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2021年06月22日00:04

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06月22日の日記

今日の出来事:1352年−南北朝動乱:観応の擾乱(男山八幡の戦い)、1582年−魚津城の戦い、1636年−江戸幕府が第四次鎖国令を布告、1868年−戊辰戦争:奥羽越列藩同盟が成立、1868年−北越戊辰戦争:片貝の戦い、1868年−北越戊辰戦争:妙法寺の戦い、1945年−第二次世界大戦:姫路空襲、水島空襲、各務原空襲、呉空襲、1986年−FIFAワールドカップメキシコ大会準々決勝で、ディエゴ・マラドーナの「神の手ゴール」と5人抜きの「世紀のゴール」により2対1でアルゼンチンがイングランドに勝利、2013年−富士山が「富士山−信仰の対象と芸術の源泉」として「世界文化遺産」に登録

今日は、南北朝動乱:観応の擾乱(男山八幡の戦い)です。男山八幡の戦いは、観応の擾乱での合戦の一つです。1352年に山城国・京都から男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)で、後村上天皇ら南朝方の軍勢と足利義詮ら北朝方の軍勢との間で行われた合戦です。「観応の擾乱」により、「北朝」は足利尊氏派と足利直義派に分裂しました。直義派による高師直・師泰兄弟の謀殺後も対立は止まりませんでした。1351年に足利直義は自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉に入りました。足利尊氏は足利直義討伐を優先し、「南朝」と和睦して後村上天皇から足利直義・直冬追討令を得ました。足利尊氏は嫡子・義詮を京都に残し、東海道を東進しました。足利尊氏が「南朝」へ降伏した事により、「北朝」の崇光天皇は廃され、年号も「北朝」の「観応2年」が廃されて南朝の「正平6年」に統一されました。これが「正平一統」と呼ばれる事になります。1352年3月12日に、鎌倉で足利直義が急死しました。足利尊氏による毒殺説があります。この北朝方の混乱に乗じて、北畠親房は「正平一統」を破棄します。足利尊氏の「征夷大将軍」を解任し、東西で呼応して京都と鎌倉の同時奪還を企てました。4月5日、京都の南朝方・楠木正儀、北畠顕能は足利尊氏が不在の隙を突き、和議を破って足利義詮へ攻撃を開始しました。不意を突かれた北朝方は苦戦に陥り、「七条大宮の戦い」で細川頼春が戦死、足利義詮は近江に逃れました。南朝方は「南北朝分裂」以降、初めて京都を奪回しました。「北朝」の光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王は南朝方に捕われ、賀名生へ移されました。後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条(河南町)、摂津国住吉(大阪市住吉区)、さらに山城国男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)へ移しました。同じ時期、関東でも新田義貞の遺児・新田義興・義宗らが「征夷大将軍」に任じられた宗良親王と共に挙兵(武蔵野合戦)、京都・鎌倉の双方が南朝方の支配下となりました。近江へ逃れた足利義詮は、各地の守護の力を結集して勢力回復を図りました。佐々木道誉、細川顕氏、土岐頼康らに加え、足利直義派だった斯波高経らも足利義詮の味方となりました。勢力を盛り返した北朝方は、4月29日に京都を奪還しました。続いて、後村上天皇の仮御所のある男山八幡を包囲しました。北朝方は守りの固い男山八幡に対し、包囲して兵糧攻めを行いました。包囲戦は約2ヵ月におよび、飢えに苦しむ南朝方から熊野湯川荘司等、北朝方へ寝返る武将が現れました。後村上天皇は6月23日に側近とともに包囲を脱出し、男山八幡は陥落しました。後村上天皇は北畠顕能、名和長重に護られて男山を脱出する途中に、足利軍と遭遇しました。殿を務めた四条隆資は、後村上天皇を守るために奮戦して討死しました。この戦いにより、「正平一統」は破棄されました。足利尊氏は関東で南朝方との戦いに追われており、上方の危機に対応できませんでした。しかし、足利義詮は有力守護の助力を得て、京都を奪還する事ができました。「北朝」の三上皇と皇太子は賀名生に捕らえられており、「三種の神器」が「南朝」に接収されたため、幕府の法的根拠を失う状況となりました。北朝方は神器無しで強引に後光厳天皇を即位させましたが、先に足利尊氏が「南朝」に降伏した事で「北朝」の権威を傷つける事となりました。

