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2021年06月25日00:11

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06月25日の日記

今日の出来事:1579年−波多野氏滅亡、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が松島に到着、1863年−馬関戦争、1868年−北関東戊辰戦争:第二次今市の戦い、1868年−北越戊辰戦争:椎谷・赤田の戦い、1869年−箱館戊辰戦争:千代ヶ岡陣屋陥落、1877年−西南戦争:大口の戦い、1882年−日本初の馬車鉄道・東京馬車鉄道が新橋〜日本橋で開業、1950年−北朝鮮軍が38度線を越えて南に進攻し、朝鮮戦争が勃発、1959年−プロ野球初の天覧試合、巨人・長島茂雄が阪神・村山実からサヨナラ本塁打、1973年−予後不良となった競走馬・ハマノパレードが屠殺処分、馬肉として食肉市場に流通したことから、動物愛護からの批判を浴びる

今日は、波多野氏滅亡です。波多野氏は、「応仁の乱」で丹波守護・細川勝元に属した波多野秀長が、その戦功により丹波多紀郡を与えられました。以後、細川政元にも仕えて丹波地域一帯で勢力を誇った一族です。波多野秀長の子で英君と言われる波多野稙通は1515年、朝治山に八上城を築城しました。ここを本拠として守護代・内藤氏を討ち、さらに細川氏の勢力を駆逐して戦国大名として独立を果たしました。しかし、波多野稙通の子・晴通は、三好氏の侵攻で衰退していき、松永久秀や守護代・内藤氏を継承した松永長頼らに攻められて、服属する事を余儀なくされました。三好長慶、松永久秀らによって八上城が奪われ、波多野晴通の子・秀治は父とともに10年間の流浪の生活を送りました。その後、黒井城主の赤井直正などの支援を受けて八上城を奪い返し、再び丹波一円に勢力を広げました。織田信長が上洛すると、信長に服従する姿勢をみせました。しかし、信長と将軍・足利義昭との関係が悪化すると、信長から離れて将軍側につくようになりました。怒った信長は明智光秀を総大将として「丹波攻略」に乗り出しました。第1次丹波攻め:但馬の山名氏と黒井城の赤井直正・赤井忠家の争いが発端となり、織田信長が山名氏の要請に応える形で家臣・明智光秀を丹波に派遣したのが「丹波攻め」の始まりです。明智光秀は八上城の波多野秀治ら丹波の戦国武将たちを服従させ、赤井直正の黒井城を2ヶ月に渡って攻め囲んでいました。しかし、波多野秀治が赤井氏側に寝返ったため、背後を突かれる形になった明智光秀軍は退却を余儀なくされました。波多野氏の裏切りは赤井氏との密約があったいわれ、「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれています。第2次丹波攻め:「第1次丹波攻め」の失敗によって丹波国攻略が一筋縄でいかないことが分かり、明智光秀は周到な準備を行って、丹波亀山から八上城を目指して攻め進みました。黒井城の赤井氏と八上城を分断するため、金山城を築きました。光秀軍による八上城包囲戦が始まり、波多野氏は八上城に籠城して徹底的に抗戦しました。天然の要害である八上城の攻略は至難の業で、籠城は1年を超える長期戦となりました。八上城の周囲は光秀軍により完全に包囲され、補給路は完全に断たれている状況になり、城内には餓死者が多く出るなどしました。長期に渡る籠城に兵たちが疲弊した結果、城内で内部分裂が起こり、ついに降伏しました(八上城の戦い)。その後、波多野秀治は弟・秀尚、秀香と共に安土城に送られ、信長の命令で安土の浄巌院慈恩寺で磔に処されました。丹羽長秀・羽柴秀長の軍勢は氷上城を囲みました。5ヶ月に及ぶ籠城の末、氷上城の兵糧が尽きました。羽柴秀長は波多野宗長の才を惜しみ降伏を薦めましたが、波多野宗長は城に火を放ち、子・宗貞とともに自害して果てました(氷上城の戦い)。赤井直正は吉川元春に援軍を要請していましたが、明智光秀は細川藤孝、忠興の増援を得て包囲しました。しかし、「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井直正が病死してしまいました。赤井直正の子、赤井直義は幼少であったため、弟の赤井幸家が後見となり、赤井家を統率する事になりました。また、明智光秀軍は八上城と黒井城の分断を目的に金山城を築城し、氷上郡の西部を羽柴秀長に、氷上郡の東部を明智秀満に攻略させ、黒井城の支城を押さえて孤立無援にしました。こうして黒井城もついに落城しました(黒井城の戦い)。こうして丹波の最大勢力である波多野氏は滅亡し、丹波は平定されました。

