mixiユーザー(id:48382454)

2021年02月12日00:06

33 view

02月12日の日記

今日の出来事:1912年−清の皇帝・宣統帝が退位し、清が滅亡、1968年−ベトナム戦争:フォンニィ・フォンニャットの虐殺、1984年−植村直己が北米・マッキンレーの冬季単独登頂に成功、下山途中に消息を絶つ、2012年−東京ゲートブリッジ開通

今日は、清の皇帝・宣統帝が退位し、清が滅亡です。清朝第12代皇帝・宣統帝(愛新覚羅溥儀)は、中華世界の最終皇帝「ラストエンペラー」として知られています。1900年に発生した「義和団の乱」を乗り越えて当時、強い権力を持っていた西太后が1908年に光緒帝の後継者として溥儀を指名しました。溥儀はわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代・宣統帝となりました。即位式は紫禁城太和殿で行われ、新しい皇帝の即位は世界各国で大きく報じられました。その後、宣統帝は多くの宦官や女官らとともに紫禁城で暮らす事となりました。西太后は宣統帝を後継者とするとともに、宣統帝の父・醇親王を監国摂政王に任命して政治の実権を委ね、同年11月14日に光緒帝が崩御した翌日に74歳で崩御しました。光緒帝の崩御に関しては西太后により、毒殺されたのではないかと言われています。その翌年の1909年に醇親王は、兄である光緒帝を裏切って「戊戌変法」を潰したとして憎んでいた北洋大臣兼直隷総督・袁世凱を失脚させました。さらに袁世凱を殺害しようとしましたが、内部情報を得た袁世凱はかろうじて北京を逃れ、河南省彰徳に蟄居する事となりました。その後、袁世凱は清国政府による民間資本鉄道の国有化と、その反対運動をきっかけに1911年10月10日に「辛亥革命」が勃発すると、湖北省の武昌で起きた反乱(武昌起義)の鎮圧を名目に、政界に復帰しました。袁世凱は清国政府に第2代内閣総理大臣の地位を要求するとともに、醇親王の摂政王退位を要求しました。反乱鎮圧のためには袁世凱の武力に頼らなければならない清朝政府は、袁世凱の要求を受け入れました。袁世凱はさらに、孫文らと宣統帝を退位させる代わりに自らが中華民国臨時大総統に就任するという裏取引をし、隆裕太后に溥儀の退位を迫りました。隆裕太后は皇族を集めて連日御前会議を開きました。その席上、粛親王善耆、恭親王溥偉などは退位に激しく反対しましたが、清朝皇族が頼りとしていた日本の陸軍士官学校留学生で皇族出身の良弼が暗殺されるという事態におよび、隆裕太后はついに皇帝退位を決断しました。1912年2月12日に、宣統帝は退位する事となりました。なお、粛親王は日本租借地の旅順へ、恭親王はドイツの租借地の青島に逃れて、その後も清朝復辟運動を行いました。その後、袁世凱は溥儀に代わり自らが皇帝となるべく奔走し、1915年12月12日に帝政復活を宣言して皇帝に即位しました。その後、1916年1月1日より、年号を「洪憲」と定め、国号を「中華帝国」に改めました。しかし、「北洋軍閥」や「日本政府」などの各方面からの反対により即位直後の同年3月に退位し、失意の中で同年6月に死去しました。清朝滅亡後の宣統帝(愛新覚羅溥儀)は、大日本帝国政府の支持のもと、満洲国の執政に就任しました。帝政移行後は満洲国皇帝に即位し、康徳帝と称しました。

