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2021年03月13日20:00

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シン・エヴァンゲリオン 考察と感想

シン・エヴァンゲリオン劇場版
http://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=3987059&id=5083348

自分はかつて庵野秀明のことを
「天国と地獄を同時に見せつける男」
と言ったことがある。

そしてこのシンエヴァンゲリオンは、まさにそういった映画だった。
ある人にとってはまさに歓喜の渦にのみ込まれ、またある人にとっては絶望の淵に立たされ、またある人にとっては興奮と希望を与え、またある人にとっては意味不明のわけのわからない物語であったことであろう。

自分はそれらのすべてを否定しないし、またそれらすべてが見た人たちにとっての真実であったであろうと思う。

今ネット上で多くの考察がなされ、多くの批評がなされているこの映画は、見た人すべての人々にとって多くの、あるいはすべての感情を掻き立てられ、そしてその感情を表現したくなったであろうことは否定しないし。またそれが真実であるからだ。

生と死、善と悪、創造と破壊、男と女、大人と子供、光と闇、嘘と真実、過去と未来、希望と絶望、清純とカオス、ゼロと無限大、復活と再生、始まりと終わり

それらすべての相反し対峙する出来事が複雑に絡み合い、またそれらすべのことを同時に存在させてみたと言えるこの映画を作り上げた庵野秀明の才能に、まさに映像の天才と言う称号がふさわしいと思う。

新世紀エヴァンゲリオンは庵野秀明の完全なるオリジナル作品であり、庵野はエヴァ世界において創造主、神である。

前作Qでアスカが14歳から体が成長しないのはエヴァパイロットにとっての呪いと言ったのは、おそらくは、エヴァにとらわれ続けていた庵野自身への自分への言葉であり、またエヴァにこだわり続けている、ファンに向けての言葉であったように思う。

 今作では、パリを解放した後、村と呼ぶ場所で碇シンジが生きる希望を見失って食べ物すら取らないシーンがあった。その村では鈴原トウジが洞木ヒカリと結婚し子供をもうけているシーンがあった。そしてその村は昭和30年代の日本の田舎風の世界であった。
 すべてが破壊されてから、14年の時間を経て再生に向けて動き出している村である。

このシーンは日本が昭和20年の終戦から復活へののろしを上げた年代を表しているのではないかと自分は推測する。

 その村では、(仮称)アヤナミレイが村の仲間たちと一緒に農作業にいそしむ姿が描かれていた。碇シンジはその村で式波アスカや、相田ケンスケたちと会うが、碇シンジは完全に生きる欲求を失い、食事すらアスカから無理やり口に入れてもらわないと食べることすらできない状況であった。
 そこに(仮称)アヤナミレイが登場する。碇シンジは(仮称)アヤナミレイとあったことで生きる希望を見いだせたようだが(仮称)アヤナミレイは最後、碇ゲンドウのたくらみによって消失する。

そして最終決戦の時が迫っていった。葛城ミサトはネルフ碇ゲンドウとの最終決戦に向けてヴンダーを南極に向けて発進させる。

 最終決戦では、碇シンジと碇ゲンドウとの親子対決が行われた。
が、それは親子対決と言うより庵野秀明自身の心の中の葛藤を表現したもののように思う。
エヴァにとらわれ続け居ていた14歳の碇シンジと、心も体も大人になってさらには社会の汚れた側面を見てさらにはそれに触れ、そしてその社会のけがれた面に浸食されていった大人としての碇ゲンドウ(今の庵野秀明)との対峙であった。

その対決の場面は過去のエヴァの作中の中で何度も繰り返され、14歳の庵野と大人の庵野が繰り返しいくつもの場面を通してたたかう場面となっていった。
 またある戦いでは映画のセットのなかで行われ、そしてそのセットを破壊して別の場面に移っていった。

 そして最後はエヴァお得意のシーンである電車の中での対峙シーン
親子の会話の中で繰り広げられる最後の戦いは力と力の対決ではなく、庵野自身の頭の中で行われていったのだ。

 そして最後の時を迎え、庵野秀明自身の決着がついたときに14歳の碇シンジは少し大人になり、エヴァに囚われていた人々から解放したのだった。


PS:真希波・マリ・イラストリアスってなんとなく宇多田ヒカルに似ている
  ちなみに宇多田ヒカルはデビュー曲:Automatic で綾波レイをイメージして
  作曲したといっている。


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