次に、奥の細道:松尾芭蕉が松島に到着です。松島に到着した芭蕉は、伊達政宗が再興に精魂を傾けた瑞巌寺に参詣しました。その後、南方に浮かぶ雄島の磯を訪ねました。そして松島湾に舟を出し、日本一風景のよいところと言っています。ここで、芭蕉は「嶋々や 千々にくだきて 夏の海」という句を詠みましたが、「いづれの人か筆をふるひ詞(ことば)を尽くさむ」とここでは句を残しませんでした。有名な「松島や ああ松島や 松島や」と詠んだというのは後の人々が考え出した作り話です。

その次に、馬関戦争です。朝廷は勅使を江戸へ遣わして、孝明天皇の勅命として攘夷の実行を迫りました。14代将軍・徳川家茂が上洛し、朝廷は従来通りの政務委任と攘夷の沙汰を申しつけました。幕府はやむなく攘夷を実行する事を奏上し、諸藩にも通達しました。しかし、幕府は他方で「生麦事件」と「第二次東禅寺事件」の損害賠償にも追われていたため、攘夷決行は諸外国と勝ち目のない戦争をする事になり、その損害は計り知れないという趣旨の通達を諸藩に伝えていました。幕府は賠償金44万ドルを攘夷期日の前日にイギリスに支払いました。攘夷運動の中心となっていた長州藩は、日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である馬関海峡(下関海峡)に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸)を配備して海峡封鎖の態勢を取りました。攘夷期日のこの日、長州藩の見張りが田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船「ペンブローク号」を発見しました。総奉行の毛利元周(長府藩主)は躊躇しましたが、久坂玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し決行と決まりました。海岸砲台と「庚申丸」、「癸亥丸」が砲撃を行いました。攻撃を予期していなかった「ペンブローク号」は周防灘へ逃走しました。外国船を打ち払った事で長州藩の意気は大いに上がり、朝廷からもさっそく褒勅の沙汰がありました。長府藩(長州藩の支藩)の物見が横浜から長崎へ向かうフランスの通報艦「キャンシャン号」が長府沖に停泊しているのを発見しました。長州藩はこれを待ち受け、「キャンシャン号」が海峡内に入ったところで各砲台から砲撃を加えました。数発が命中して損傷を与えました。「キャンシャン号」は備砲で応戦しますが事情が分からず、交渉のために書記官を乗せたボートを下ろして陸へ向かわせました。藩兵は銃撃をし、書記官は負傷し水兵4人が死亡しました。「キャンシャン号」は急いで海峡を通り抜けました。「庚申丸」、「癸亥丸」がこれを追いましたが深追いはしませんでした。「キャンシャン号」は損傷しつつも、長崎に到着しました。オランダ東洋艦隊所属の「メデューサ号」が長崎から横浜へ向かうべく海峡に入りました。「キャンシャン号」の事件は知らされていましたが、オランダは他国と異なり鎖国時代から江戸幕府との長い友好関係があるので、攻撃はされないと油断していました。長州藩の砲台は構わず攻撃を開始し、「癸亥丸」が接近して砲戦となりました。「メデューサ号」は1時間ほど交戦しましたが、死者4名、船体に大きな被害を受けて周防灘へ逃走しました。アメリカ商船「ペンブローク号」が攻撃を受けた事を知らされたデビッド・マクドゥーガル艦長は、ただちに報復攻撃を決意して横浜を出港しました。「ワイオミング号」は下関海峡に入ると砲台の射程外を航行し、下関港内に停泊する長州藩の軍艦の「庚申丸」、「壬戌丸」、「癸亥丸」を発見しました。そして、「壬戌丸」に狙いを定めて砲撃を加えました。「壬戊丸」は逃走しましたが、遙かに性能に勝る「ワイオミング号」はこれを追跡して撃沈しました。「庚申丸」、「癸亥丸」が救援に向かいましたが、「ワイオミング号」はこれを返り討ちにし「庚申丸」を撃沈、「癸亥丸」を大破させました。「ワイオミング号」は報復の戦果をあげたとして海峡を瀬戸内海へ出ると、横浜へ帰還しました。この戦闘での米側の死者は6人、負傷者4人、長州藩は死者8人・負傷者7人でした。長州海軍はこれで壊滅状態になり、「ワイオミング号」の砲撃で砲台も甚大な被害を受けました。さらに、フランス東洋艦隊のバンジャマン・ジョレス准将が率いる「セミラミス号」と「タンクレード号」が報復攻撃のために海峡へ入りました。「セミラミス号」は砲35門の大型艦で前田、壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加えて沈黙させ、陸戦隊を降ろして砲台を占拠しました。長州藩兵は抵抗しましたが敵わず、フランス兵は民家を焼き払って砲を破壊しました。長州藩は救援の部隊を送りましたが、軍艦からの砲撃に阻まれました。その間に陸戦隊は撤収し、フランス艦隊は横浜へ帰還しました。米仏艦隊の攻撃によって長州藩は手痛い敗北を蒙り、欧米の軍事力の手強さを思い知らされました。このため、長州藩は士分以外の農民、町人から広く募兵することを決めました。こうして、高杉晋作がこの後、活躍する事になります。