次に、魚津城の戦いです。足利義昭が反信長勢力を迎合すると、上杉謙信は織田信長と敵対関係に入りました。しかし、上杉謙信が死去し、上杉家では「御館の乱」を経て上杉景勝が当主となりました。上杉景勝は信長の敵である甲斐の武田氏と同盟しました(甲越同盟)。上杉謙信の死後、織田信長は北陸地方の支配を目論みました。「荒川の合戦」以後、事実上織田方に仕えているが上杉方に内通していた願海寺城主・寺崎盛永、木舟城主・石黒成綱などが信長によって次々と粛清されました。その後、織田勢は甲斐の武田氏を滅ぼしました。そして、織田軍は魚津城を囲みました。しかし、背後で小島職鎮が上杉景勝と手を組み、神保長住の富山城を急襲して城を乗っ取ったため、柴田勝家・佐々成政・前田利家・佐久間盛政は魚津城攻めを中止し、富山城を攻めて奪還しました。その後、4万の織田軍は魚津城への攻撃を再開し、上杉軍も3800という兵で立て籠りました。魚津城を包囲された上杉方指揮官の中条景泰は、すぐに上杉景勝に救援を求めましたが、越後国に接する信濃国及び上野国には「武田征伐」を終えた織田軍が駐屯しており、さらに越後・新発田城主の新発田重家が上杉景勝へ反旗をしていた為、兵を出せませんでした。その代わり能登国の諸将、および松倉城主・上条政繁や斎藤朝信を派遣しました。その後、上杉景勝は魚津城救援のため、自ら軍勢を率いて春日山城を出発、魚津城東側の天神山城に入って陣を張りました。織田軍は二の丸を占拠したため、上杉景勝は魚津城に戦を仕掛けられませんでした。信濃国・海津城の森長可や上野国・厩橋城の滝川一益が上杉景勝の本拠、春日山城を総攻撃する態勢に入ったため、退陣を決断しました。その後、上杉軍は籠城戦を展開し、両軍が決死の攻防戦を繰り広げました。しかし、開戦から3ヶ月後ついに落城を悟った山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・中条景泰・竹俣慶綱ら上杉方の守将13人が自刃して果て、魚津城は落城しました。実は、この前日に織田信長が明智光秀により討たれた「本能寺の変」が起きていました。織田軍指揮官の柴田勝家に急報が入ったのは落城の翌日でした。この急報があと1日早ければ、13守将自刃の悲劇は起きなかったと言われています。

その次に、江戸幕府が第四次鎖国令を布告です。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放し、残りのポルトガル人を長崎出島に移しました。

その次の次に、戊辰戦争:奥羽越列藩同盟が成立です。新政府軍との会談に決裂した越後・長岡藩が加盟し、さらに新発田藩、村上藩、村松藩、三根山藩、黒川藩の北越5藩が加入し、計31藩による「奥羽越列藩同盟」が成立しました。輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主とし、総督:仙台藩主・伊達慶邦、米沢藩主・上杉斉憲、参謀:小笠原長行、板倉勝静、大本営:軍事局(福島)です。以下の事が評議されました。
・白河以北に薩長軍を入れない、主に会津が担当し仙台・二本松も出動する
・庄内方面の薩長軍は米沢が排除する
・北越方面は長岡・米沢・庄内が当たる
・新潟港は列藩同盟の共同管理とする
・薩長軍の排除後、南下し関東方面に侵攻し、江戸城を押さえる
・世論を喚起して、諸外国を味方につける

そのまた次に、北越戊辰戦争:方貝の戦いです。小千谷を占拠された列藩同盟軍は、佐川官兵衛が率いる朱雀士中四番隊、朱雀寄合二番隊、「純義隊」、「鎮将隊」などの会津藩兵と水戸藩「諸生党」が南下しました。新政府軍(軍監・岩村精一郎が率いる高田・松代・飯田・尾張藩兵)と片貝村で戦いました。会津軍は白兵突撃をし、高田藩兵を崩しました。松代藩・尾張藩兵も後退しました。そして、飯田藩と激戦となり、薬師峠を占領しました。しかし、薩摩・長州の援軍が現れると敗走しました。