次に、ベトナム戦争:フォンニィ・フォンニャットの虐殺です。ベトナム戦争中の1968年2月12日に、南ベトナムのクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村で、大韓民国の海兵隊第2海兵師団(青龍師団)によって、非武装の民間人が虐殺された事件です。フォンニィ・フォンニャット村を訪れた韓国海兵隊第2海兵師団(青龍部隊)第1大隊は、婦女子69〜79人を集めると至近距離から銃殺、刺殺し、火を付けると立ち去りました。ところが、その日のうちにアメリカ海兵隊員4名、南ベトナム兵26名からなる部隊が現場に到着しました。アメリカ・ベトナム兵は生存者へ手当を施し、病院へ搬送しました。また、J・ボーン伍長によって事件現場の撮影が行われました。事件後に生き残った村人たちは犠牲者の遺体を国道1号線に並べて抗議の意思を示しました。当時のフォンニィ・フォンニャット村はアメリカ海兵隊と友好関係にあり、村の男たちはアメリカと同盟関係にある南ベトナム軍に参加していました。続く2月25日には韓国海兵隊によって「ハミの虐殺」が引き起こされ、ハミ村の婦女子・老人135名が虐殺されました。事件を受けてアメリカ陸軍参謀総長ウィリアム・ウェストモーランド大将が韓国軍に調査報告を繰り返し求め続けたため、韓国軍は韓国海兵隊の軍服を着たベトコンによる陰謀であったとアメリカ軍に報告しました。フォンニィ・フォンニャットの虐殺当時の韓国では韓国政府が行った「聞慶虐殺事件」、「保導連盟事件」で、共産主義者に罪を着せる事で虐殺事件を闇に葬りさる事に成功していました。韓国軍からの報告を受け取ったアメリカ軍では、アメリカ軍監察官のロバート・モレヘッド・コック大佐による調査が行われ、1970年1月10日に韓国海兵隊による虐殺事件であった事を明らかにした報告書が提出されました。この事件の翌月にはアメリカ軍の一小隊によって「ソンミの虐殺」が引き起こされましたが、アメリカ軍は軍法会議を開いて実行犯を処罰しました。韓国軍によって引き起こされた数々の虐殺によって少なくとも民間人9000人が殺害されており、最大30万人を超す犠牲者数だったとも言われています。

