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2021年03月11日11:36

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3.11に思う

 あれからもう10年ですね。あの頃は原発関係のデモの日記など精力的に書いていました。テレビなどを見ていると鎮魂と祈りが中心です。これでいいのでしょうか。

 3.11の1年位後にあるNPOに寄稿したものです。
 現在の課題を書くべきところ、怠けて済みません。
 
 原発の爆発音を背に、南相馬市川房地区の知人(果樹園経営)が12名で車2台に分乗して殆ど着の身着のままで隣接する埼玉県三郷市に避難して来ました。見舞いに伺ったところ、「一帯は警戒区域に指定された。田園地帯の穏やかな日常が一方的に断ち切られた。集落や町そのものがなくなってしまった。夢も希望も踏みにじられた。無念だ」と苦悩の表情でした。
      
 2011年秋、彼に現地の市議会議員を紹介してもらい、南相馬市に1泊で調査と慰問目的で行って来ました。津波で転覆した多数の漁船がそのままになっていて、土台や外側だけの建物も相当数残っていました。

 市議の奥様の案内で2箇所の仮設住宅に伺いました。
50代の男性は、「原発事故のため勤務先の会社の営業再開のメドが立たない。妻の実家である大分県に妻子は避難している。長男が3月に進学する高校は大分になりそうだ。妻の老齢の両親は娘が来て喜んでいる。もしかしたらこのまま1人暮らしになるかもしれない」等々訴えておられました。家族の分断という見えない悲劇の一例です。

 宿泊したホテルは格安料金で、停止した発電所の作業服姿の人たちばかりでした。ひどく粗末な朝食を共にしつつ話しかけましたが誰も応じてくれません。箝口令が敷かれていたのでしょう。

 帰路、線量が高いため無人となった飯舘村の景色があまりに素晴らしいので車から降りて歩き回りました。「郷土の誇り 飯舘牛」の看板があちこちにあります。ある家の入口には、咲き乱れるコスモスに隠れるようにして「美しい村づくり」と書かれた小さな板が立っていました。車で村を横断中、「ああ、こんなに郷土を愛しているんだ」と涙が溢れました。
 
 別の日に新幹線で福島市を訪れ、復興支援活動・脱原発運動をしている方々の話を伺いました。このとき一番印象に残ったのは、同市でも線量が最高だった渡利地区を通ったときのタクシーの女性運転手さんの言葉です。「このあたりでは避難しようにもできない家庭の子供たちだけが残っています」。帰宅する小学生たちは、どこでもそうであるように、無邪気に笑い合いながら三々五々歩いて来ます。すれ違うたびに、私はまともに顔を見ることができず、視線をそらしました。

 知人の南相馬の自宅一帯は今も「居住制限区域」で、彼は「俺が元気でいられる5年〜10年の間には戻れないだろう」ということで、札幌に終の棲家を求めました。もう警戒区域でなくなったので私たちも立ち入ることができます。彼がこちらにいる間に川房地区に一緒に行って来たいと思います。彼は、置いてきた家畜を家族のように想い、猿や猪、田んぼの畔の石ころ1つにも愛着があると言っています。被害は自然界にも及んでいるのですね。今は、人間中心の文化を見直す好機でもあるのではないでしょうか。

 福島大学前副学長の清水修二さんは、原発の背景には差別の構造がある、それは世界的なものであると強調しています。日本は原発から出た放射性廃棄物の最終処分場をモンゴルの遊牧民が住む草原に建設する準備をしています。「原子力村」に限らない諸々の「差別の構造」に対しては、国内外において強い意識を持って闘わないと、差別強化を止めることすらできません。
 
 首相官邸や国会議事堂前のデモ・集会に4回ほど参加しました。起ち上った市民の自発的な運動は抑圧される局面に入りつつあるようにも感じられます。「自覚なき選択」をし「怠惰な現実主義」(清水さんの言葉)に陥っていた者の責任として、抑圧を跳ね返し、多様なレベルでの共闘を広げて行く必要を痛感しています。

 今回の事故の原因を見ると、予見可能性はあったのに私的利益を優先させた人災だと思います。東電幹部や原子力安全委員会委員などは、「公共性」や「許された危険の法理」によっては免責されないと考えます。「差別の構造」を利用して国民を支配してきたエリートたち個々人の無責任な体質を糾弾し、まともな社会にするために、業務上過失致傷罪等で起訴することを求めて、1万4000名余の方々と共に福島地検に告訴しました。

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