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2021年02月02日13:16

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宗像大社考・森岩光氏の説

自分で分析・考察できるように引用。
以下

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宗像家とは、何者か?
まず、
ウサギとワニの数比べ〜狡猾なウサギがワニに身ぐるみ剥がれて赤膚の瀕死状態となりしくしく泣き続ける。
しばらくたって、大己貴命(大国主神)がやって来て赤膚のウサギに治療法を教えてウサギが復活する。
というお伽噺(神話)は良く知られていますが、
これは、

(神話の)ウサギ=我が国最古の大族の宇佐族。
彼らは原初より月神を信仰して、月に住むと言うウサギ(月兎神?)に因み、自らをウサギ族と号したのが後にはウサ族に変化したと言う。

彼らは女性優位の母系社会(当然、「家督相続、継承は女系」いわゆる「カカア天下」)で有ったことから、
信奉する神様も女神となるのは世界中の習いで、月神は月の女神と考え、
また、月の満ち欠けは日月、暦を読むことにつながることから、
月の女神は「月読尊」と崇拝されました。
この月読尊/月の女神を奉祭した神宮が、
正に「宇佐神宮」に他なりません。
宇佐王家の歴代当主(王)の御霊も共に祀られましたから、月読尊は宇佐族の祖霊神でも有ります。
これが宇佐神宮の現在の「二の御殿」(中央神殿)
***ウサギ=宇佐族。
***ウサギ神=月読尊
(月読尊を語ることは宇佐族を語ること。これが不都合な為に古事記等はそのほとんどを削除した。
月読尊の異名同神の稚日女尊、ウズメ尊、豊受大神。等も同様。伊勢神宮の内宮の来歴は語るのに、外宮の神様の来歴がほとんど分からない理由も同じ)
彼らは一族の名に兎の文字を宛てたと言うので宇佐族は、兎佐族が相応しいかと。
兎佐族は、出雲族がインドからシベリア回りで漂着(出雲の伝承ではシベリアで筏を組んでアムール川を一気に川下りしてオホーツク海に出た後、樺太〜北海道(渡り島と呼んでいた)の沿岸〜本州の津軽に上陸した。約4千年前の事)
時には西日本全体に繁栄していたと言う。
出雲族(インド先住民のドラビタ族の一団)を兎佐族はサルタ族と呼んだ。
出雲族の信奉する家族神の御子神がサルタ彦大神。
サルタは「体から突き出たモノ」の意味で、転じて男性の陰茎の比喩。
サルタ彦大神の原形は今めインドで絶大な信仰を受ける「象頭神のガネーシャ尊」
仏教で再び渡来した聖天。歓喜天。は同じ神さま。
○ガネーシャ尊=サルタ彦大神=聖天尊、歓喜天尊。
出雲族の主神、后神、御子神の家族神の眷族神に「龍蛇神」があり、
いわゆる龍神、大蛇神/蛇神。
この原形が、
インド時代の川に棲息する「川ワニ」が畏怖されて川の神様となり、
また、森に棲息する猛毒を持つ大蛇の「コブラ」が畏怖されて森の神様となり、
双方が習合したモノ。
故に、
ワニ(比喩)=出雲族の事。

これで、ウサギとワニが何者かは判明しましたね?
○ウサギ=宇佐族。
○ワニ=出雲族。
○数比べ=勢力を競い会った。

出雲族が出雲地方に定着化すると次第に勢力範囲を拡大していく一方で、
繁栄を謳歌していた宇佐族は出雲族に圧されて次第に勢力範囲を退行せざるを得なく成った末に、
北九州地方だけを領するだけと納得しまった。
後に、宇佐族が領する北九州地方を「豊の国/豊国」と呼ばれました。(豊前と豊後を併せた領域+アルファ)

出雲が繁栄していくと、やがて民族統一の機運が高まり、
渡来時のリーダーで民族の英雄で象徴で有ったクナト王(主神と習合して「クナト大神」(後にイザナギ))の
直系子孫の「菅の八耳命」が周囲から推戴される形で初代の出雲王に即位して、
出雲は王政に移行しました。
時に、紀元前660年頃の事で有った。
因みに、菅の八耳王の正后(皇后)で出雲王国の初代 国姫巫女/祭主が
稲田姫命で在った。(姫巫女さまで在ったことを「櫛に変化させ」云々で暗喩)
(天皇家はお二方の直系子孫)
古事記等では悪意の下、菅の八耳尊が時代が全く異なる出雲の仇敵のスサノオ(徐福の暗号)に改ざんされた。
稲田姫命とスサノオの命が併せ祀られている場合、
スサノオを「菅の八耳尊」(スガのヤツミミ)と読み替えが必要です?