そのまた次の次に、北越戊辰戦争:妙法寺の戦いです。「鯨波の戦い」の後、柏崎から退却して来た会津藩兵らが草津油で地雷火を仕掛けて妙法寺に陣取りましたが、新政府軍の銃撃により辺り一円炎の海と化しました。列藩同盟軍はこの地から引揚げざるを得なくなりました。

さらに次に、第二次世界大戦:姫路空襲、水島空襲、各務原空襲、呉空襲です。
姫路空襲:1945年6月22日午前9時50分頃、「B−29爆撃機」約60機が飛来し、播但線・京口駅の西にあった「川西航空機姫路製作所」を中心に約1時間の爆撃を行ないました。爆撃の目的地である製作所が全壊した他、周辺の民家や道路、上下水道なども甚大な被害を受けました。製作所にいた徴用や学徒動員、社員など多くの従業員や周辺住民を含めた被害は、死者341人、被災者10220人でした。
水島空襲:1945年6月22日午前8時36分、グアム島より飛び立ったアメリカ軍の爆撃機「B−29」110機により、岡山県浅口郡連島町と児島郡福田村(現・倉敷市水島)に所在していた「三菱重工業水島航空機製作所(現・三菱自工水島製作所)」が爆撃を受けました。1時間で計603トンの爆弾を投下しました。 この爆撃で、水島航空機製作所の工場建物10棟が全壊、18棟が半壊、製造中の航空機数十機が破壊され、主要工場は全壊という壊滅状況に追い込まれました。当時の水島航空機製作所では、日本海軍の「一式陸攻」や「紫電改」を生産しており、米軍が日本の軍需産業を破壊する目的で行った空襲でした。ここの日は休日であったため犠牲者は少なかったのですが、死者11人、重軽傷者46人、工場の外で農作業中に爆弾や高射砲弾の破片で死傷した民間人もいました。倉敷市福田町古新田の「水島緑地福田公園」には、1990年に「平和の鐘」が設置されました。これは倉敷市が1986年9月18日に平和都市宣言をしたのにちなんで設置されたものです。「水島空襲」が始まった6月22日午前8時36分に、市民が平和を祈って鐘を打ち鳴らします。
各務原空襲:1945年6月22日午前9時頃、44機の「B−29」により、岐阜県稲葉郡那加町、蘇原町(現・各務原市)が空襲を受けました。各務原飛行場、航空廠、川崎航空機、三菱重工業といった軍事、軍需施設の爆撃が目的でした。空襲時間は約20分でした。1トン爆弾が川崎航空機本館に命中するなど、川崎航空機、三菱重工業の施設が壊滅し、陸軍航空廠も大きな被害を受けました。被害は那加駅周辺にも及びました。死者は169人、このうち63人は川崎航空機の従業員、動員学徒などでした。
呉空襲:1945年6月22日午前9時20頃から約1時間、「呉海軍工廠」が「B−29」の大編隊290機による空襲を受けました。工廠の被害は潜水艦桟橋の付近が最もひどく、港内に停泊していた「榛名」の四番砲塔付近に爆弾が命中して推進器が破損しました。「榛名」は自力航行が不可能となり、江田島・小用沖に曳航され繋留されました。この空襲で死者1600人の被害が出ました。

