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2021年06月14日00:08

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06月14日の日記

今日の出来事:889年−桓武天皇の孫、高望王が平姓を賜る(平家の誕生)、1235年−藤原定家が古今の和歌、百首を書写する(百人一首の原型)、1523年−寧波の乱、1558年−浮野の戦い、1572年−木崎原の戦い、1789年−アメリカケンタッキー州の牧師エライジャ・クレイグによってバーボン・ウイスキーが初めて作られる、1800年−フランス革命:マレンゴの戦い、1807年−ナポレオン戦争:フリートラントの戦い、1868年−北越戊辰戦争:三国峠の戦い、1940年−隅田川の可動橋・勝鬨橋が完成、1972年−日本航空ニューデリー墜落事故、1981年−「世界の山ちゃん」の第一号店開店

今日は、桓武天皇の曾孫、高望王が平姓を賜る(平家が誕生)です。桓武天皇の第三皇子・葛原親王の三男・高見王の子の高望王は、宇多天皇の勅命により平朝臣を賜与されて臣籍降下し、平高望と名乗りました。平高望は上総介に任じられました。長男・国香、次男・良兼、三男・良将を伴って任地に赴きました。平高望親子は任期が過ぎても帰京せず、国香は前常陸大掾の源護の娘を、良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど在地勢力との関係を深め、常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発しました。自らが開発者となって生産者となる事によって勢力を拡大し、その権利を守るため「武士団」を形成して、その後の高望王流・桓武平氏の基盤を固めました。

次に、藤原定家が古今の和歌、百首を書写する(百人一首の原型)です。百人一首は、藤原定家が選んだといわれる私撰和歌集です。その原型は、鎌倉幕府の御家人・宇都宮頼綱の求めに応じて、藤原定家が作成した色紙です。100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためました。藤原定家が小倉山で編纂したといわれる由来から「小倉百人一首」という通称が定着しました。

その次に、寧波の乱です。寧波の乱は、1523年、細川氏と大内氏の遣明船の入港に際し、寧波で引き起こされた事件です。室町幕府と中国の明朝との間で行われた日明貿易「勘合貿易」は、室町幕府3代将軍・足利義満、明の2代皇帝・建文帝の時に開始されました。明が海禁政策を行っている事から、幕府将軍が「日本国王」として冊封し、倭寇と区別するために「勘合符」を発行して相手を承認する朝貢形態で行われ、十年一朝などの制限がされていました。幕府が派遣する使節には、博多や堺などの有力日本商人が随行し、その間で私的な貿易が行われていました。1467年に「応仁の乱」が起こると、幕府の管領家で堺を貿易の拠点にしていた細川氏や、山口を本拠に博多、兵庫などに権益を持っていた大内氏がそれぞれ独自に使節団を派遣して貿易をはじめた為、両氏は「勘合符」を巡って対立しました。明で正徳帝(武宗)が即位すると、大内氏が遣明船(勘合船)を主催して発行した「正徳勘合符」を独占しました。大内義興が管領・細川高国の要請を受けて、追放されていた前将軍・足利義稙を奉じて上洛し、将軍職復帰を実現させると、功労として大内氏が遣明船派遣の管掌権を永久的に保証されました。これによって、日明貿易の主たる港が堺から博多に移った為、細川高国は収入源となっていた明との交易利権を奪われる形となりました。1519年に大内義興が領国の事情から山口に戻ると、細川高国は大内氏と対立する姿勢を見せました。1523年に大内義興が謙道宗設を正使に遣明船を派遣すると、細川高国は対抗して鸞岡端佐を正使、宋素卿(朱縞)を副使として既に無効となった「弘治勘合符」を持たせて、南海経由で遣明船を派遣しました。寧波には、先に大内方の遣明船が入港していました。後に入港した細川方には不利でしたが、副使・宋素卿は明の入港管理所である市舶司大監の頼恩に賄賂を贈りました。到着順に船内を臨検するという先例を覆して、細川船を先に処置するよう便宜を図らせ、嘉賓堂の席次も鸞岡瑞佐を謙道宗設の上位に置かせました。これに激怒した大内方は宋素卿を捕えようと、細川方を襲撃して遣明船を焼き払い、嘉賓館、東庫などを襲撃しました。これに対して明の官憲が細川船に荷担して鎮圧を図った為、大内方の矛先は彼らにも向いました。この結果、謙道宗設によって鸞岡端佐は殺害されました。宋素卿は紹興城へ逃れましたが、大内方の追跡によって明の役人・劉錦らが殺害されました。事件は外交問題となり、宋素卿は投獄されて死罪となりましたが、まもなく獄死しました。対日感情の悪化から、1529年に市舶司大監は廃止されました。日明貿易は縮小を余儀なくされ、私貿易が増加、後期倭寇の激増「嘉靖大倭寇」へとつながる事件となりました。

