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2021年07月13日17:33

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7月11日 本日は明治時代の偉人である後藤新平に関する講演会に参加しました

 こんにちは毎週日曜日午後8時からのNHK大河ドラマを楽しみにしている石井伸之です。

 本日は、午前中に立川法人会国立南部支部のじゃがいも掘り、午後からは国分寺駅ビル5階リオンホールで後藤新平に関する講演会に参加しました。

 後藤新平というと、初代東京市長のイメージが強いのではないでしょうか?

 しかし、実は伝染病予防に向けた検疫事業に多大な成果をもたらした人物でもあります。

 後藤新平は仙台藩の支藩である水沢藩に生まれます。

 明治新政府は薩長土肥と呼ばれる倒幕側が中枢を占めており、幕府側についた仙台藩のさらに支藩ともなれば到底立身出世は見込めません。

 そこで、後藤新平は医療を学ぶ中で必要とされる人材となる為に努力を重ねます。

 明治13年に23歳で愛知病院長兼愛知医学校長に就任、明治16年には内務省衛生局へ入り、ドイツ留学を経て明治23年には衛生局長に就任します。

 順風満帆かと思いましたが、相馬事件に巻き込まれ衛生局を辞すこととなります。

 さて、時は流れて明治28年に日清戦争が終結します。

 その際に24万人もの帰還兵に対する検疫事業をどうすべきか時の台湾総督である児玉源太郎は頭を悩ませていました。

 児玉源太郎には西南戦争での検疫事業が実施されなかったことによって、日本国内にコレラが蔓延して明治12年は10万人以上が亡くなりました。

 この失敗を二度と繰り返さないために、検疫事業を誰に任せようかと思っていたところ、相馬事件で野に下っていた後藤新平に白羽の矢を立てます。

 その際に児玉は後藤に対して惜しみない資金援助を行うところが素晴らしいところです。

 ひとたび悪疫が流行すれば、検疫事業の資金などはたちまちに飛んでしまうという大局観を持っていたと思います。

 後藤新平は日清戦争後の検疫事業を引き受け、広島宇品沖の似島、下関の彦島、大阪の桜島を防疫所と定めます。

 明治28年6月末から10月までで24万人の帰還兵を検疫するということは、1日に1600人にも上ります。

 コレラは熱に弱いという事から、蒸気式消毒罐を導入して疫病を防止しました。

 3島で真性コレラ369人、疑似コレラ313人、腸チフス126人、赤痢179人が罹患していたそうです。

 これらの患者がそのまま日本全国に流れたことを考えると、空恐ろしいことになります。

 それでも、望郷の念に駆られた帰還兵は3島に足止めされたことによる不平不満の声は暴発寸前です。

 そこで、後藤新平は帰還する皇族にも同様の検疫を受けていただきます。

 すると、皇族の方でも同じように検疫を受けているということで、不平不満の声は消えたそうです。

 日清戦争後の検疫事業は全世界が注目しており、ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世は絶賛していたと言われています。

 新型コロナウイルス感染症を乗り越えるためにも、ワクチン接種と特効薬の開発が重要と考えます。

 後藤新平の検疫事業から学ぶ中で、適切な感染症対策に向けてこれからも訴えていきます。

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