その次に、植村直己が北米・マッキンレーの冬季単独登頂に成功、下山途中に消息を絶つです。植村直己は、干支の巳と合わせて「直巳」と名付けられましたが、「巳(へび)より己(おのれ)の方が格好良い」という事で「直己」を名乗るようになりました。少年期より同郷の加藤文太郎に憧れ、学校行事で登った蘇武岳を皮切りに但馬の嶺々への山行を始めました。兵庫県立豊岡高等学校卒業後、豊岡市の新日本運輸に就職しました。翌1960年に明治大学農学部農産製造学科に入学し、山岳部へ入部してからは登山に没頭しました。明治大学山岳部の小林正尚のアラスカ旅行で氷河を見て来た話を聞いて、海外の山へ憧憬を抱くようになりました。1964年5月2日大学卒業後、ヨーロッパアルプスの氷河を見ようと考えましたが資金が足りないため、まず生活水準が高いアメリカで資金を貯めてそれからヨーロッパに行こうと考えました。周囲の反対を押し切ってとび職のアルバイトで貯めた金を元手に横浜港から移民船「あるぜんちな丸」に乗り込み、ロサンゼルスへ向かいました。到着後、苦労して職を得ましたが9月に不法就労で捕まり、登山の資金を貯めるために働いている事を日系人の通訳を通じて話しました。強制送還は免れたましたが、アメリカには居られなくなり、フランスへ向かいました。11月10日、シャモニーでモンブラン単独登頂を目指しましたが、クレバスに落ちて失敗しました。モルジヌのスキー場で、冬季オリンピック滑降の金メダリストのジャン・ヴュアルネに雇われ、ここで資金を稼ぎながら登山活動の拠点としました。1965年、明治大学のゴジュンバ・カン(チョ・オユー峰)登頂隊に途中参加、4月23日に登頂を果たしました。その後、再びモルジヌに戻りましたが、黄疸で一ヶ月の闘病生活を余儀なくされました。1966年7月にモンブラン、続いて7月25日にマッターホルン単独登頂に成功しました。10月24日、アフリカ最高峰キリマンジャロの単独登頂に成功しました。続いて1968年には南米最高峰のアコンカグア単独登頂に成功しました。この後、アマゾン川のいかだ下り6000kmの冒険を経て、北米最高峰のマッキンリー登頂を目指しましたが、単独登頂の許可が下りずに断念し、4年5ヶ月ぶりに日本に帰国しました。日本山岳会が創立65周年事業としてエベレスト登頂隊派遣を決定し、山岳部の先輩である大塚博美に誘われて植村直己も参加しました。自己負担金を用意できなかったため荷揚げ、ルート工作要員としての参加でしたが、抜群の体力等が認められて松浦輝夫とともに第1次アタック隊に選ばれました。1970年5月11日、エベレスト南東稜から登頂に成功しました。しかし、この経験で大量の隊員を荷物運びとして使いながら、ほんの一握りの者しか登頂できない「極地法」による高所登山に疑問を持ちました。同年8月、エベレスト登頂の勢いを借りて、再びマッキンリーに挑戦して単独登頂を成功させ、この時点で世界初の五大陸最高峰登頂者となりました。1971年に、小西政継らの山学同志会隊に加わり、冬季のグランド・ジョラス北壁に挑み、他の隊員は凍傷に罹って手足の指を失う事になりましたが、植村直己と高久幸雄は五体満足で完登しました。同年4月、イギリスBBCが主催し、アメリカ人のノーマン・ディレンファース隊長が率いるエベレスト国際隊に伊藤礼造と参加し、ネパール側南壁制覇を目指して再びエベレスト登頂を目論みましたが、国際隊は互いの利害関係が表面化し、失敗に終わりました。以後、登山・冒険とも「単独」での行動へと傾倒しました。この頃から植村直己は南極横断への夢を抱き始め、実現のための準備を始めました。1971年8月、南極横断距離3000kmを体感するため、同距離となる北海道稚内市から九州鹿児島までの国内縦断を徒歩51日間で実現しました。グリーンランド北部でのエスキモーとの共同生活を経た後、1974年12月から1976年5月まで1年半かけての北極圏12000kmの犬ぞり探検に成功しました。1978年、ナショナルジオグラフィック協会からも資金提供を受け、犬ぞりを操って人類史上初の北極点単独行に成功し、日本人として初めてナショナル・ジオグラフィック誌の表紙を飾りました。同年にはグリーンランド縦断にも成功し、これらの業績から1979年、イギリス王室から優れた冒険家に贈られる「バラー・イン・スポーツ章」を受賞するなど世界的な名声と評価を獲得しました。北極点・グリーンランドの犬ぞり探検成功後、植村直己の冒険は苦難に満ちたものとなっていきました。1980年、エベレストの厳冬期登頂を目指し、植村直己を隊長とする日本隊が編成されましたが、登攀隊員の竹中昇が事故に遭い死去、悪天候にも見舞われ、登頂は断念しました。1982年、アルゼンチン軍の協力が得られる事となり、積年の夢だった南極点単独犬ぞり探検を計画しました。南極のアルゼンチン軍基地に待機して出発を待ちましたが、「フォークランド紛争」の勃発により、軍が協力を撤回したため断念しました。2度の失敗に初心に戻る決心をした植村直己は野外学校設立を夢見て、勉強を兼ねてアメリカのミネソタ州にある野外学校「アウトワード・バウンド・スクール(OBS)」に参加するため渡米しました。ついでにアラスカで、マッキンリー登頂を目指しました。このマッキンリー登頂計画は知人・友人への事前の連絡がなく、スポンサーも絡んでいなかったため、この時期に実行された明確な理由について詳しくは分かっていません。植村直己の登頂開始は一部の記者のみによってインタビューされました。そして、1984年2月12日、植村直己43歳の誕生日にマッキンリー世界初の厳冬期単独登頂を果たしました。しかし、その翌2月13日に行われた交信以降は連絡が取れなくなり、消息不明となりました。3日後の2月16日、小型飛行機がマッキンリーに行ったところ植村直己と思われる人物が手を振っているのが確認されましたが、天候が悪く視界も悪かったため、救出する事ができずに見失ってしまいました。ただし、最終キャンプに大量の装備が残されていた事から、誤認である可能性が高いとも考えられています。その後、明治大学山岳部によって2度の捜索が行なわれましたが発見される事はなく、植村直己が登頂の証拠として山頂付近に立てた「日の丸の旗竿」と、最終キャンプ地の跡に残された植村直己の装備の一部が遺品として発見されるに留まりました。やがて生存の確率は0%とされ、捜索は打ち切られました。現在に至るまで遺体は発見されていないため、最後に消息が確認された1984年2月13日が植村直己の命日とされました。43歳でした。1984年4月19日、国民栄誉賞を受賞しました。1984年6月19日、デンマーク政府により、1978年のグリーンランド縦断の際の到達点であったヌナタック峰を、植村直己の功績を称え新たに「ヌナタック・ウエムラ峰」と呼称する事が決定しました。1994年、公子夫人と有志によって、記念館と「植村直己自然学校」が設立されました。1996年、「植村直己冒険賞」が設けられました。
植村直己の主な登山・冒険歴です。
1965年4月23日:ゴジュンバ・カン登頂
1966年7月25日:モンブラン単独登頂
1966年10月24日:キリマンジャロ単独登頂
1968年2月5日:アコンカグア単独登頂
1968年4月20日〜6月20日:アマゾン河6000km単独筏下り
1970年5月11日:エベレスト登頂(松浦輝男とともに日本人初登頂)
1970年8月30日:マッキンリー(世界初の五大陸最高峰登頂成功)
1971年1月1日:グランド・ジョラス北壁完登
1971年8月30日〜10月20日:日本列島3000kmを徒歩で縦断
1972年9月4日〜1973年2月4日:グリーンランド北端シオラパルク村のエスキモー宅に単身寄宿し共同生活
1973年2月4日〜4月30日:グリーンランド3000km犬ゾリ単独行
1974年12月29日〜1976年5月8日:北極圏12000km犬ゾリ単独行
1976年7月:エルブルスに登頂
1978年4月29日:犬ゾリ単独行で北極点到達(単独到達世界初)
1978年8月22日:犬ゾリ単独行でグリーンランド縦断成功
1982年8月13日:厳冬期アコンカグア第二登達成(共同)
1984年2月12日:マッキンリー厳冬期単独登頂(世界初)