その次の次に、浮野の戦いです。織田信長は、尾張下四郡を支配する清洲・織田氏(織田大和守家)の守護代・織田信友を「萱津合戦」で破って自刃させました。さらに、弟・信勝との内訌「稲生の戦い」に勝利した織田弾正忠家の織田信長は、守護の斯波義銀を追放しました。こうして、織田信長は尾張の支配を固めていきましたが、尾張上四郡を支配していた嫡流の岩倉・織田氏(織田伊勢守家)の守護代・織田信安が健在でした。織田信安は織田信秀の妹を妻とし、若年の信長とも交流がありましたが、「長良川の戦い」の際には隣国の美濃・斎藤義龍と手を組んで織田信長を攻撃するなど、敵対関係となりました。しかし、織田信安は長子・信賢を遠ざけて次子・信家を跡継ぎにしようとしたため、織田信賢に追放されました。岩倉・織田氏の内紛を見た織田信長は、父・信秀の死後に独立していた犬山城主・織田信清に対し、自分の姉・犬山殿を嫁がせて味方に組み入れました。そして1558年、織田信長は2000の軍勢を率いて出陣し、浮野で3000の軍勢を率いる織田信賢軍と交戦しました。激戦が続きましたが、織田信長の元へ織田信清の援軍1000が到着すると形勢は一気に傾き、織田信賢軍は壊滅しました。1200を超える死者を出した織田信賢は、岩倉城へ敗走しました。翌1559年、織田信長は軍勢を率いて織田信賢の本拠・岩倉城を包囲しました。数ヶ月の籠城戦の後に、織田信賢は降伏しました。その後、織田信長は織田信清を追放し、尾張統一を完成させます。この「浮野の戦い」で織田信賢軍として活躍した林弥七郎は、「稲生の戦い」で戦死した林美作守通具の縁者でした。林弥七郎は弓の名手で、織田信長方の鉄砲の名手・橋本一巴と組討ちを演じましたが痛み分けとなりました。また、前田利家の弟・佐脇良之の右肘を斬り、負傷させましたが最後は佐脇良之に討ち取られました。その他、織田信賢軍には後に大名となる山内一豊の父・盛豊や堀尾吉晴の父・泰晴も参戦していました。