出雲王国は先祖伝来の家族神と眷族の龍蛇神の信仰を再構築して「幸ノ神信仰」として体系化して国教としました。

出雲族もまた、基本的に「女性優位の母系社会」で、
母系社会の習いで、争いを好まない穏やかな民族。
出雲王国は国教の幸ノ神信仰を軸に各地の豪族、勢力の首長等にたいして話し合いにより出雲王国に参加することを説得して廻り、言論により統治しました。
これを「言向け」と言いました。

大義での出雲族とは「幸ノ神信仰」を共有する者。
出雲王国は幸ノ神信仰を共有する者同士による信仰と信義による緩やかな連合体。
と言うのが実態。
それだけではイマイチ心許ないため、各地の首長等は出雲の王家と婚姻して姻戚関係を望み、それを栄誉としました。
王家の親戚/縁戚となると王家より「臣(オミ)の称号」を名乗ることが許可され、
皆、誇らしく「名義+臣」を名乗ることが古代広くみられます。

後世の、武内臣(武内宿祢は悪意の間違い(「宿祢」は「物部王家の重臣」の称号))。平群臣(平群王朝(仁徳〜武烈))。石川臣。蘇我臣。巨勢臣。
等は出雲の元王家の親戚。

第6代出雲王の(八束水)臣津野命の御代に出雲王国は一気に領域を拡大して、北は北陸(新潟)。南西は北九州に迄を領有しました。

北九州地方は宇佐族が領有する地域。
出雲王国は大変重要視して、
臣津野命の親王(王子)である
アタカタス命を北九州の宇佐に下らせ、
宇佐王家の惣領姫命と政略結婚させでアタカタス命は出雲神族(=王族)の胸肩王家を創設しました。
***古代、九州を人の形と考えていて、北九州地方は正にその胸や肩に当たると考えての志儀。
時代的には紀元前4世紀頃の事かと。

胸肩が後には胸形、宗形、宗像(棟方、宗方)と変化。

アタカタス命が出雲王国の親王であり、宇佐王家は出雲王国に形式上、臣従して出雲王国に参加した形で有ったことによりますが、
宗像王家は実質的には変わらず宇佐王家で有り続けました。
継承は母系社会の習い通り、女系で継承されたようです。



アタカタス命の三人の娘が
いわゆる宗像三女神。と呼ばれる、
多岐理姫命(長女)。多岐津姫命(二女)。サヨリ姫命/市杵島姫命(三女)

上のお二方は出雲王国の第七代の王后(多岐理姫命)、第8代王后(多岐津姫命)と成られました。
(出雲大社(渡来人に暗殺された第8代出雲王八千戈命が主祭神(出雲大社宮司家は「祭神を殺した」「ホヒの直系子孫」))にウサギさんがいたり筑紫社が祀られる理由)

三女で惣領姫の佐依姫命は、知らぬ事とは言え、ニギハヤヒを自称して再度渡来した二人の姉の仇敵の徐福と政略結婚して
物部の祖となる彦ホホデミ命と、娘のホヤ姫命(徐福が彦ホアカリを自称して出雲王国で政略結婚した内親王の高光姫命との御子の五十猛。改め海カゴヤマの異母兄に嫁いで村雲命(大和王国の初代大王(古事記の系図上では神武天皇に化けた))を生む)を生みました。

後に、夫のニギハヤヒが二人の姉と父親の実家の出雲王国の仇敵であることを知って大変苦悩なさった事は想像に難くありません。
その事を暗喩するように古事記等は、
天照大神(市杵島姫命)がスサノオ(徐福。や、子孫の物部)に頼んで大宜津姫命(多岐津姫命に酷似)の様子を見舞う話。や、
天照大神(市杵島姫命)が月読尊(宇佐族や宗像王家)に頼んで保食神(出雲の神)を訪ねさせる
に、反映したかと。


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引用終了

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