最後に、東京ゲートブリッジ開通です。東京ゲートブリッジは、東京港第三航路(東京東航路)を跨ぎ、中央防波堤外側埋立地と江東区若洲を結ぶ橋梁です。建設時は仮称として「東京港臨海大橋」と呼ばれていましたが、1万2223件の一般公募の中から「東京ゲートブリッジ」の名称が付けられました。また、恐竜が向かい合っているような特異な形状をしている事から「恐竜橋」とも呼ばれています。東京都が策定した東京港港湾計画に記された江東区若洲と大田区城南島間約8kmを結ぶ「東京港臨海道路」の一部で、全長2618m(陸上部アプローチ橋を含む)のトラス橋です。水面から橋梁最上部の高さが87.8m、海上を跨ぐ区間の長さが1618m(横浜ベイブリッジやレインボーブリッジの約2倍)で、RC橋脚の上部に鋼3径間連続トラスボックス複合構造の橋桁が架けられ、4車線道路が設けられています。建設地が「東京国際空港(羽田空港)」に近く航空機の飛行ルート上にあるため、航空法により橋の高さに制限(98.1m以下)が課されている一方、東京東航路を通る大型船舶が航行可能な桁下の高さ54.6mを確保するため、吊り橋や斜張橋ではなく三角形に繋いだ鋼材を組み合わせて橋桁の荷重を分散する「トラス構造」が採用されました。また、支間長は440mで日本国内のトラス橋としては「生月大橋(400m)」を上回り、「港大橋(510m)」に次ぐ規模となりました。当初は、2010年度末までの事業概成、2011年度上半期の供用予定でしたが、若洲側中央部トラス桁の架設後に溶接の割れや鉄骨の変形が発見され、桁の架け直しのため完成が半年ほど遅れました。損傷の原因は、大阪府堺市の日立造船堺工場で制作された桁を東京湾まで曳航して運搬する際、波浪により想定以上の衝撃が加わったためと推測されています。照明機器には「太陽光発電システム」を導入、低炭素社会への貢献を目指しています。省エネルギー性に優れたLED照明により、夜間のライトアップを行っています。夜間景観照明は照明デザイナーの石井幹子が担当しました。隣接する中央防波堤内側埋立地では、都内最大級の公園となる「海の森公園」の整備が進められており、2016年の一部開園後には公園に通じるアクセス路としての活用も期待されています。

今日の誕生日:藤原頼経(鎌倉幕府第4代将軍)、エイブラハム・リンカーン(第16代アメリカ合衆国大統領)、チャールズ・ダーウィン、五代友厚、新島襄、直木三十五、山口淑子(李香蘭)、豊田泰光、木村太郎、石丸博也、植村直己、岡田奈々、梶原真弓(元シェイプUPガールズ)、洪明甫、メイヤ、下平さやか、高木虎之介、ひぐち君(髭男爵)、荒井健一(RAGFAIR)、みうな(元カントリー娘。)、榮倉奈々、市川美織(元NMB48、元AKB48)、川栄李奈(元AKB48)、せんとくん

今日の記念日:世界てんかんの日、ダーウィンの日、ブラジャーの日、黄ニラ記念日、ペニシリン記念日/ペニシリンの日、ボンカレーの日、レトルトカレーの日

今日の「今日訓」:本日は、「国際てんかん協会」と「国際抗てんかん連盟」が、ヨーロッパでは「聖バレンタイン」がてんかんのある人々を救った聖人として称えられている事で「バレンタインデー」直前の月曜日が「世界てんかんの日」、1809年、チャールズ・ダーウィンの誕生日で「ダーウィンの日」、1913年にアメリカ人の女性マリー・フェルブ・ジャコブが、ブラジャーの原型となるものの特許を取得した事で「ブラジャーの日」、「に(2)っこりいい(1)ニ(2)ラ」の語呂合わせで「黄ニラ記念日」、1941年2月12日にイギリスのオックスフォード大学附属病院が、世界で初めてペニシリンの臨床実験に成功した事で「ペニシリン記念日/ペニシリンの日」、1968年に日本初のレトルトカレー「ボンカレー」が発売された事から「ボンカレーの日」、「レトルトカレーの日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する