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2021年02月15日01:43

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02月15日の日記

今日の出来事:1868年−戊辰戦争:備中松山藩・熊田恰自刃、1869年−横井小楠暗殺、1871年−政府転覆陰謀事件、1877年−西南戦争開戦、1942年−第二次世界大戦:シンガポールの戦い

今日は、戊辰戦争:備中松山藩・熊田恰自刃です。熊田恰は、備中松山藩の年寄役です。「鳥羽伏見の戦い」が勃発した時、熊田恰は警備隊長として藩主・板倉勝静らと共に大坂城に在城していました。板倉勝静が将軍・徳川慶喜らと密かに城を抜け出して江戸へ逃れた後、備中松山藩兵158人を連れて備中・玉島に帰り着きました。この時、新政府の命を受けた岡山藩兵によって包囲され、攻撃態勢が整えられていました。熊田恰は、備中松山藩から玉島で謹慎するように命令を受け、岡山藩からは藩主の首を差し出せという要求を突き付けられました。1868年2月15日に熊田恰は、岡山藩に藩主や部下158人の助命嘆願書を認めた後、責任を一身に背負って西爽亭で自刃しました。享年44歳でした。こうして、熊田恰は藩士158人の命と玉島を戦火から救いました。岡山藩主・池田茂政は、熊田恰の遺族に対して賞賛の書状と香花料として金15両と米20俵を送りました。備中松山藩は、家老職を追贈して白米30俵を与えると八重籬神社境内の藩祖の廟後に小社を建て、その功績を顕彰しました。嗣子・金太郎に100石の加増をして、家禄300石を賜りました。

次に、横井小楠暗殺です。横井小楠は、維新の十傑の1人です。維新の十傑は、倒幕・明治維新に尽力した志士10人です。「維新の三傑(木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通)」に岩倉具視、小松帯刀、大村益次郎、前原一誠、広沢真臣、江藤新平、横井小楠です。横井小楠は、肥後国(現在の熊本県)熊本城下の坪内町に、熊本藩士・横井時直の次男として生まれました。藩校「時習館」に入校し、居寮生となった後、講堂世話役を経て「時習館」居寮長(塾長)となりました。1839年、藩命により江戸に遊学し、林檉宇の門下生となり、佐藤一誠、松崎慊堂らに出会いました。また、江戸滞在中に幕臣・川路聖謨や水戸藩士・藤田東湖など、全国の有為の士と親交を結びました。1840年、酒に酔ってした喧嘩が藩にお咎めの処分を受け、1841年に帰藩すると長岡是容、下津久馬、元田永孚、萩昌国らと研究会を開きました。これが「実学党」となり、筆頭家老の松井章之を頭目とする「学校党」と対立する事となりました。1843年、私塾「小楠堂」を開き、徳富一敬、矢嶋源助が門弟となりました。後に嘉悦氏房、長野濬平、河瀬典次、安場保和、竹崎律次郎など多くの門弟を輩出しました。1849年、福井藩士・三寺三作が小楠堂に学びました。これにより横井小楠の名が福井藩に伝わり、福井藩に出仕するきっかけとなりました。さらに1852年、福井藩の求めに応じて「学校問答書」を、1853年には「文武一途の説」を書いて送りました。これにより、福井藩より招聘を受ける事となりました。1855年、農村の沼山津に転居し、自宅を「四時軒」と名づけ、自身の号も地名にちなんで「沼山」としました。坂本龍馬や井上毅など、明治維新の立役者や後の明治新政府の中枢の多くがここを訪問しました。士道忘却事件:1863年2月7日、熊本藩江戸留守居役・吉田平之助の別宅2階で、横井小楠、吉田平之助、都筑四郎、谷内蔵充の4名は、横井小楠が松平春嶽のお供で、京へ登る直前に酒宴を開いていました。谷内蔵充が急用で帰った後、突然覆面姿の3人組が横井小楠らを襲いました。横井小楠は階段を駆け下ると福井藩邸へ戻り、大小を受け取ると福井藩士と共に引き返しました。吉田平之助と都筑四郎は傷を負っていました。