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2021年06月22日03:06

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気まぐれ創作

『万年樹の記憶』

六日目の朝だ。
真夏なのに、とても風が冷たい。
目覚めたぼくは、すぐに体に巻き付けてあった厚いブランケットをほどいた。
色あせている上に、あちこちに繕(つくろ)ったあとがある、恐ろしくくたびれた一枚。
だが、これが命綱だ。
睡眠中の体温を維持するために。そして、今日も登攀(とうはん)を続けるために。
ていねいにたたむとリュックサックにしまい込む。
ひもでつないでいるので、まず手放すことはないが、もし落としてしまったら最後だ。
この木、”万年樹”の枝に引っかかればいいが、地上に落ちたら、まず見つけることはできないだろう。
また、見つけられるところに落ちたならば、必ず誰かに拾われてしまい、二度と手にすることができなくなるだろうから。

あらためて、そろそろと下を見下ろしてみる。
今日は雲が少ないので、枝々の間からわりに地上が見えた。
といっても、緑の山並みや川が見えるだけで、人の姿はとうに確認できない。
豆粒のような人家の屋根ならまだわかるが。
今、そんな高みにいる。
恐らく、人の身長の百倍くらい登ってきているはずだ。
昨日の朝の夢ではそういうことだった。

次に、自分の胴体よりもやや太い枝に回してあった命綱をはずす。
そして、体を起こすと四つん這いになった。
綱をはずすと落下の恐怖がこみ上げてきて体が震えた。
突然、とんでもなく強い風が吹いたら、と考えてしまう。
何日たっても、この状態に慣れることはできない。
そう考えながら、そろそろと幹(みき)に近づいていく。
根元では畑数枚分はあった幹の太さも、もう家一軒分くらいになってきていた。

幹にとりついた。
枝にまたがって、再び命綱を回して安全を確保する。
次に、リュックから手回しドリルを取り出して、幹に穴を開け始める。
板からななめ上に向かって開けるのがコツだと、先人の記憶にあった。
尖端がてのひらくらいの深さまで達したくらいで引き抜く。

次に、その穴に細竹の筒を差し込む。
くわえる。
しばらくすると、甘味のある樹液が少しずつしみ出してくる。
しっかりこれを飲んでおかなければならない。
持参してきた食料はもうほとんどないからだ。

しかし、それは大きな問題ではない。
もっと深刻なのは、今朝、夢を見なかったことだった。
万年樹のブランケット。
これを手にしてから、夢なしの朝を迎えたことはない。
何人、何十人。
いや、何百人もの登攀者が見た光景。
彼らが触れた木肌や葉の感触。

風の音。
鳥のさえずり。
冷たい雨。
凍てつく霙(みぞれ)。
秘密のルートをたどり、
体を打つ雹(ひょう)。
雷(いかずち)の轟音や閃光。
苦しくなる呼吸。
それでも上を見続け、
朦朧(もうろう)としてゆがむ星々。
貴腐実を手に入れた時の歓喜。
鬼蜥蜴(とかげ)の生ぐさい臭い。
剣で突き刺す感触。
腕を食いちぎられる激痛。
叫びと落下。

膨大な想いや希望や絶望。
そして何より、木を登っていくために必要な情報が、この布切れには、なぜか詰まっていた。
それが夜ごとに浴びせかけられていたというのに。

もしかして、ここまでなのだろうか。
嫌な予感がする。
これより上に行った者がいないのではないか、という予感だ。

樹液を飲み終えて、ドリルの刃の間に詰まっている”おが屑”を取り除き、穴に詰めていく。
木の怒りを買わないための重要な作業で、登攀者のみながやってきた。
感謝の言葉を述べる。
貴腐実を賜(たまわ)りたい旨を言葉にする。
謎の病に冒(おか)されて苦しんでいる姉の姿を思い浮かべる。

(つづく)

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