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2021年02月03日00:05

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02月03日の日記

今日の出来事:1605年−慶長地震が発生、1865年−ぜんざい屋事件、1870年−大教宣布、1946年−通化事件、1972年−札幌冬季オリンピック開幕

今日は、慶長地震が発生です。慶長地震は、江戸時代初期の1605年2月3日に起こった地震です。震源は徳島県沖と房総沖の2ヶ所と推定されています。南海トラフと房総沖の連動地震であると推定されていますが、駿河トラフなどへ連動したとされています。マグニチュード7.9と推定され、津波は夕方から夜にかけて、犬吠埼から九州に至る太平洋岸に押し寄せました。津波被害による溺死者は約5000人とされています。地震による陸地の揺れが小さかったのが、この地震の特徴です。津波を想起させる大きな地震動が発生しない「津波地震」であったとされ、同様の地震が将来発生した場合に避難が遅れ大きな被害が出る可能性があり、問題となっています。

次に、ぜんざい屋事件です。ぜんざい屋事件は、「土佐勤王党」の残党による大坂城乗っ取り計画を察知した「新選組」による浪士襲撃事件です。1865年2月3日、脱藩した土佐浪士達は、進退が極まって大坂に隠れ潜みました。「土佐勤王党」の残党・大利鼎吉、田中光顕、大橋慎三、池田応輔、大坂南瓦町でぜんざい屋を構える石蔵屋政右衛門(本多内蔵助)らは、大坂市街に火を放って混乱に乗じて大坂城を乗っ取るという計画を立てました。「新選組」大坂屯所隊長・谷万太郎は、友人の谷川辰吉から土佐浪士の不審情報を得ると、兄・谷三十郎と正木直太郎、阿部十郎を呼んでぜんざい屋を襲撃しました。京都の新選組本隊には事後的に伝えました。4人はぜんざい屋を襲撃しましたが、土佐勤王党のほとんどが外出中で、石蔵屋政右衛門と大利鼎吉しかいませんでした。谷万太郎が石蔵屋政右衛門を斬り付けましたが逃げられてしまったため、4人掛かりで2階にいた大利鼎吉に斬り付けて討ち取りました。他の者は襲撃を知ると姿を暗ましました。新選組本隊もこれを聞いて京都から出動して大坂を探索しましたが、土佐勤王党の残党は大和方面などに逃亡しました。大利鼎吉は、土佐勤王党員で1863年に脱藩し、1864年の「池田屋事件」では武田観柳斎と戦って脱しました。「禁門の変」で敗走し、1865年の「ぜんざい屋事件」で討たれました。享年24でした。

その次に、大教宣布です。大教宣布は、1870年2月3日に出された詔書です。天皇に神格を与えて神道を国教と定め、日本を祭政一致の国家とする国家方針を示しました。明治維新後、復古神道を奉じる平田派(平田篤胤)の国学者を中心に「祭政一致論」が高まりました。神祇官内に宣教使が設置され、宣教長官に中山忠能・同次官に福羽美静が任命されました。福羽美静は、「神祇官」が「神祇省」と改められた後には、事実上の最高責任者である神祇大輔を務めました。続いて、この詔書が出され、「治教を明らかにして惟神の道を宣揚すべし」という理念が打ち出されました。直接的にはキリスト教を排撃し、宣教使による神道振興と国家的保護を打ち出しています。しかし、「廃仏毀釈」による混乱や未だ地方政府としての機能を有していた藩の儒教・仏教重視理念との対立、神祇省内部の国学者間の路線対立、更に欧米からのキリスト教弾圧停止要求も重なって、神道国教化の動きは不振が続きました。1872年4月21日の教部省設置と宮中祭祀の切り離し、宣教使の廃止によって「大教宣布」は見直しを迫られる事となりました。そして、「大教宣布」の路線の再建・強化を目指した「大教院」が翌年に設置される事となります。