そのまた次に、木崎原の戦いです。木崎原の戦いは、300人の島津義弘軍が、3000人の伊東祐安軍を破った「九州の桶狭間」と言われる戦いです。薩摩の島津家第十五代当主・島津貴久が没すると、大隅の肝付氏が島津領に侵攻し始めました。日向の伊東義祐はこれを好機と見て、大攻勢を開始しました。伊東義祐は、事前に人吉の相良義陽のもとに密使を送り、この合戦への援軍を約定させました。伊東祐安を総大将に、伊東祐信、伊東又次郎、伊東祐青を大将とした青年武士を中心とした3000の兵は、島津領との最前線に位置する小林城を出立しました。飯野・妙見原に到着すると、ここで軍を二手に分け、一軍は島津義弘の居城・飯野城の抑えとして妙見原に留まりました。もう一軍は、伊東祐信と伊東又次郎が率いて、飯野城を横目に上江村から木崎原を抜けて、島津義弘の妻子が籠る守兵50人ほどの加久藤城へ、攻撃を仕掛けるべく進出しました。伊東祐信は、まず手始めに加久藤城周辺の民家を焼いて島津軍を挑発しました。それにより加久藤方面の夜空が炎で赤く染まり、それを見た近臣により島津義弘は起こされました。島津義弘は狼煙を上げさせて、大口城の新納忠元や馬関田城などに急を知らせました。そして、兵60人を遠矢良賢に与えて加久藤城の救援にあたらせ、五代友喜の兵40人を白鳥山野間口に、村尾重侯の兵50人を本地口の古溝にそれぞれ伏せさせました。 そして、有川貞真に留守居を任せると、島津義弘も自ら兵130を率いて出陣し、飯野城と加久藤城の間の二八坂に陣を張りました。伊東祐信の隊は、加久藤城への侵攻を開始しました。夜の暗さと若い不慣れな将兵の勘違いにより、樺山浄慶の屋敷を間違って攻撃しました。 樺山浄慶父子3人は上から石を投下し、更にあたかも多数の将兵がいるように見せかけつつ、伊東祐信の隊を攻撃し、奮戦しましたが討ち取られました。伊東祐信の隊はさらに搦め手へと向かいましたが、狭い隘路を押し進む事になり、かつ断崖であったために思うように攻められず、大石や弓矢による攻撃に苦しめられました。そこへ加久藤城を守る川上忠智が城から打って出て突撃、狼煙により駆け付けた馬関田、吉田からの救援と遠矢良賢の兵による攻撃を受けて、伊東祐信の隊は退却を余儀なくされました。この一戦で、伊東杢右衛門や小林城主・米良重方が討ち取られました。その頃、相良軍500人は島津義弘が諏訪山の大河平に立てさせた幟を見て、これを島津の将兵と思い込み、そのまま人吉へと引き返していました。退却した伊東祐信の隊は池島川まで下がり、鳥越城跡地で休息しました。島津義弘にその情報がもたらされると出陣し、正面からこれに斬り込んで沢山の将兵を討ち捨てとしました。ここで大将の伊東祐信は島津義弘との一騎討ちに敗れ、三角田の地で討ち取られました。伊東軍が白鳥山に登ると、白鳥神社の座主・光巌上人が僧侶と農民合わせて300人余りの者に、鉦・太鼓を打ち鳴らさせ、更に白幟を押し立てさせて伏兵を装わせました。慌てて戻る伊東軍に対し島津義弘は、鎌田政年に兵60人を預けて敵の背後に廻らせ、自らはこれに正面から突撃しました。しかし、破れて後退し、遠矢良賢、久保伴五左衛門、野田越中坊、鎌田大炊助、曾木播磨、富永刑部の6人が抑えとなって、島津義弘隊を退かせました。遠矢良賢ら足止めをした6人は全員討たれましたが、その間に島津義弘隊は木崎原に至り、加久藤城からの援軍を吸収して隊列を整えると、再び伊東軍と交戦しました。島津軍の立て直しの速さに、伊東軍は虚を突かれました。そこへ追い討ちを掛けるように伊東軍の背後から鎌田政年隊が攻撃、伏せていた五代友喜隊が側面から攻撃を加えました。結果的に「釣り野伏せ」の形となり、伊東軍は隊伍を乱して崩れ始めました。崩壊した伊東軍は小林城へと退却を始めますが、本地原まで差し掛かった時に伏せていた村尾重侯隊の攻撃を受け、そこで総大将・伊東祐安は脇下を射ぬかれ、真っ逆様に落馬して絶命しました。また、伊東祐安の嫡子・伊東祐次と祐安の弟・伊東右衛門ら160人は小林城とは反対方向の丘へ逃げ、そこを遅れて到着した新納忠元の150騎に討たれました。島津軍は鬼塚原まで伊東軍を追い、柚木崎正家、肥田木玄斎を討ち取ると、そこで全軍に追撃中止の法螺貝を鳴らさせました。この戦いで伊東軍は幹部クラスの武士128人、それを含めた士分250余人、雑兵560人余りを失い、結果的に伊東氏の内部崩壊につながりました。

そのまた次の次に、アメリカケンタッキー州の牧師エライジャ・クレイグによってバーボン・ウイスキーが初めて作られるです。アメリカ合衆国発足の年に、エライジャ・クレイグ牧師によって作られ始めたのが最初と言われています。バーボンという名前は、「アメリカ独立戦争」の際にアメリカ側に味方した、フランスの「ブルボン朝」に由来します。後に合衆国大統領となるトーマス・ジェファーソンがケンタッキー州の郡の一つを「バーボン郡」と名付け、それがそのまま同地方で生産されるウイスキーの名前となり、定着したものです。エライジャ・クレイグは、「バーボンの父」と言われますが、ケンタッキー州ジョージタウンの創設者としても有名です。クレイグはケンタッキー州フランクフォートへ移住し、地元の名士として名を馳せました。クレイグはケンタッキー州初の縮充工場と製紙工場を建設しました。また、副業としてウィスキーの製造にも手を付け、ジョージタウンにウイスキーの蒸留所を建設しました。クレイグは蒸留したウイスキーを内側の焼けた樽に入れたまま放置してしまい、数年後に開けてみると赤みがかった芳醇な液体が現れました。これが、バーボン・ウイスキーの原型となりました。

