昨年末頃に従弟が来て先祖伝来のことを調べなおしたと言って表紙・裏表紙を覗いて
全14ページの冊子(A4判)を置いて行きました。仕事も一段落したので、読んで
みました。私の父は小川家の次男として生まれ、養子になりましたので、別姓です。
書き始めは、曽祖父のことからです。磐田市の二宮の神谷桂次郎(嘉永4年〜昭和5年)
が、小川はなに婿入りしたことから始まります。神谷家には、奈良時代からの過去帳が
伝わるということです。妻のはなも養女で家は袋井市の街道沿いで家業は口入屋(人を
紹介してあげる商売)婿入りしたのが明治11年、それから10年程して、道路事情等が
良くなり、山から材木を運ぶ仕事があり、現金収入目当てに手車引きとして、森町に移住。
しかし、明治28年に妻はなは40歳の若さで病死。子供4人(長男が祖父)で長女が下
の面倒をみていたとおもわれる。祖父與一郎は小学校の四年を卒業して、清水(江尻)の
質屋兼瀬戸物屋へ丁稚奉公に上がった。
やがて明治27年4月、24歳になっていた與一郎を年季明けさせて、森町へ呼び寄せ
て一緒に働くことにした。
桂次郎が袋井から森町に引っ越しの際に運んだ荷物は、駕籠と太刀と家財道具だ。仏壇
と押し入れ(寝具入)の上の引き戸の裏側に、俳句が墨書で書かれている。
暦暦の 自身に誘ふ 花見かな
俄の 公方が事 たとえ話也 不如佛
天保十四年 卯 無神月
この押し入れのは、袋井宿に住んでいた「山梨の巳之助」の家の押し入れと聞いていたが引き戸の裏側の墨書のことは数年前まで知らなかった。山梨の巳の助は、山梨下町の
生まれで、「森の五郎」「堀越の藤左衛門」「岩淵の坊主勝」を子分に「四角山周吉」
「大和田の友蔵」を子分同様に従えて、寺島の都田源八を凌ぐ、遠州一の大親分だ。
弘化二年中泉代官所に召し取られ入牢するまでは袋井宿に住んでいた。
清水(江尻)で奉公していた與一郎は、ある日ご主人のお供で外出した際、芝居小屋
のような前を通りかかったときに、「あれが長五郎だよ」とご主人が指さす先を見ると
一人の老人が木戸番をしていた。十歳の子供には親分ではなくただの年寄にしか見えなかったそうだ。
話がそれてしまったが続きはまたこの次に。
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