その次の次に、通化事件です。通化事件は1946年2月3日、中国共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市で、中華民国政府の要請に呼応した日本人の蜂起と、その鎮圧後に行われた中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊)による、日本人及び中国人に対する虐殺事件です。日本人3000名が虐殺されました。通化は終戦時に中華民国政府の統治下に置かれ、満洲国通化省王道院院長を務めた孫耕暁が国民党通化支部書記長に就任し、満州国軍や満州国警察が転籍した中華民国政府軍によって統治されていました。交通の要所である通化には大勢の避難民が集まっており、1945年8月18日には通化国民学校に避難民収容所が設置されました。また1945年8月13日に発生した「小山克事件(武装した暴民に襲われ、日本人避難民が強姦・虐殺され約100名が集団自決)」に巻き込まれた避難民も到着し、通化にもともと居住していた17000人の日本人居留民と、10万人以上の他の地域からの避難民が滞在していました。1945年8月24日に将校20人、兵士200人からなるソビエト軍が通化に進駐、市内の竜泉ホテルに司令部を設置しました。また、ソビエト軍によって武装解除された関東軍の兵器を譲渡された、中国共産党軍も同市に進駐しました。占領下の日本人はソビエト軍による強姦・暴行・略奪事件などにも脅かされていました。中国共産党軍は日本軍の脱走兵狩りを行って600人を検挙した後、吉林へ連行しました。ソビエト軍の撤退後、通化の支配を委譲された中国共産党軍は、楊万字通化省長、超通化市長、菅原達郎通化省次長、川内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長などの通化省行政の幹部を連行し、拷問や人民裁判の後、中国人幹部を全員処刑しました。また、中国共産党軍は「清算運動」と称して民族を問わず通化市民から金品を掠奪しました。9月22日には、中国共産党軍が中華民国政府軍を攻撃し、通化から駆逐しました。11月2日、中国共産党軍は17000名を超える遺留民に対して、収容能力5000名以下の旧関東軍司令部への移動命令を出しました。遺留民1人につき毛布1枚と500円の携行以外は認めないとしました。通化は氷点下30度になる極寒の地であり、無理な要求でした。12月23日、「中国共産党万歳。日本天皇制打倒。民族解放戦線統一」などのスローガンのもとで「日本人民解放連盟」と日僑管理委員会の主催で「通化日本人遺留民大会」が通化劇場で開かれました。大会には劉東元司令を始めとする中国共産党幹部、日本人民解放連盟役員らが貴賓として出席し、日本人遺留民3000人が出席しました。大会では、元満州国官吏・井手俊太郎が議長を務めました。冒頭、議長から「自由に思うことを話して、日本人同士のわだかまりを解いてもらいたい」との発言がなされると、日解連通化支部の幹部たちからは、自分たちのこれまでのやり方を謝罪するとともに、「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰である」などの発言がなされました。日本人遺留民たちは発言を求められると、日解連への非難や明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」などの発言が続き、山口嘉一郎老人が「宮城遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案すると満座の拍手が沸き起こりました。議長が賛意を示す者に起立をお願いすると、ほぼ全員が起立し、宮城遙拝と天皇陛下万歳三唱が行われました。次に山口老人は、「我々は天皇陛下を中心とした国体で教育されて来たので、いきなり180度変えた生き方にはなれませんので、徐々に教育をお願いしたい」と述べました。最後に藤田大佐が演説を行いましたが、中国共産党への謝意と協力を述べるにとどまりました。後日、大会で発言した者は連行され、処刑されました。1946年1月1日、中国共産軍側工作員の内海薫が何者かに殺害されました。1月10日、「日本人民解放連盟通化支部」の幹部、高級官吏、日本人遺留民会の指導者ら140名が内海を殺害した容疑で連行され、専員公署の建物に抑留されました(一月十日事件)。「日本人民解放連盟通化支部」は解散させられました。1月21日、菅原達郎通化省次長、川内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長は中国共産党軍によって市中引き回しの上で、渾江の河原で公開処刑されました。2月3日、柴田軍医大尉らは深夜に病院を抜け出すと、変電所を占拠しました。午前4時に電灯を3度点滅させたのを合図に、在留日本人は中華民国政府軍・林航空隊・戦車隊の支援を期待して、元関東軍将校などの指揮下で蜂起しました。日本人は中隊ごとに分かれて市内の中国共産党軍の拠点を襲撃しました。佐藤少尉率いる第一中隊150名が専員公署へ突撃すると、待ち構えていた中国共産軍の機関銃や手榴弾によって次々となぎ倒されました。佐藤少尉以下10名が建物に侵入し、「一月十日事件」で連行された日本人が監禁されている牢に到達しましたが、待ち構えていた機関銃によって射殺されました。牢内の日本人も一斉射撃により全員が射殺され、これにより第一中隊は壊滅しました。阿部大尉率いる第二中隊100名は中共軍司令部の竜泉ホテルを襲撃しましたが、待ち構えていた中国共産党軍の攻撃により、建物に近づく前に壊滅しました。 寺田少尉率いる第三中隊は元通化市公署に駐屯している県大隊を襲撃しました。 ここでは400名が内応するはずでしたが、斬り込み隊は銃撃を受け、犠牲者を出して引き上げました。中山菊松が率いる遊撃隊は、公安局に監禁されている婉容皇后、浩皇弟妃、皇女?生(皇弟溥傑の次女)を始めとする満州国皇室の救出に向かい、一時は公安局を占拠する事に成功しました。中山菊松は皇室が捕らわれている部屋に飛び込むと皇弟・妃浩の誰何に対し「国民党」「一番乗りの中山、お助けに上がりました」と答え、宮内府憲兵の工藤が救出に向かっている事、女中達が数軒先の家で風呂の用意をしている事を告げました。まもなく公安局は中国共産軍に包囲され、機関銃や大砲による砲撃が行われました。遊撃隊は次々と倒れ、皇帝・溥儀の乳母も砲撃で腕を吹き飛ばされて死亡しました。中山菊松隊長らはやむなく公安局から退きました。その他の襲撃地点でも日本人は撃退されました。林航空隊では、鈴木中尉、小林中尉を筆頭に両中尉が率いる下士官たちが蜂起に参加しようとしましたが、蜂起合図前に中共軍に拘束され、木村戦車隊も出発直前に包囲され、中共軍に拘束されました。午前8時になると、16歳以上の日本人男性は事件との関係を問わず全員拘束され、連行されました。また、事件に関与したとみなされた女性も連行されました。3000人以上に上る拘束者は、小銃で殴りつけられるなどして旧通運会社の社宅などの建物の各部屋に押し込められました。専員公署では8畳ほどの部屋に120人が強引に押し込められました。蜂起計画に関与しなかった一般市民を含めて、民間の約2000人が殺されました。また、数百人が凍傷に罹り不具者となりました。拘束から5日後に部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちに棍棒で殴りつけられ、多くが撲殺されました。撲殺を免れた者の多くは手足を折られるなどしました。その後、中国共産党軍による拷問と尋問が行われ、凍結した渾江(鴨緑江の支流)の上に引き出されて虐殺が行われました。また事件後に蜂起の負傷者に手当を施した者は女性・子供であっても、容赦なく銃殺されました。生存者は中国共産党軍への徴兵、シベリア抑留などさまざまな運命を辿りました。1946年末に中華民国政府軍が通化を奪還すると、事件犠牲者の慰霊祭が行われました。しかし、1947年には中国共産党軍が通化を再び占領しました。「通化事件」の生存者の1人、中山菊松が通化遺族会を設立し、日本政府や国会に対して陳情活動を始めるなど全国的な運動を展開しました。1954年には、遺族援護法を「通化事件」の犠牲者にも適用する事を嘆願し、認められました。通化遺族会は1955年以降、毎年2月3日に靖国神社で慰霊祭を行っています。

