
〈6/9(水)本日の一言メッセージ+動画+α〉
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/22121 (写真入り記事)
❣「本当の幸せは、自立+神に頼ることにある」
先日は、「イギリスのことわざ」を引用しましたが、今日は「中国のことわざ」を引用します。
一日幸せになりたければ酒を飲みなさい。
三日幸せになりたければ結婚しなさい。
七日幸せになりたければ豚を殺して食べなさい。
一生幸せになりたければ釣りをおぼえなさい。
というものがあります。
「酒を飲む」ことで、約一日幸せでいられます。それ以上でもそれ以下でもありません。
2番目に、「結婚」したら三日間は幸せでいられます。結婚の幸せが三日とはちょっと短い気がしますが、「美人は三日で飽き」「ブスは三日で慣れる」と言われることは本当なのでしょうか。三日で恋が終わり、四日目からは愛が求められます。
3番目に、「ブタ」を殺したら七日間は幸せでいられます。一匹の豚肉で、一週間はお腹いっぱい食べられるので、一週間は幸せでいられるんですね。
しかし、これら三つの幸せは、受動的なもので、飲食や人によって幸せにしてもらう人生です。幸せは、求めても永続しないことを教えてくれます。
このことわざは、最後に、「釣りを覚えたら一生幸せでいられる」と締め括ります。
釣りを覚えたら、お腹が空くたびに釣りをすることで、人に頼るのではなく、能動的に自分の幸せのために自分で働きます。
つまり、「自分一人で生きて行こうとする姿勢」と「自分の幸福感を自分で管理する心構え」です。
幸せでない人を観察してみたら、誰かに依存して生きていたり、自分の幸福を人や状況頼みしている人であることがわかります。
あなたはどうですか?
自分一人で生きて行こうとする姿勢を持っていますか?
また、自分の幸福感を自分で管理する心構えを持っていますか?
人からどんなにけなされようが、人からみじめでかわいそうな人と思われても、自分が、「けなされた!」「私はみじめでかわいそう」と認めない限り、そうではないのです。
しかし、自分一人の力には限りがあります。
私は、中国のことわざの作者に断りを入れていませんが、最後にこの言葉を付け加えたいと思います。
「永遠に幸せになりたければ神を信じなさい」
神に頼るからこそ、自立し、自分一人で生きて行く力が与えられるのです。また、自分の幸福感は、神の助けがあるからこそ自分で管理できるのです。
もしあなたが、神を信じ、神を頼るなら、永遠に幸せでいられます。そんな人生を共に歩んで行きたいですね。祝福を祈ります。
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)。
「あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある」(詩篇16:11)。
🧡【動画メッセージ】
「自分を許そう」
https://youtu.be/g8AZo7kYA8E

【6/7(月)川口駅前 路傍伝道】(後半)
https://youtu.be/23cGnO5LEy0
https://youtu.be/rqF8ry2gz6o

【新宿福興教会 オンライン主日礼拝】
https://youtu.be/g01Pzz4o1fQ (夕方)

「編集後記的メッセージ 『キリストの苦しみといやし』」
「『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた」(使徒の働き9:4)。
後の大伝道者となった使徒パウロの改心のきっかけとなった一幕です。
サウロは、イエス様の弟子(使徒)たちに対して迫害するために大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてもらい、この道の者(クリスチャン)であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いていく権限をえようと旅をしていました。その途上で、突然、天からの光が彼を巡り照らし、サウロは地に倒れました。
その時、イエス様は天からサウロに語りかけました。
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と。
サウロは、クリスチャンを迫害し、さらに、その迫害を強めようとしていました。しかし、直接迫害を受けたのではないイエス様がサウロに、「なぜわたしを迫害するのか?」と語りました。
クリスチャンを迫害することは、イエス様を迫害することになることをイエス様は教えられました。
教会とは、信者の集まりであり、キリストのからだです。それは単なる概念ではなく、実際的なことなのです。つまり、体と頭は一体であるがゆえに、体を打ち叩くことは、頭を打ち叩いたことと等しいのです。
「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです」(ローマ12:5)。
「パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです」(第一コリント10:17)。
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」(第一コリント12:27)。
「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」(エペソ4:12)。
「牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい」(へブル書13:3)。
「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです」(エペソ5:23)。
「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです」(コロサイ1:24)。
クリスチャンは、キリストのゆえに迫害され、苦しめられることがあります。
これは、クリスチャンがキリストのからだの一部分だから、キリストに向けられる憎しみが向けけられるからです。
「しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです」(ヨハネ15:24〜25)。
世は、罪は、悪魔は、イエス様を正当な理由なく憎んでいるのです。
その憎しみは、私やあなたにも向けられているのです。
クリスチャンとして躓きになることの一つは、力がある人、影響力のある人から受ける傷です。
きっとあなたも、そのような傷で苦しみ、躓き、倒れそうになったことがあるのではないでしょうか?
しかし、その時に思い出してもらいたいことがあります。
イエス様も、あなたと一緒に苦しめられ、痛めつけられているのです。
そこに慰めといやしがあるはずです。
あなたの痛みのある場所にイエス様を迎え、イエス様の苦しみを感じてください。
「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ53:5)。
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