その次の次に、北関東戊辰戦争:第二次今市の戦いです。「第一次今市の戦い」で敗れた会幕軍は、今市の東側に兵力の大部分を集結しました。総督・大鳥圭介と副総督・山川大蔵が率いる会幕軍は、今市宿の一斉攻撃を始めました。正午頃まで会幕軍側の攻勢が続きましたが、土佐藩兵を率いる板垣退助は西側の守備隊を再編し、会幕軍の南へ迂回して反撃を始めました。また、宇都宮から急行してきた新政府軍が到着し、攻撃を開始すると会幕軍は敗走しました。会幕軍の損害は大きく、以後は攻勢を諦めて会津西街道途中の小佐越に陣地を築き、会津西街道の防衛に移行しました。

そのまた次に、北越戊辰戦争:椎谷・赤田の戦いです。出雲崎代官所を占拠した水戸藩・市川三左衛門が率いる「諸生党」は、「鯨波の戦い」で敗退して出雲崎に退却していました。椎谷藩に列藩同盟軍への加盟を強要しようと陣屋に乗り込みました。しかし、椎谷藩は柏崎の新政府軍に密使を送って援軍を要請しました。新政府軍は、妙法寺方面と椎谷方面を同時に攻撃する作戦で戦闘を開始しました。椎谷方面は、薩摩外城四番隊や長州奇兵隊三番隊などが本道を進み、砂山の間道を薩摩十番隊と長州六番小隊が前進しました。本道は包5門を擁していたため、水戸藩「諸生党」はたまらず後退しました。正午頃には椎谷を制圧しました。新政府軍は、午後には柏崎へ引き返しました。一方、妙法寺方面は軍監・三好軍太郎を中心に加賀・高田藩兵を引きつれて進軍しました。中田・与三を進んで吉井に達したところで敵の抵抗を受けました。午後になってようやく鎮圧し、曽地まで占領しました。続いて進軍すると、赤田には列藩同盟軍が集結しており、総力戦となりました。しかし、剣野の守備にいた加賀兵や山本の警備にあった富山兵が応援に来たため、列藩同盟軍は後退しました。「椎谷・赤田の戦い」は午後4時に新政府軍の勝利で終わりました。

