及川光博、『逆シャア』シャア衣装に感激「父ジオンの元に召されるであろう」
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俳優の及川光博、声優の古谷徹が27日、都内で行われたアニメーション映画『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』(5月21日公開)メディア向けトークイベントに参加。『閃光のハサウェイ』の世界観の元となった作品『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988年公開)のキャラクター衣装で登場した。
【動画】及川光博、「逆襲のシャア」名セリフをシャア総帥の衣装で再現!
熱狂的なガンダムファンとして知られる及川が『逆シャア』でシャア・アズナブルが着ていた衣装で、アムロ・レイ役の古谷はアムロの衣装で登壇。この日のために製作された衣装だそうで、古谷の姿を見た及川は「こっちを見ないでください…。アムロがアムロの服を着ている…。直視できない」と照れた。
「ガルマ・ザビなら得意」というが、この日はシャアの衣装だった及川は「仕事の関係で金髪まで寄せていけなかった」と悔いていた。そして『逆襲のシャア』でシャアが行っていた演説を再現することに。両手を広げるポーズをしながら「そして父ジオンの元に召されるであろう」と名せりふを口に。「42年好きですから。達成感がスゴい」と感激していた。
衣装が贈られることを知ると古谷は「アムロのコスプレって1stガンダムのしか持っていない。『逆襲のシャア』は1番好きな作品。うれしいです。名古屋で開かれている世界コスプレサミットで審査員長をやらせていただいていて。その時に着させていただきます! やった!」とガッツポーズしていた。
同作は、2019年に迎えたガンダム誕生40周年、さらに宇宙世紀の次の100年を描く「UC NexT 0100」プロジェクトの映画化作品第2弾として制作される宇宙世紀サーガの最新作であり、アムロとシャアによる最後の決戦を描いた『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988)の世界観を色濃く継承する作品。反地球連邦政府運動「マフティー」の戦いを縦軸に、そのリーダーであるハサウェイ・ノア、謎の美少女ギギ・アンダルシア、連邦軍大佐ケネス・スレッグの交差する運命を横軸に描く。
5月7日に公開予定だったが、新型コロナウイルス感染症拡大による影響を受け、公開日が5月21日に変更された。及川は「延びちゃったけど期待と愛が膨らみっぱなしですよ」とし、古谷も「あっという間ですよ。楽しみが延びたと思えば」とコメントした。
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逆襲のシャアをテレビでやっていた。昔見た記憶が残っているが、その後の記憶がない。最後にガンダムがアクシズの片割れを押している映像だけを覚えている。
逆襲のシャアでコアを占めるのはアムロでもシャアでもなくクェスだろう。彼女の存在がなければ、この作品は余程に違ったものになっていたはずだ。
ガンダムでは、規定として存在するガンダムという兵器に、どのように少年少女が関わってゆくかが壮大なモチーフだと思う。どのように出会い、そしてどの立場を立ち位置とするかを選ぶまでの葛藤や苦悩が作品の中心になる。そして決断してからの戦闘の覚醒や、それゆえの悲劇などが作品を装飾してゆく。
そのような大まかな世界線においてもクェスが持ち込んだ様々な悲劇性は異様だと思う。このような脚本を仕上げた時の監督の心理はどういうものであったろうかと想像するが、まぁ内に秘めた心情が分かる訳もない。
ただクェスという子供に様々な事をさせるために、作中に放り込んだ事は間違いないし、シャアとアムロの対立も、それぞれの立ち位置も、クェスの行動が矛盾しないための装置として機動しているように見える。
なぜか大人びたアムロと内に秘めた自信喪失をしているシャア、そこに少年兵として投入されたクェスを使って何を描きたかったのか。それは悲劇の向こうに何があるか。それがこの作品の価値のひとつだとは思うが、その不自然な構成に納得できない自分がいる。
逆襲のシャアは、不用意に殺し過ぎだ。それがリアリティと観る事も可能だが、そういう現実は、この世界だけで十分だ。では救いはどこかにあるのか、と思うが、アクシス落としは、その代償にはなるまい。それを防いだ事は決して死んでいった者たちを慰みはしない。
するとこの作品群がもつ、不条理だの悲劇だのというどうしようもな運命のような脚本の根底にあるものは何であろうか。ガンダムとは寂しさから逃れるための物語なのか。それこそが監督が見つめてきたものであろうか。分からない。
もし作画が安彦良和だったならば、もう少し違った見方ができただろうか?どうもそういう気にはなれない。強烈な矛盾を孕もうとどうしても監督が描きたかったものは何か、13歳という少女に託して、宇宙にどのような煌めきが必要だったのか。
その死を描く事で、何かが世界を満たしたか。本作を最後にその後のシャアは登場しないはずである。リアリティで考えるなら、その後の彼らに人生がない訳がなく、またこの経験こそが、彼らの人生にもたらしたものは大きいはずであるが、その人生を描く事はまだ誰の手にもなっていない。
そして作品群は、新しいシャアを必要とし、また同じ構成の繰り返しである。誰かが戦争に巻き込まれ、嫉妬や妬みに晒され、恐らく寂しさからモビルスーツに乗る。そしてまた誰かが悲劇を演じる。何故か。
この作品群が孕む創作の原動力にあるものは何か。とても良く出来た世界観と軍隊が取り込まれたプラットフォームとしてのパラダイム。どのような作家でもこれを舞台に作品を描く事ができるという強み、そしてスポンサーの強烈な意向。ビジネスとして成立した巨大な世界空間、クトゥルフ神話にも引けを取らない20世紀を代表する物語空間。
なぜシャアとアムロは争わな変えればならなかったか、二人が生き残り、誰かが死んでしまう世界は、まるで永遠に終わらないシーシュポスのように、火の鳥の輪廻転生のように、ふたたび同じ事象を繰り返す。
恐らく、ハサウェイもまた。同じ道を歩む。
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