ディープパープルのジョンロード
亡くなってから早いもので今年で9年目
その偉大なる功績をたどる第二弾
1968年のデビューシングル「HUSH」は全米4位になり順調にスタート、
3枚のアルバムを出すが
ジョンロードとリッチーブラックモアは翌1969年に入り、ボーカルのロッドエヴァンスとベースのニックシンパーが実力不足として解雇を決定
初期メンバーでのラストライブが1969年7月のあたま
その直前にロッドとニックに隠れてイアンギランとロジャーグローバーを引き抜き加入させ、新メンバーで1曲「ハレルヤ」というシングルをレコーディング
ちなみにロッドとニックはその最後のライブの翌日にマネージャーからクビ宣告されたらしい
https://www.youtube.com/watch?v=5b375QyDAEY
以下は日本盤のシングルジャケット
メンバーチェンジの報や写真が日本には届いてなかったのか?ロッド、ニック在籍時の初期メンバーの写真
B面はサードアルバムの組曲「APRIL」(邦題「四月の協奏曲」)のジョン、リッチー、イアンペイスのみの演奏による第一楽章
この頃、所属レコード会社の「テトラグラマトン」が経営不振に陥りこの直後倒産
アメリカでの活動ができなくなり、イギリス国内で細々と日銭稼ぎのライブを続けていた。
ちなみにアメリカでヒットを出したものの、イギリスでは半年遅れでレコードが発売され売り上げも悪く無名に近かった。
そんな中、メンバーチェンジを機にマネージメントは起死回生の企画を出した。
それがアルバム「インロック」
ではなく・・・
「The Concerto for Group and Orchestra」
(邦題「ディープパープル ロイヤルフィルハーモニックオーケストラ」)
ある方が
「ディープパープルファンの誰もが避けてとおるアルバム」と言われたアルバムである。
イギリスの名門オーケストラ、ロイヤルフィルハーモニックオーケストラとディープパープルがでコラボレーションし、ロイヤルアルバートホールでのこのコンサートをライブレコーディングしてレコードを出し、映像を全世界に放送するという企画だった。
https://www.youtube.com/watch?v=gnA1IMnLZr4
初期メンバーでのラストライブが1969年7月のあたま
そしてコンチェルトのコンサートが開催されたのがこの年の9月24日
記録やメンバーの証言によると
ジョンロードは2枚目のアルバムの「Anthem」でストリングスカルテットを導入
3枚目のアルバムの「APRIL」(邦題「四月の協奏曲」)で小編成の管弦楽団を導入する組曲をやったりして、オーケストラとの共演もやりたいと言ってたものの
マネージメントがこの企画を決定したのはメンバーチェンジ直後の7月中頃のことで、本番まで2か月程度しかなかったらしい。
初期のメンバーでレコーディングされたサードアルバムでの「四月の協奏曲〜APRIL」のPV
よく見ると隅にいるのは2期のメンバーに見える
https://www.youtube.com/watch?v=CfZHISHvAvw
ジョンロードはツアーをやりながらスコア譜の作成に取り組み、一ヶ月弱の短い期間で完成し指揮者のマルコムアーノルドに提出した。
名門オーケストラの指揮者であったマルコムアーノルドは提出された譜面を見て、予想外によくできていることに驚きこの企画に意欲的に取り組んだ。
そしてリッチーはじめ他のメンバーも当初は夢中になってこの企画に取り組んだという。
イアンギランは第2楽章のみの出演だったにも拘わらずロイヤルアルバートホールという伝統ある大きな会場にふさわしい歌詞を書こうと奮闘したし
後にプロデューサーとして大成するベースのロジャーグローバーはその後の自分にとって貴重な体験だったと発言している。
だが、バンドとオーケストラが一堂に会しリハーサルがはじまると思いがけない問題点が噴出する
音量差はすさまじく、リッチーがギターでジャ〜ンとコード鳴らすだけでオーケストラの音がかき消され、ミキサーやレコーディングエンジアは苦労したらしい
この音源を聴いてもバンドとオーケストラが一緒に演奏する部分がエライ少ないのがわかる。
リズムの感じ方にも違いがあったようで、指揮者が手を上げた瞬間に入るバンドと、手をおろした瞬間に入るオーケストラとの間でズレが生じたと誰かが発言している。
オーケストラ側のやる気のなさもあった。
リハーサル中、チェロの女性ふたりが「私達は「二流のビートルズ」と共演するためにこのオーケストラに参加してるのではありません」と言って出ていき
指揮者のマルコムアーノルドが説得なだめて和解したという記事があった。
だが超一流オーケストラとの競演という企画はそれまでイギリス国内では無名に近かったパープルの名を知らしめることになる
ELPのキースエマーソンは先を越されたと悔しがりながらもこのコンサートを見に行ったと後年イアンギランが語っている。
後にパープルに加入するグレンヒューズはこの企画でパープルの名を知ったと言っている。
コンサートはイギリスで放映され、ライブレコーディングされたアルバムはイギリスでチャートに入り、パープルの名はイギリス中に知らされ
続編企画の話も出てジョンロードは作曲の準備に入ったが
バンドにとっては思いがけぬギャップに苦しむことになる。
あるライブ会場のプロモーターは前座にブラスバンドをあて
メンバーが会場に着くと「オーケストラはどこだ?」と尋ねられたことがあったという
(この頃、イギリス国内のあるライブでパープルの前座で後にパープルに加入するデヴィッドカバーディルが出演
イアンギランとジョンロードから声をかけられ、ジョンはもしもの為にカバーディルの連絡先を尋ねたという)
リッチーやイアンペイスはコンチェルトのような企画は二度とやりたくないと後悔するが
、
続編の企画案がきてジョンロードが制作に取り組むのを見てリッチーは一大決心をする
すなわち
リッチーが主体となり徹底的なロックサイドのアルバムを制作
これが失敗したならその後はジョンロード主体でクラッシックとの融合路線でバンドをすすめるという提案をジョンロードに申し込む
名作「インロック」誕生の瞬間であった。
リッチーの気合いの入れ方は1曲目の「スピードキング」で伺える
それまで2期当初のライブで別名で演奏されたこの曲のファーストレコーディングは
後に「ピアノバージョン」と呼ばれたこれ
https://www.youtube.com/watch?v=lZ9KSetz6p0
(ちなみにこのピアノバージョンは一部の国でのシングル「ブラックナイト」のB面に収録された)
だがこれではダメと思ったメンバーはよりレコーディングし直しよりハードなバージョンで完成させた。
https://www.youtube.com/watch?v=9sGy_-p_sVE
冒頭のイントロはイギリスのオリジナル盤には収録されたもののアメリカ、日本盤ではカット
日本では「24カラット」というベストアルバムで初披露となった。
改めてワーナーブラザースと契約したパープルのこのアルバムはアメリカでは不発だったもののヨーロッパ各国と日本で大ヒット
オーケストラとの共演企画は「ジェミニ組曲」というジョンロードのソロ名義でレコーディング(イアンペイスとロジャーグローバーがレコーディングに参加)
お披露目ライブではパープルがバンドで参加しているが、バンド自体はハードロック路線を突き進む
この頃からリッチーはES335からストラトキャスターをメインに弾くようになり
ジョンロードもハモンドオルガンC3をマーシャルアンプで鳴らすようになる。
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