さらに次に、フランス革命:マレンゴの戦いです。オーストリアは「第二次対仏大同盟」を結成してフランスへ宣戦し、北イタリアの大部分を奪回しました。第一統領に就任してフランスの独裁権を確立したナポレオンは、反撃のためにジュネーヴに軍を集結させました。ナポレオンは37000を率いて、グラン・サン・ベルナール峠を越えて北イタリアへ進出しました。オーストリア軍はジェノヴァに籠城するマッセナ指揮下のフランス軍部隊を、攻囲中でした。オーストリア軍31000はアレッサンドリアからマレンゴへ前進し、ヴィクトールのフランス軍部隊を攻撃しました。戦場のフランス軍は23000しかおらず、数で勝るオーストリア軍の攻勢を支えるのに手一杯でした。マレンゴがオーストリア軍に奪われ、フランス軍は3キロ余りの後退を強いられました。メラスは勝利を確信し、勝報をウィーンへ送りました。しかし、ナポレオンはまだ敗れていませんでした。ドゼーの別働隊5000が来着し、フランス軍は逆襲に転じました。ドゼーがオーストリア軍の正面へ突撃し、ケレルマンの騎兵部隊がオーストリア軍の背後を襲撃しました。オーストリア軍は分断され、アレッサンドリアへ向けて敗走しました。戦いはフランス軍の逆転勝利に終わりました。しかし、激闘の最中、勝利に大きな貢献をしたドゼーは戦死してしまいました。メラスは降伏し、北イタリアは再びフランスの手に落ちました。これにより「第二次対仏大同盟」は崩壊しました。

さらに次の次に、ナポレオン戦争:フリートラントの戦いです。この戦いは、奇しくも7年前の「マレンゴの戦い」と同じ日で、「マレンゴの戦い」とよく似た経過をたどりました。「エナ・アウエルシュタットの戦い」でプロイセン軍は壊滅的打撃を受け、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は東プロイセンへ逃れました。ロシア軍がプロイセンの救援に向かい、フランス軍との間で「アイラウの戦い」となりました。この戦いは両軍とも大きな損害を出し、決着は着きませんでした。ロシア軍は「ハイルスベルクの戦い」でフランス軍に対して戦術的勝利を収め、東プロイセンを南北に流れるアレ川の東に後退しました。ナポレオンは、ロシア軍を追うのではなく、その出撃拠点を叩くことを企図し、ケーニヒスベルクへ軍を向けました。これに対してロシア軍は、フランス軍の中で最も東側を進撃していたランヌ軍団を捕捉撃滅すべく、ケーニヒスベルクの南東約50キロの町フリートラントで、再びアレ川を渡りました。ロシア軍が45000をアレ川西岸に投入したのに対して、戦場のフランス軍はランヌ指揮下の9000とグルーシー指揮下の8000に過ぎませんでした。ランヌはコサック騎兵の浸透を受けつつも、巧みな指揮によって後退しながら時間を稼ぎました。モルティエの増援部隊がコサック騎兵を撃退し、ナポレオンも戦場に到着しました。ネイ軍団とヴィクトール軍団も戦場に到着し、フランス軍は80000近くを集結させる事ができました。この時、翌日にはミュラ軍団とダヴー軍団も戦場に到着すると予想されたため、ナポレオンの幕僚は反撃開始に反対しました。だがナポレオンは、ロシア軍の致命的失策と、それによって生じた瞬間のチャンスを見逃しませんでした。ナポレオンはネイに向けて、フリートラントの街を指差してこう言いました。「あれがゴールだ。わき目もふらず前進せよ。」これにより、ロシア軍左翼を攻撃目標として猛烈な砲撃とともにネイ軍団が前進を開始しました。ロシア軍は予備の騎兵を投入し、一時ネイ軍団が押し返される局面もありましたが、デュポン師団と近衛砲兵隊が増援に駆けつけて、これを撃退しました。ロシア軍左翼は崩壊し、ネイは用水路南側を制圧しました。アレ川にかかる橋梁が焼け落ちた事で、用水路北側に残っていたロシア軍右翼は退路を失って壊滅しました。この後、スルトがケーニヒスベルクを占領し、プロイセンは完全に敗北しました。ナポレオンとロシア皇帝アレクサンドル1世は「ティルジットの和約」に合意しました。この和約によって、フランスとロシアとの間には協調関係が成立しました。ポーランドはワルシャワ公国として独立を回復し、プロイセンはエルベ川以西の領土を失った上、巨額の賠償金を課せられました。

さらにまた次に、北越戊辰戦争:三国峠の戦いです。小栗忠順を処刑した新政府軍の原保太郎、豊永貫一郎は、沼田城に入りました。会津藩との国境を遮断するため、沼田街道を北上して戸倉口を制圧しました。次に三国峠の占領を目指し、前橋藩・高崎藩・吉井藩・伊勢崎藩・小幡藩・七日市藩・安中藩・佐野藩の計1500人を動員しました。三国峠の会津藩兵は、町野主水以下の約270名でした。町野主水隊が新政府軍と激戦をし、10時間以上持ち堪えました。しかし、会津軍は敗走し、町野主水の弟・町野久吉らが戦死しました。町野主水は、小出島まで撤退しました。この戦いが「北越戊辰戦争」の初戦となりました。