そのまた次の次に、箱館戊辰戦争:千代ヶ岡陣屋陥落です。弁天台場に降伏勧告が出された時、千代ヶ岡陣屋にも降伏の使者が訪れました。千代ヶ岡陣屋は、砲兵頭並・中島三郎助(元浦賀奉行)が守備していました。しかし、中島三郎助は降伏を拒否しました。新政府軍は、長州藩の山田顕義を中心に千代ヶ岡陣屋の攻撃準備をしました。一方、中島三郎助に五稜郭へ退避せよとの勧告が来ましたが、これを拒否しました。中島三郎助が浦賀与力時代から共に戦ってきた兵は、運命を共にする事を決断しましたが、「小彰義隊」隊長・渋沢誠一郎らは「五稜郭」へ退去しました。6月25日、新政府軍の千代ヶ岡陣屋への総攻撃が始まりました。千代ヶ岡陣屋に残ったのは中島隊12名の他、「額兵隊」大砲長・菅野半左衛門をはじめとする砲士20名と陸軍1小隊の50数名でした。最初は双方大砲の応酬でしたが、やがて白兵戦となりました。中島三郎助父子も刀を取って奮戦しましたが兵の数には勝てず、その日の内に全滅しました。中島三郎助は49歳、長男・恒太郎は22歳、次男・英次郎は18歳でした。腹心の柴田俊輔(元浦賀組同心)らも共に戦死しました。この父子の壮絶な死を悼んで後に、この地の町名を彼の名字から「中島町」としました。弁天台場に続いて千代ヶ岡陣屋の陥落により、蝦夷共和国軍は「五稜郭」を残すのみとなりました。