吉田平之助は、2ヶ月後にその傷がもとで亡くなりました。熊本藩では、仲間を見捨てて逃げた横井小楠に「士道忘却」として非難が集中しました。直ちに身柄を福井藩より引き取り、熊本へ送還して厳罰しようとしました。しかし、松平春嶽が必死の弁護を行い、福井藩で身柄を預かる事となり、福井へ留まる事となりました。その後、犯人は「肥後勤王党」の流れをくむ、肥後藩脱藩浪士・堤松左衛門(南禅寺裏山で自刃)、肥後藩邸詰め足軽・黒瀬市郎助(後に吉田平之助の長男・巳久馬に仇討ちされる)と安田喜助(長州に逃亡後、暗殺)の3名と判明しました。横井小楠を「幕府を開国に導こうとしている売国の奴」として、他藩の浪士に殺される前に自分たちの手で抹殺しようとして襲ったのでした。その後、福井藩の穏健派が実権を握ると由利公正をはじめ、横井小楠の仲間が処分を受ける事となりました。横井小楠は、1863年に福井を辞して熊本へ帰る事となりました。熊本へ帰る横井小楠に対し、松平春嶽をはじめ、多くの人々から熊本藩に対しての嘆願が行われました。しかし、熊本藩は藩の決まりを無視する事は出来ないとして、士籍剥奪・知行召し上げの処分となりました。1864年に熊本で、坂本龍馬は横井小楠を訪ねました。その時、横井小楠は「国是七条」を説きました。福井藩・松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、さらには江戸幕府の政事総裁職であった松平春嶽の助言者として幕政改革に関わりました。1868年、新政府に参与として出仕しましたが、翌1869年に参内の帰途に十津川郷士・上田立夫、津下四郎左衛門、鹿島又之允、前岡力雄、上平主税らにより、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で暗殺されました。享年61でした。殺害の理由は「横井小楠が開国を進めて、日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものでした。しかも、弾正台の古賀十郎ら新政府の開国政策に不満を持つ保守派が、裁判で横井小楠が書いたとする「天道覚明書」という偽書を作成して、横井小楠が秘かに皇室転覆を企てたとする容疑で告発するなど、大混乱に陥りました。紆余曲折の末、実行者であった上田立夫、津下四郎左衛門、鹿島又之允、前岡力雄の4名が1870年に処刑されました。上平主税は伊豆・新島に島流し刑となりました。これが島流し刑、最後の例となりました。

その次に、政府転覆陰謀事件です。雲井龍雄は、米沢藩士の父・中島惣右衛門平の次男として生まれました。藩校「興譲館」で学び、館内の「友于堂」に入学しました。好学の雲井龍雄は、「興譲館」の一部として建てられた図書館の約3000冊もの蔵書の殆どを読破し、当時の学風「朱子学」を盲信する非を悟って「陽明学」に到達しました。1865年、米沢藩の江戸藩邸に出仕し、上役の許可を得て安井息軒の三計塾に入門しました。1867年に幕府が「大政奉還」し、明治新政府から「王政復古の大号令」が発せられると、雲井龍雄は新政府の「貢士」に挙げられました。この「貢士」就任は、門閥の士を差し置いての抜擢でした。1868年、「鳥羽・伏見の戦い」に続き、新政府軍の東征が東北に及ぶと雲井龍雄は京都を発し、薩長の武力討幕方針に反対し、薩摩藩の罪科を訴えた「討薩檄」を起草して「奥羽越列藩同盟」の奮起を促しました。雲井龍雄は、薩長の離間を画策して「二毛作戦」と呼ばれる「遊撃隊」を率いて上野・下野方面から官軍を撹乱する作戦を採りましたが、作戦は失敗に終わりました。旧幕府勢力が敗れ去ると、米沢で禁固の身となりました。1869年に謹慎を解かれると興譲館助教となりましたが、2ヶ月で辞任して上京しました。新政府は、雲井龍雄を集議員議員に任じました。しかし、薩長出身の政府要人と繋がりがある議員が多くいる中、「戊辰戦争」での薩摩批判や、その一たび議論に及べば徹底的に議論を闘わせた振る舞いが災いし、周囲の忌避に遭って1月足らずで議員を追われました。