最後に、札幌冬季オリンピック開幕です。北海道札幌市で1972年2月3日〜2月13日まで行われた、冬季オリンピックです。日本およびアジアで初めて開催された冬季オリンピックです。札幌は、1940年に「アジア初の夏季オリンピック」として開催される予定であった「東京オリンピック」の開催と同年に、「アジア初の冬季オリンピック」としての開催が決定していました。しかし、1937年に勃発した「日中戦争」の激化を受けて、「東京オリンピック」の開催とともに日本政府が開催権を返上しました。その後、1964年の「東京オリンピック」開催が決定された事を受けて、札幌オリンピック招致を実現させようという機運が高まりました。札幌は1968年の開催に立候補しましたが投票で敗れました。1972年の開催に2度目の立候補をし、前回の投票で敗れたカナダのカルガリーと同じ、アルバータ州のバンフとの事実上の一騎打ちとなりました。1966年4月26日にイタリアのローマで開催された第64回国際オリンピック委員会(IOC)総会で、開催地決定の投票が行われる事になりました。この時IOC委員の最長老・高石真五郎は病気のため現地入りを断念し、その代わりとして自身のアピールコメントを録音したテープを同委員の東龍太郎に託しました。そして総会での投票直前、東龍太郎が許可を得て高石真五郎のコメント音声を会場に流したところ、この「高石アピール」が委員の間で大きな反響を呼び、投票で札幌は32票を獲得しました。対抗都市はバンフが16票で、フィンランドのラハティとアメリカのソルトレイクシティが共に7票のため、第1回投票での過半数獲得により、札幌の開催が決定しました。これにより、冬季大会は中止になった場合は回次が付かないため、公式的にも日本で冬季五輪初開催となりました。この札幌オリンピックは、スキージャンプ70m級(現在のノーマルヒル)では、笠谷幸生が1位、金野昭次が2位、青地清二が3位と、日本人が冬季オリンピックで初めて表彰台を独占しました。それまで冬季オリンピックの歴史上メダル獲得は、猪谷千春によるコルティナダンペッツォオリンピックのアルペン回転での銀メダルの1個だけでした。ジャンプ70m級の金銀銅メダル独占という快挙は、日本のジャンプ陣が「日の丸飛行隊」と呼ばれるきっかけになりました。

今日の誕生日:荷田春満、フェリックス・メンデルスゾーン、根岸季衣、烏丸せつこ、玉元光男(元フィンガー5)、小西康陽(元ピチカート・ファイヴ)、川合俊一、有田哲平(くりぃむしちゅー)、吉田羊、川島明(麒麟)、吉岡美穂、柳原可奈子、土屋太鳳、橋本環奈(元Rev from DVL)

今日の記念日:立春、大岡越前の日、不眠の日、絵手紙の日

今日の「今日訓」:本日は、二十四節気の一つ「立春」です。春の初めで「春の気立つを以って也」と記されています。2021年〜2057年までは、4で割って余り1の年は3日となります。「冬至」と「春分」の中間に当たり、この日から「立夏」の前日までが「春」となります。九州など暖かい地方では梅が咲き始めます。暦の上ではこの日が寒さの頂点となり、翌日からの寒さを「残寒」または「余寒」と言います。享保2年(1717年)2月3日に、大岡忠相が南町奉行に就任した事で「大岡越前の日」、「ふ(2)みん(3)」の語呂合わせで「不眠の日」、「ふ(2)み(3)」の語呂合わせで「絵手紙の日」となりました。
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