さらに次に、西南戦争:大口の戦いです。「雷撃隊」の指揮長に抜擢された辺見十郎太は、大口の防衛に派遣されました。これに対し政府軍は5月4日は、別働第3旅団の3個大隊を水俣から大口攻略のために派遣しました。この部隊は途中、小河内・山野などで少数の薩摩軍を撃退しながら、大口の北西・山野まで進攻しました。辺見十郎太は政府軍を撃退するため、大口の「雷撃隊」を展開しました。5月5日、「雷撃隊」と政府軍は牛尾川付近で交戦しましたが、「雷撃隊」は敗れて政府軍は大口に迫りました。辺見十郎太は「雷撃隊」を中心に「正義隊」・「干城隊」・「熊本隊」・「協同隊」などの諸隊を加えて大塚付近に進み、8日の朝から久木野本道に大挙して攻撃を加え、政府軍を撃退しました。政府軍は深渡瀬まで後退しました。久木野・山野を手に入れた辺見十郎太は5月9日、自ら隊を率いて政府軍に激しい攻撃を加えて撃退し、肥薩境を越えて追撃しました。11日、「雷撃隊」は水俣の間近まで兵を進め、大関山から久木野に布陣しました。人吉防衛のため球磨川付近に布陣していた淵辺群平が率いる「鵬翼隊」6個中隊も佐敷を攻撃しました。また池辺吉十郎が率いる「熊本隊」も矢筈岳・鬼岳に展開し、出水・水俣へ進軍する動きを見せました。12日、「鵬翼隊」は佐敷で敗れましたが、「雷撃隊」は圧倒的に優る政府軍と対等に渡り合い、「第二の田原坂」と言われるほどの奮戦をしました。これを見た政府軍は増援を決定し、第3旅団を佐敷へ、第2旅団を水俣へ派遣しました。政府軍は5月23日、矢筈岳へ進攻し、圧倒的物量と兵力で薩摩軍を攻撃しました。「熊本隊」は奮戦しましたが、支えきれずに撤退しました。対して26日未明、佐々友房・深野一三らが指揮する約60名の攻撃隊が矢筈岳の政府軍を急襲しましたが、政府軍の銃撃の前に後退し、「熊本隊」はやむなく大口へと後退しました。6月1日、三洲盤踞の根拠地となっていた人吉が陥落し、薩摩軍本隊は大畑へ退きました。6月3日に政府軍の二方面からの大関山への総攻撃が始まりました。政府軍の正面隊は原生林に放火しながら進撃しました。球磨川方面からは別働隊が攻撃しました。「雷撃隊」はこれらを激しく邀撃しましたが、二面攻撃に耐え切れずに大口方面へ後退しました。これを追って政府軍は、久木野前線の数火点および大関山・国見山を占領しました。6月7日に久木野が陥落し、薩摩軍は小河内方面に退却しました。翌日、政府軍はこれを追撃して小河内を占領しました。6月13日、山野が陥落しました。政府軍は大口へ迫り、人吉を占領した別働第2旅団は飯野・加久藤・吉田越地区進出のため、大畑の薩摩軍本隊に攻撃を加えました。結果、「雷撃隊」と薩摩軍本隊との連絡が絶たれました。政府軍は6月17日、八代で大口方面に対する作戦会議を開き、別働第2旅団は小林攻略と大口方面での政府軍支援、別働第3旅団は大口攻略後、南の川内・宮之城・栗野・横川方面を攻略するという手筈が整えられました。これにより「雷撃隊」は政府軍の戦略的脅威の範疇から完全に外れる事となりました。6月18日、政府軍の山野への進撃に対し、「雷撃隊」を率いる辺見十郎太は砲弾の雨の中、必死に政府軍を食い止めていました。しかし、北東の人吉からの別働第2旅団の攻撃、北西の山野からの別働第3旅団の攻撃により、郡山・坊主石山が別働第2旅団の手に落ちました。結果、両者の間の高熊山に籠もっていた「熊本隊」は完全に包囲されました。政府軍は6月20日、高熊山の「熊本隊」と「雷撃隊」が占領する大口に攻撃を加えました。この戦闘では、塹壕に拠る抜刀白兵戦が繰り広げられました。しかし、人吉・郡山・坊主石山からの三方攻撃の中、寄せ集め兵士の士気の激減と敵軍の圧倒的な物量で、辺見十郎太が指揮する部隊も敗れ、遂に大口は陥落しました。「雷撃隊」が大口から撤退する事になった時、辺見十郎太は祠の老松の傍らに立ち、覚えず涙を揮って「私学校の精兵をして、猶在らしめば、豈此敗を取らんや」と嘆きました。これが有名な「十郎太の涙松」の由来となりました。6月25日、「雷撃隊」は大口の南に布陣し、曽木、菱刈で政府軍と戦いましたが、相良長良が率いる「行進隊」と中島健彦が率いる「振武隊」と合流し、南へと後退しました。ここに大口方面における約2か月もの戦いは終了しました。