そして、「戊辰戦争」で没落したり、削封された主家から見離された敗残の人々が雲井龍雄の許に集まるようになりました。雲井龍雄は1870年、東京・芝の上行、円真両寺門前に「帰順部曲点検所」なる看板を掲げ、脱藩者や旧幕臣に帰順の道を与えるようにと4回にわたり嘆願書を政府に提出しました。これは参議・佐々木高行、広沢真臣らの許可を得たものでしたが、実は新政府に不満を持つ旧幕府方諸藩の藩士が集まっていました。これが政府転覆の陰謀とみなされ、謹慎を命ぜられました。米沢藩に幽閉の後、東京に送られました。深く取り調べも行われず、罪名の根拠は政府部内の準則にすぎない「仮刑律」が適用されました。1871年2月15日に判決が下り、政府転覆を企てたとして雲井龍雄ら21人は判決2日後に小伝馬町の獄で斬首されました。亨年27歳でした。雲井龍雄は小塚原に梟首され、その胴は大学東校に送られて解剖の授業に使用されました。雲井龍雄を葬った政府は威信を保つため、その真蹟を覆滅し、郷里・米沢でもその名を口にする事は絶えて久しくタブーとされました。この「政府転覆陰謀事件」で処刑された人は、以下の21人です。
「梟首」:米沢藩士族・雲井龍雄(27歳)、「斬首」:会津藩士族・原直鉄(23歳)、簗瀬勝吉(26歳)、斗南藩士族・能見武一郎、自在院啓範(48歳)、米沢藩士族・南斎敬吉(29歳)、元畠山長門守家来・三木勝(32歳)、常陸真壁郡横塚村・大忍坊源吾(33歳)、羽州小国郷増岡村・増岡謇吉(26歳)、越後蒲原郡白根村・星野弥吉(40歳)、田中晋六郎(21歳)、浅草本願寺末・願龍寺慈観(51歳)、磐城平藩・師岡千牧(29歳)、元水戸藩・茂木盛朴(28歳)、盛岡藩士族・北村正機(牢死、24歳)、神田区元柳原町・小倉精一(牢死、21歳)、神田久右衛門町一丁目・寅吉(41歳)、深川六間堀町・平野弥吉(47歳)、元松山藩・江秋水(43歳)、浅草田島町続・柏井仁(29歳)、下谷金杉村円光寺・篆瑞(46歳)、その他に斗南藩士族・加藤竹蔵らも牢死しています。

その次の次に、西南戦争開戦です。「私学校」の生徒が新政府に反発し、火薬庫を襲撃した事により暴発状態となりました。2月4日夜、小根占から帰った西郷隆盛は幹部たちを従えて、旧厩跡にあった私学校本校に入りました。翌5日、私学校幹部と分校長ら200余名が集合して大評議が行われ、今後の方針が話し合われました。別府晋介と辺見十郎太は武装蜂起すべしと主張しました。永山弥一郎は西郷隆盛、桐野利秋、篠原国幹の三将が上京して、政府を詰問すべしと主張しました。この永山弥一郎の策には山野田一輔、河野主一郎が同調しました。しかし、池上四郎は暗殺を企む政府が、上京途中に危難を加える虞れがあると主張して反対しました。そこで村田三介は三将に寡兵が随従する策を、野村忍介は自身が寡兵を率いて海路で小浜に出て、そこから陸路で京都に行き、行幸で京都にいる天皇に直接上奏する策を主張しました。こうして議論は紛糾しましたが、篠原国幹が「議を言うな」と一同を黙らせると、「断の一字あるのみ、旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」とし、全軍出兵論が多数の賛成を得ました。2月6日、私学校本校に「薩摩本営」の門標が出され、従軍者名簿の登録が始まりました。この日、西郷隆盛を中心に作戦会議が開かれ、西郷小兵衛の「海路から長崎を奪い、そこから二軍に分かれて神戸・大阪と横浜・東京の本拠を急襲」する策、野村忍介の「三道に別れ、一は海路で長崎に出てそこから東上、一は海路から豊前・豊後を経て四国・大阪に出てそこから東上、一は熊本・佐賀・福岡を経ての陸路東上」する三道分進策が出されました。西郷小兵衛、野村忍介の策は3隻の汽船しかなく、軍艦を持たない薩摩軍にとっては成功を期し難いため、池上四郎の「熊本城に一部の抑えをおき、主力は陸路で東上」する策が採用されました。