さらにまた次の次に、隅田川の可動橋・勝鬨橋が完成です。「日露戦争」での旅順陥落祝勝記念として、有志により「勝鬨の渡し」が設置されました。築地と対岸の月島の間を結ぶ渡し舟です。埋め立てが完了した月島には、石川島造船所の工場などが多く完成しており多数の交通需要があった事で、「東京港修築計画」に伴う計画で架橋が実現しました。建設当時は隅田川を航行する船舶が多く、陸運よりも水運を優先させるべく、3千トン級の船舶が航行する事を視野に入れた可動橋として設計され、跳開により大型船舶の通航を可能としました。高架橋とする案もありましたが建設費が安く済むため、可動橋案が選定されました。全て日本人の手で設計施工が行われました。こうして、勝鬨橋は無事に完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどの評判を得ました。路面電車用のレールが敷設されており、橋上を都電が通行していました。日本で現存する数少ない可動橋(跳開橋)ですが、1980年に機械部への電力供給が終了し、可動部もロックされ、跳開する事が出来なくなりました。近年、再び跳開させようとの市民運動や都の動きがあるものの、機械部等の復旧に莫大な費用(東京都の試算では約10億円)がかかる事や、多数の道路交通量がある事から、実現の目途は立っていません。

さらにそのまた次に、日本航空ニューデリー墜落事故です。日本航空の南回りヨーロッパ線である471便が、ニューデリーのパーラム国際空港への着陸進入中に空港から約24キロ手前のヤムナー河畔に墜落、搭乗員89名中86名と地上の工事作業員4名が死亡しました。犠牲者の中には、乗客としてインドのハンセン病治療に大きく貢献した宮崎松記が、客室乗務員として落語家・三遊亭圓楽の妹が含まれていました。この事故は、日本の航空会社が日本国外で起こした初めての墜落事故となりました。

最後に、「世界の山ちゃん」の第一号店開店です。株式会社エスワイフードが展開する居酒屋チェーン「世界の山ちゃん」が名古屋に開業しました。創業者・山本重雄は「栄太郎」で1年、「村さ来」で1年修行しました。働いていた店の隣に、鶏肉の手羽先唐揚げで有名な「風来坊」の支店があり、手羽先料理に注目しました。その後、山本重雄は「串かつ・やきとり やまちゃん」をオープンさせました。料理は最初、焼き鳥が多かったが「風来坊」とは違ってタレの甘みを抑え、独特の胡椒を利かせた「山ちゃん風手羽先」を完成させました。これが「世界の山ちゃん」の始まりです。この手羽先唐揚げが目玉商品となり、「幻の手羽先」という名で看板メニューとなりました。「世界の山ちゃん」に名前が変わった理由は、従業員がふざけてその名前で応対したのがきっかけといいます。

今日の誕生日:山県有朋、アロイス・アルツハイマー、川端康成、岩本徹三、チェ・ゲバラ、椎名誠、宮内洋、ドナルド・トランプ(第45代アメリカ合衆国大統領)、三田明、原秀則、ボーイ・ジョージ(カルチャー・クラブ)、永井美奈子、大塚寧々、中島史恵(元シェイプUPガールズ)、前田智徳、前田健、中島忠幸(カンニング)、別府あゆみ、比嘉愛未、溝端淳平、中川大志、ツウィ(TWICE)

今日の記念日:世界献血者デー、五輪旗制定記念日、手羽先記念日、開発支援ツールの日、モリシの日、認知症予防の日

今日の「今日訓」:本日は、アルツハイマー病を発見したドイツの精神科医のアロイス・アルツハイマー博士の1864年の誕生日から「認知症予防の日」、ABO式血液型を発見した生物学者のカール・ラントシュタイナーの1868年の誕生日を記念して「世界献血者デー」、1914年、オリンピック大会旗が制定された事を記念して「五輪旗制定記念日」、1981年に「世界の山ちゃん」開業を記念して「手羽先記念日」、1996年6月14日にドキュメント自動生成ツール「A HotDocument」が発売された事で「開発支援ツールの日」、2002年6月14日、森島寛晃が「セレッソ大阪」のホーム「長居スタジアム」で行われた「日韓ワールドカップ」のチュニジア戦で、ゴールを決めた事を記念して「モリシの日」となりました。
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