最後に、富士山が「富士山−信仰の対象と芸術の源泉」として「世界文化遺産」に登録です。静岡県と山梨県にまたがる日本最高峰の「富士山」は、古来富士信仰が育まれた霊峰です。葛飾北斎の「富嶽三十六景」などに代表される芸術上の主要な題材として、日本国内のみならず国際的にも大きな影響を及ぼしました。1990年代初めから、富士山をユネスコの「世界遺産」に登録しようという運動が活発になりました。当初は「自然遺産」への登録が検討されていましたが、地元調整がつかず環境管理(特にゴミ問題)が困難なため、国は推薦を見送りました。その後、文化的景観という観点から「文化遺産」への登録手続きが進められる事となり、2007年に暫定リストへ登録されました。2010年7月2日に開かれた学術委員会で、富士山の世界遺産登録のための推薦書原案が承認されました。富士山の普遍的価値は「信仰」、「芸術」、「景観」の3つを評価基準とする事とし、17の構成資産に決定されました。しかし、1000円札に用いられている「本栖湖」は、イコモスの求める「国際的評価のある展望線」の条件を満たす可能性が最も高いという事から構成資産に含む方向性となり、「本栖湖」の文化財登録の必要性が出てきました。その後、「本栖湖」のみを構成資産候補とする試案が成立しましたが、「なぜ1湖だけ世界遺産になるのか」などの反発によって山梨県は「富士五湖」全体での登録を目指す事となりました。2011年2月7日には8合目以上と一部の登山道が日本国の史跡に指定されました。2011年7月に、静岡県の岩瀬洋一郎副知事と山梨県の横内正明知事が「文化庁」を訪れ、推薦書原案を文化庁長官に提出しました。2013年4月30日に「文化庁」は、「国際記念物遺跡会議」が6月にカンボジアで開かれる「世界遺産委員会」で富士山を「文化遺産」として登録するよう勧告した事を発表しました。ただし、富士山から45km離れている「三保松原」を除いた上で登録すべきという、条件付の勧告でした。2013年6月22日、カンボジアのプノンペンで開催された「第37回世界遺産委員会」で、富士山は「世界遺産」に登録されました。「三保松原」も含まれる事となり、「世界遺産」としての正式な登録名は「富士山−信仰の対象と芸術の源泉」となりました。その構成資産は、以下の25資産です。
1.富士山域(山頂の信仰遺跡群、富士宮口登山道、御殿場口登山道、須走口登山道、吉田口登山道、北口本宮冨士浅間神社、西湖、精進湖、本栖湖)、2.富士山本宮浅間大社、3.山宮浅間神社、4.村山浅間神社、5.須山浅間神社、6.冨士浅間神社(須走浅間神社)、7.河口浅間神社、8.冨士御室浅間神社、9.旧外川家住宅(御師住宅)、10.小佐野家住宅(御師住宅)、11.山中湖、12.河口湖、13.出口池(忍野八海)、14.お釜池(忍野八海)、15.底抜池(忍野八海)、16.銚子池(忍野八海)、17.湧池(忍野八海)、18.濁池(忍野八海)、19.鏡池(忍野八海)、20.菖蒲池(忍野八海)、21.船津胎内樹型、22.吉田胎内樹型、23.人穴富士講遺跡、24.白糸ノ滝、25.三保松原

今日の誕生日:徳川家慶(江戸幕府第12代将軍)、坪内逍遥、山本周五郎、佐々木すみ江、秋山豊寛、笹野高史、シンディ・ローパー、マイケル・キネーン、周星馳、北勝海信芳、阿部寛、斉藤和義、玉袋筋太郎(浅草キッド)、柳美里、西山喜久恵、板谷由夏(元SOUTH END×YUKA)、川上憲伸、川田裕美、加藤ローサ、ファンタジスタさくらだ(あやまんJAPAN)、加藤ミリヤ、伊野尾慧(Hey!Say!JUMP)、アナ王女

今日の記念日:日韓条約調印記念日、ボウリングの日、かにの日、らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日、DHAの日

今日の「今日訓」:本日は、1965年に「日韓基本条約」等の調印式が行われた事を記念して「日韓条約調印記念日」、1861年6月22日にボウリング場オープンの広告が掲載された事で「ボウリングの日」、五十音順で「か」の文字が6番目、「に」の文字が22番目に登場する事に加え、星座占いで「かに座」がこの日に始まる事から「かにの日」、2001年に「ハンセン病補償法」が公布・施行された事で「らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日」、「DHA」が6つのシス型の二重結合を含む22個の炭素鎖をもつカルボン酸の総称である事から「DHAの日」となりました。
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