2月8日に部隊の編成が開始されました。2月9日、西郷隆盛の縁戚・川村純義海軍中将が軍艦に乗って西郷隆盛に面会に来ましたが会う事ができず、県令・大山綱良と鹿児島湾内の艦船上で会見しました。この時、大山綱良がすでに「私学校党」が東上したと伝えたため、川村純義は西郷隆盛と談合する事をあきらめて帰途につき、長崎に電報を打って警戒させました。一方、鹿児島では2月9日に県庁に自首してきた野村綱から、「大久保利通から鹿児島県内の偵察を依頼されてきた」という内容の自供を得て、西郷暗殺計画には大久保利通も関与していたと考えられました。西郷軍では篠原国幹が編成の責任者となり、桐野利秋が軍需品の収集調達、村田新八が兵器の調達整理、永山弥一郎が新兵教練、池上四郎が募兵をそれぞれ担当し、12日頃に準備が整えられました。募兵、新兵教練を終えた薩摩軍では2月13日、以下のように大隊編成がなされました。
薩摩軍総指揮官:西郷隆盛
参謀格兼本営附護衛隊長:淵辺高照
副官:仁礼景通
一番大隊大隊長:篠原国幹
一番小隊小隊長:西郷小兵衛
二番小隊小隊長:川上要一
三番小隊小隊長:浅江直之進
四番小隊小隊長:坂元伸太郎
五番小隊小隊長:久留休左衛門
六番小隊小隊長:相良吉之助
七番小隊小隊長:森岡長左衛門
八番小隊小隊長:谷元良介
九番小隊小隊長:堀与八郎
十番小隊小隊長:坂元仲平
二番大隊大隊長:村田新八
一番小隊小隊長:松永清之丞
二番小隊小隊長:中島勝彦
三番小隊小隊長:重久雄七
四番小隊小隊長:佐藤三ニ
五番小隊小隊長:鎌田雄一
六番小隊小隊長:川村甫介
七番小隊小隊長:武郷兵衛
八番小隊小隊長:山口十蔵
九番小隊小隊長:伊集院権右衛門
十番小隊小隊長:別府九郎
三番大隊大隊長:永山弥一郎
一番小隊小隊長:辺見十郎太
二番小隊小隊長:分陽五郎右衛門
三番小隊小隊長:高城七之丞
四番小隊小隊長:山下喜衛
五番小隊小隊長:酒匂軍助
六番小隊小隊長:町田権左衛門
七番小隊小隊長:岩切喜次郎
八番小隊小隊長:橋口吉左衛門
九番小隊小隊長:小倉壮九郎
十番小隊小隊長:阿多壮五郎
四番大隊大隊長:桐野利秋
一番小隊小隊長:堀新次郎
二番小隊小隊長:山口孝右衛門
三番小隊小隊長:野村忍介
四番小隊小隊長:川久保十次
五番小隊小隊長:永山休ニ
六番小隊小隊長:松下助四郎
七番小隊小隊長:石原市郎右衛門
八番小隊小隊長:嶺崎半左衛門
九番小隊小隊長:伊東直ニ
十番小隊小隊長:橋口成一
五番大隊大隊長:池上四郎
一番小隊小隊長:河野主一郎
二番小隊小隊長:村田三介
三番小隊小隊長:神宮司助左衛門
四番小隊小隊長:長崎尚五郎
五番小隊小隊長:薗田武一
六番小隊小隊長:蒲生彦四郎
七番小隊小隊長:平野正介
八番小隊小隊長:石橋清八
九番小隊小隊長:国分寿助
十番小隊小隊長:児玉八之進
連合大隊大隊長:別府晋介
六番大隊長:越山休蔵
大隊監軍:柚木彦四郎
一番小隊小隊長:鮫島敬輔
二番小隊小隊長:池田静治
三番小隊小隊長:竹下荘之進
四番小隊小隊長:前田軍左衛門
五番小隊小隊長:水間勘助
六番小隊小隊長:竹下仙左衛門
七番小隊小隊長:宇都宮良左衛門
八番小隊小隊長:柚木正次郎
七番大隊長:児玉強之助
一番小隊小隊長:坂本敬介
二番小隊小隊長:黒江豊彦
三番小隊小隊長:瀬戸山良知
四番小隊小隊長:岩元太郎
五番小隊小隊長:川崎吉兵衛
六番小隊小隊長:林一郎
七番小隊小隊長:川崎助左衛門
八番小隊小隊長:竹下六郎
九番小隊小隊長:本田元瑞
十番小隊小隊長:小城宗一郎
十一番小隊小隊長:山内孝左衛門
一番砲隊隊長:岩元半八郎
二番砲隊大小荷駄隊本部長:桂久武
