mixiユーザー(id:60027620)

2021年03月08日05:12

57 view

3月8日

インド北東部のインパールを包囲する「インパール作戦」開始。7月4日の作戦停止までに日本軍10万人がほぼ全滅:昭和19年のこの日。インパール作戦(ウ号作戦)とは、昭和19年3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。当初より軍内部でも慎重な意見があったものの、牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行された。補給線を軽視した杜撰な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。
戦後、日本軍敗北の責任は主に牟田口にあるとする評価が支配的である。戦時中からも、戦病死した山内正文師団長は、死の床で「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」と語っていた。この点、伊藤正徳は、牟田口が作戦の主唱者であった以上は責任甚大であるのは当然としたうえで、牟田口一人に罪を着せるのは不公平であると述べる。仮に牟田口が暴走したのだとしても、これを断固として押さえつけるのが上層部の責務であって、インパール作戦の無謀の責任は牟田口と大本営が少なくとも五分と五分、あるいは引きずられた上司の罪をさらに重いものと見るのが公平であると評している。戸部良一は『失敗の本質』において、インパール作戦でずさんな計画が実行された原因について、牟田口軍司令官や河辺方面軍司令官の個人的性格も関連しているが、より重要なのは「人情」という名の人間関係・組織内融和が優先されて組織の合理性が削がれた点にあると主張している。(出典:今日は何の日、Wikipedia)画像は、パレル近郊の伊藤山。決死の斬り込みで奪取した陣地も、連合軍の火砲と爆撃機により瞬く間に焼き尽くされ、奪い返された。
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する