京都に都が置かれていた時代は「近つ淡海」=琵琶湖に対して、「遠つ淡海」という言葉
から「とおとうみ」と言う地名が生まれました。遠い湖〜浜名湖と結び附きますが、実は
磐田湖と呼ばれる淡水湖が昔ありました。東西二里、南北五里の袖ケ浦と書かれたものが
残っていますし、鎌倉時代の「東関紀行」源親行著には「遠江の國の國府は今の浦につき
ぬ。橋本に似たり・・・」と言うのは湖に臨んでいたという事ですし、袋井宿の南には、
式内社がないのも海が近かったか、低地であったかと考えられます。(橋本というのは、
新居関所の付近の宿駅です)また、袋井市山梨の橘逸勢(タチバナノハヤナリ)の故事からしても、東下りの時に何故山梨を通ったのか、海(湖)が近くまで迫っていて、船便が出来ない状況であったろうと考えられます。また、昔の人は現代のようにせっかちでなく、のんびりとして旅を楽しむ余裕があったのではと想像します。以前にある山奥のお宅にご厄介になった時「こんな山奥の道もないところで、木を切ってもお金にはなりませんね」と申したところ、「木は切って谷に転がしておけば、大雨になると自然に流れて下へ出る。それを拾ってくれる人が有るのでお金に変わります。。との答えでした。大雨後の水量の多い時期を狙っての水運だと考えりこともできます。
話は変わりますが、森町は教育の町なのです。明治の学制以前、いわゆる寺子屋が非常に多くありました。斎藤塾・青木露生・森月泰月・即道仏心・山田自明・三木陶然・小谷
東通・新道塾・久永源秀・山田鋳一郎・三余塾・柚木善七等々。そして近在より来りて学ぶ者多く、町の人々が教育を大切に考えてくれていました。
教育という事で忘れてならないのは、福川家の力です。大正六年森小学校の建設には、
町の支出した金額は四千八十円余りと記録されていますが、建設費は五萬四千円ほど掛かったとあります。その五万円は福川氏が寄付したとあります。強度の為とはいえ、その金額の多さに驚くとともに偉大な方が森町から輩出していることを誉に思います。かつて、
袋井市に勤めていた頃に、良く耳にした言葉に、「森でさえ県立高校が二つあるのに袋井には一つしかない」というものでした。周智高校は福川・鈴木両氏が建てた私立農林学校が公立に発展したもので、森高校は明治38年に女子教育のために設けられた技芸学校が
基礎になっています。正に森町の皆様の教育への情熱がそうさせたものであり、森は教育
尊重の町だと言っても良いでしょう。
明治末期に「好耕園」という名前の農業研究の拠点が森町にありました。後には「帝国農家一致協会」と名前を変え、伊勢神宮の宮司が会長に、賀陽宮様が総裁になっておられ
雑誌「農談」・「大農談」・「農本」等を出版し、一時期は月三万部も出して、自前の印刷所まで持つ勢いだったと言われます。その建物が後に農林学校に使われています。
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