最後に、朝鮮戦争が勃発です。「第二次世界大戦」末期、ソ連軍(赤軍)は満州と朝鮮半島北部に侵攻しました。アメリカは、朝鮮半島全体がソビエトの手に落ちる事を恐れ、ソ連に対して朝鮮半島の南北分割占領を提案しました。ソ連のヨシフ・スターリンはこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に分割占領されました。金日成を中心とした共産勢力が、ソ連の後援を受けた北朝鮮人民委員会を設立、重要産業国有法を施行し、共産主義国家設立への道を歩み出しました。一方、日本統治時代にアメリカに亡命し独立運動を繰り広げてきた李承晩は、南半部での早期の国家設立をアメリカに迫りました。その結果、李承晩を中心とした南朝鮮過渡政府が設立されました。そして、ソウルで李承晩が「大韓民国」の成立を宣言しました。金日成はこれに対抗して、自らも「朝鮮民主主義人民共和国」を成立させました。この結果、北緯38度線は単なる境界線ではなく、事実上の「国境」となりました。中国では「国共内戦」の末、ソ連からの支援を受けて戦っていた毛沢東が率いる「中国共産党」が勝利し、「中華人民共和国」が成立しました。敗北した蒋介石が率いる「中華民国政府」は台湾に脱出し、その後も「中華人民共和国」との対立を続けます。金日成は李承晩を倒して統一政府を樹立するために、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めました。スターリンは毛沢東の許可を得る事を条件に南半部への侵攻を容認し、同時にソ連軍の軍事顧問団が南侵計画である「先制打撃計画」を立案しました。これを受けて、「中華人民共和国」を訪問した金日成は「北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助する」という約束を取り付けました。そして、1950年6月25日午前4時に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始されました。宣戦布告は行われませんでした。30分後には朝鮮人民軍が暗号命令「暴風」(ポップン)を受けて、約10万の兵力が38度線を越えました。また、東海岸道ではゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断しました。 このことを予測していなかった李承晩とアメリカを始めとする西側諸国は衝撃を受けました。なお北朝鮮では、当時から現在に至るまで「韓国側が先制攻撃してきたものに反撃したのが開戦の理由」だと主張し続けているほか、中華人民共和国でも現在に至るまで「アメリカ合衆国による北朝鮮への軍事進攻によって戦争が始まった」と学校で教えられています。中国国家副主席・習近平も「6.25は平和を守ろうとする侵略に対立した正義のある戦争」であると表明しています。 この様な北朝鮮や中華人民共和国による主張は、ソ連崩壊後のロシア政府により公式に否定されています。首都ソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴会があり、軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していました。このため李承晩への報告は、奇襲後6時間経ってからでした。さらに、韓国軍には対戦車装備がなく、ソ連から貸与された当時の最新戦車である「T−34戦車」を中核にした北朝鮮軍の攻撃には全く歯が立たないまま、各所で韓国軍は敗退しました。ただしその一方で開戦の翌々日には、春川市を攻撃していた北朝鮮軍がその半数の兵力しかない韓国軍の反撃によって潰滅状態になるなどし、韓国軍の応戦体制も整いました。このようにして、「朝鮮戦争」がはじまりました。

今日の誕生日: アントニ・ガウディ、貞明皇后、秩父宮雍仁親王、獅子てんや(てんやわんや)、愛川欽也、小渕恵三(第84代内閣総理大臣)、本宮ひろ志、沢田研二(元ザ・タイガース)、高田文夫、松居一代、ジョージ・マイケル(元ワム!)、本田泰人、松浦亜弥、岸本早未、伊藤隆大、藤ヶ谷太輔(Kis−My−Ft2)、平手友梨奈(元欅坂46)

今日の記念日:住宅デー、救癩の日、指定自動車教習所の日、天覧試合の日、浜木綿忌、サザンの日

今日の「今日訓」:本日は、スペインの建築家アントニオ・ガウディの1852年の誕生日を記念して「住宅デー」、1960年に「道路交通法改正」により、指定自動車教習所制度が始まった事と「6(む)2(じ)5(こ)」の語呂合わせで「指定自動車教習所の日」、癩病(ハンセン病)の予防と患者の救済に深い関心をよせていた大正天皇の后・貞明皇后の誕生日を記念して「救癩の日」、初のプロ野球の天覧試合が行われた事を記念して「天覧試合の日」、作曲家・宮城道雄の忌日で「浜木綿忌」、1978年にサザンオールスターズが シングル「勝手にシンドバッド」でメジャーデビューした事で「サザンの日」となりました。
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