官の淵辺群平が敗兵を纏めて撤退したため、かろうじて新政府軍は壊滅の危機から逃れました。こうして、河井継之助の作戦が見事に成功し、長岡に河井継之助ありと新政府軍に知らしめる事になりました。新政府軍は北陸方面に援軍を要請する事になります。こうして、「蒼龍」と呼ばれた男・河井継之助の軌跡がはじまりました。

最後に、西南戦争:小林・高原の戦いです。6月19日、河野主一郎は「破竹隊」を率いて別働第2旅団が守る飯野を21日まで攻撃して奪取しようとしましたが、政府軍が善戦したため、陥とす事が出来ませんでした。逆に横川から転進してきた第2旅団が7月14日、小林から高原を攻撃して高原を占領しました。高原奪還を目指す薩摩軍は7月17日、堀与八郎を全軍指揮長として「雷撃隊」、「鵬翼隊」、「破竹隊」などの9個中隊を正面・左右翼・霞権現攻撃軍(鵬翼三番隊)の4つに分けました。深夜に植松を発つと、正面・左右翼軍は暁霧に乗じて高原の政府軍を奇襲しました。あと一歩のところで奪還するところでしたが、弾薬の不足と政府軍の増援により兵を引き揚げました。一方、霞権現へ向かった「鵬翼三番隊」は奇襲に成功し、銃器・弾薬等の軍需品を得ました。この戦い以降、政府軍は警戒を強め、7月17日に堡塁や竹柵を築いて薩摩軍の奇襲に備えました。7月21日、薩摩軍は再び高原を攻撃するため政府軍を攻撃しましたが、政府軍の強固な守備と援軍の投入により、高原奪還は果たせずに庄内へと退却しました。

今日の誕生日:アーネスト・ヘミングウェイ、川谷拓三、日吉ミミ、宇多田照實、中牟田俊男(海援隊)、黒田福美、巻来功士、船越英一郎、山田かまち、羽賀研二、武内享(元チェッカーズ)、勝村政信、池田聡、杉本哲太、加藤いづみ、井上昌己、キャサリン・ヌデレバ、はるな愛、NAOKI(LOVE PSYCHEDELICO)、小野まじめ(クールポコ。)、岩崎恭子、藤川球児、小林麻央、岩田さゆり、オコエ瑠偉、紀平梨花、鵺野鳴介

今日の記念日:自然公園の日、神前結婚記念日、日本三景の日、ナツイチの日

今日の「今日訓」:本日は、1957年に「自然公園法」が制定された事で「自然公園の日」となりました。国土交通省と林野庁はこの日から7月31日までを「森と湖に親しむ旬間」とし、環境省はこの日から8月20日までを「自然に親しむ運動期間」としました。1900年、東京の神宮奉斎会本院(現在の東京大神宮)が神前結婚式のPRを始めた事で「神前結婚記念日」、江戸時代の儒者者・林鵞峰が「日本国事跡考」の中で「松島・天橋立・宮島」を絶賛した事が「日本三景」の由来となり、その1618年の誕生日で「日本三景の日」、「ナ(7)21(ツイチ)」の語呂合わせで「ナツイチの日」となりました。
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