いずれの大隊も10箇小隊、各小隊約200名で、計約2000名からなっていました。加治木外4郷から募兵し、後に六番・七番大隊と呼ばれた連合大隊は2大隊合計約1600名で、他の大隊に比べ人員も少なく装備も劣っていました。この他、本営附護衛隊長には淵辺群平がなり、狙撃隊を率いて西郷隆盛を護衛する事になりました。2月14日、私学校本校横の練兵場で、騎乗した西郷隆盛による一番〜五番大隊の閲兵式が行われました。翌15日、60年ぶりと言われる大雪の中、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面へ先発しました。ここからが「西南戦争」の開始となります。以後、順次大隊が鹿児島を出発しました。17日には西郷隆盛も桐野利秋とともに発し、加治木・人吉を経て熊本へ向かいました。これを見送りに行った桂久武は、貧弱な輜重への心配と西郷隆盛への友義から急遽従軍し、西郷軍の大小荷駄本部長(輜重隊の総責任者)となりました。同日、連合大隊も加治木を発しました。一方、鹿児島から帰京した川村純義中将から西郷軍の出兵の報を得た政府は、2月19日に「鹿児島県逆徒征討の詔」を発し、正式に西郷軍への出兵を決定しました。

最後に、第二次世界大戦:シンガポールの戦いです。1941年12月に、大日本帝国陸軍第25軍(司令官・山下奉文中将)がマレー半島に上陸した時、英領インド軍第3軍団がこれに立ち向かいました。連合軍は切り札として期待していたイギリス戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈されてしまいました(マレー沖海戦)。日本軍は難攻不落の要塞と考えられていたシンガポール島にむけ、マレー半島を着実に進撃しました。1月31日、最後の連合軍部隊がマレー半島から撤退し、工兵隊がジョホール・バルとシンガポールを結ぶ、ジョホール・シンガポール・コーズウェイを爆破して約20mの穴をあけました。しかし、その直後には日本軍の襲撃部隊や浸透部隊がゴムボートを用いて、ジョホール海峡を渡り始めていました。第25軍司令官・山下奉文中将とその参謀たちは、航空偵察・地上偵察・侵入偵察、海峡近くの制瞰高地(ジョホール・スルタンの宮殿など)を占領した事から、連合軍の配置に関する情報を得ていました。2月3日に日本軍の準備砲撃が始まりました。英国空軍が10機のホーカーハリケーン戦闘機を増派しましたが、日本軍の爆撃が強化される事を阻止できませんでした。2月8日午後8時30分にオーストラリア機関銃兵が、第5、第18師団のシンガポール侵攻第1波4000名の将兵を搭載した舟艇に砲火を開きました。真夜中までに、オーストラリア軍の2個旅団は互いに連絡する事が出来なくなり、第22旅団は後退を強いられました。翌日の午前1時には日本軍の増援が北西地区に上陸し、オーストラリア軍は最後の予備隊を戦闘に投入しました。2月9日の夜明けまでに第22旅団の一部は蹂躙され、あるいは孤立したり降伏したりしました。オーストラリア軍第2/18大隊は兵力の50%以上の損害を受けました。パーシヴァル中将は北東地区で第2次上陸が行われるであろうと考え、苦戦している第22旅団を増援しませんでした。日本軍の上陸作戦の重点は第44旅団が守る南西地区に移りました。西地区の連合軍部隊はさらに東への後退を強いられました。ベネット少将は第二次防衛線の構築を決意しました。日本軍はオーストラリア軍の迫撃砲と機関銃の射撃によってかなりの損害を受け、海水に流出させた重油への放火による重油戦術による損害の他、溺死者も発生しました。少数の近衛兵たちが海岸に到達し、貧弱な海岸堡を確保しました。第27旅団は北地区中央のクランジから撤退しました。このため、連合軍は島の西部を通る重要なクランジ−ジュロン尾根の支配権を失いました。クランジを占領した事で、近衛師団は戦車の揚陸と第18英本国師団を迂回して、急速に南方へ前進する事が可能となりました。2月11日、自軍の補給物資が危険なほど減少した事を知り、山下奉文司令官はパーシヴァル中将に「無意味で絶望的な抵抗を中止するよう」呼びかけました。この時点で、日本軍の猛攻に耐えてきた第22旅団の戦力は数百名に低下しており、事実上全滅状態でした。日本軍はブキッ・ティマ地区を、連合軍の弾薬・燃料の貯蔵のほとんどと共に占領しており、またこの地区を占領した事で主要な水の供給源の支配権も得ていました。翌日に連合軍は、島の南東部の狭い地域に防衛線を構築し、日本軍の総攻撃を撃退しました。「パシー・パンジャンの戦い」では、マレー人連隊はシンガポール人将校のアドナン・ビン・サイディ少尉の指揮下で激しい白兵戦を、激しい損害に耐えて戦い抜きました。ラーラドーとケント・リッジを通過して前進しようとする日本軍を、2日間食い止めました。しかし、2月13日には連合軍はさらに地歩を失い、上級司令部はパーシヴァルに非戦闘員の被害を最小限度に食い止めるため、降伏するよう指示しました。パーシヴァルは最初はこの指示に抵抗しましたが、結局上官の権威に屈しました。翌日も、残存する連合軍部隊は戦闘を続け、非戦闘員の被害は100万もの市民が避難していた地域が砲爆撃にさらされたため増加し続けました。2月15日の朝、日本軍は連合軍の最終防衛線を突破しました。米英による連合軍の食料と何種類かの弾薬は、既に底をつき始めていました。パーシヴァルは指揮下部隊の司令官たちと協議した後に日本軍と連絡し、午後5時15分頃にフォード自動車工場で正式に山下奉文司令官に降伏しました。この時にあの有名な、山下奉文がパーシヴァルに「イエスかノーか」と降伏を迫った談義がありました。この「シンガポール攻略戦」での日本軍の戦死者は1713名、戦傷者3378名、イギリス軍は約5000名が戦死し、同数が戦傷したと言われ、さらに10万人が捕虜となりました。これは「アメリカ独立戦争」での「ヨークタウンの戦い」以来のイギリス軍史上最大規模の降伏で、近代のイギリスにおいて最大かつ歴史的な屈辱となりました。日本占領下のシンガポールは昭南島と改名され、日本によるシンガポール統治が始まりました。日本軍は現地の皇民化政策の一環として昭南神社と忠魂碑を建立しました。この後、蒋介石が率いる中国軍を支援していた多数の中国系住民(華僑)やゲリラが摘発を受け、粛清されました。この粛清により、6000〜数万人が殺害されたといわれています。この「マレー作戦」の成功で山下奉文は国民的な英雄となり、「マレーの虎」と呼ばれる事になります。戦後、山下奉文は戦犯としてフィリピンのマニラにて軍事裁判にかけられ、「シンガポール華僑虐殺事件」、「マニラ大虐殺」等の責任を問われ、死刑判決を受けました。山下奉文が戦犯として絞首刑に処せられる際、米軍はパーシヴァルを呼び寄せて死刑執行に立ち合わせました。

今日の誕生日:前田利長、ガリレオ・ガリレイ、栗山大膳、松平容保、宇垣纏、和田弘(和田弘とマヒナスターズ)、白土三平、山根伸介(チャンバラトリオ)、近藤正臣、清水章吾、立川志の輔、浅田美代子、井出洋介、多賀竜昇司(鏡山親方)、坂上みき、堀ちえみ、月亭方正(山崎邦正)、レイ・セフォー、シリル・アビディ、小湊美和(元太陽とシスコムーン)、インリン・オブ・ジョイトイ、斎藤司(トレンディエンジェル)、上江洌清作(MONGOL800)、草野博紀(元NEWS)、西脇綾香(Perfume)、渡邊ひかる(元SUPER☆GiRLS)、齋藤冬優花(櫻坂46)、尾形春水(元モーニング娘。)、丹生明里(日向坂46)

今日の記念日:春一番名付けの日、ツクールの日、次に行こうの日

今日の「今日訓」:本日は、1859年に壱岐郷ノ浦の漁師53人が、五島沖で突風に遭い全員が死亡しました。郷ノ浦の漁師の間で、春の初めの強い南風が「春一」と呼ばれており、これが「春一番」の語源となった事で「春一番名付けの日」、「次に(2)行(1)こう(5)」の語呂合わせで「次に行こうの日」、ゲームソフトプログラムの知識がない人でも、手軽にゲーム制作が楽しめるソフトウェア「ツクール」、日付は「ツクール」の語呂合わせで296、これを2月9+6日と見立てて2月15日とし「ツクールの日」となりました。ゲーム制作の楽しさを広める事を目的としています。
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