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2021年02月01日00:20

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02月01日の日記

今日の出来事:1477年−享徳の乱:五十子の戦い(長尾景春の乱勃発)、1874年−不平士族の反乱:佐賀の乱勃発、1938年−山川均・大内兵衛・美濃部亮吉ら労農派教授グループ約30人が検挙(第二次人民戦線事件)、1944年−第二次世界大戦:クェゼリンの戦い

今日は、享徳の乱:五十子の戦い(長尾景春の乱勃発)です。五十子の戦いは、古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏一族の間で行われた戦いです。「享徳の乱」の激戦の一つで、武蔵国五十子(現・埼玉県本庄市五十子)周辺で行なわれた合戦です。享徳3年(1454年)から始まった「享徳の乱」は、長期化しました。上杉氏に追われた足利成氏が下総国・古河御所を拠点にして反撃を開始した事により、関東地方は利根川を境界として東側は古河公方陣営、西側は関東管領陣営に分断されました。1456年には、利根川沿いの武蔵国岡部原で古河軍と上杉軍が衝突しました。この前後に利根川流域に、忍城・深谷城・関宿城などが次々と築かれました。1459年、関東管領・上杉房顕は、五十子に城砦を築いて持朝・房定・教房・政藤ら一族の主だった者たちを結集させました。これを知った足利成氏は、五十子に攻撃を加えるため出撃しました。両軍は近くの太田庄(現・埼玉県熊谷市)で交戦しました。この「太田庄の戦い」の結果、上杉教房が戦死するなどの打撃を受けました。しかし、上野の岩松家純・持国が上杉軍に加勢するとの報を得た上杉房定・政藤は、翌日に利根川を渡って上野側に陣地を張る古河軍を羽継原(現・群馬県館林市)・海老瀬口(現・板倉町)で攻撃を行ないましたが、再度敗戦しました。上杉軍は大打撃を受けましたが、古河軍も撤退したため五十子は上杉軍の手に確保されました。以後、上杉房顕はここを拠点として長期戦の構えを見せました。室町幕府は五十子に援軍を派遣する予定でしたが、斯波義敏が内乱「長禄合戦」を引き起こして責任を取らされて追放された為、中止となりました。その頃、上杉氏の要請によって室町幕府将軍・足利義政の異母兄・政知が新しい鎌倉公方となるため伊豆まで下ってきました。これを、受け入れるか否かで上杉一族の意見が纏まらなかったため、足利政知は伊豆堀越に留まって堀越公方を名乗りました。足利政知に仕えていた上杉政憲(氏憲の孫、上杉教朝の子)は古河公方・足利成氏の排斥こそが足利政知の鎌倉入りに向けての最大の説得材料になると考えて、1465年に伊豆から出陣し、関東管領・上杉房顕や越後守護・上杉房定、その子・顕定と合流するため五十子に向かいました。幕府は駿河の今川義忠、甲斐の武田信昌の両守護にも上杉政憲救援を命じました。しかし、援軍到着前に上杉軍を叩こうとした古河軍は、再び太田庄から五十子に進出しました。その後、翌1466年に上杉房顕が五十子で急死し、子供がいなかったため急遽、顕定を養子として関東管領を継承させました。これによって戦闘は一旦休戦となりました。その後も古河軍と上杉軍は五十子で睨み合いと小競り合いを繰り返し、関東各地で一進一退の戦いを繰り広げました。ところが、1473年に関東管領家・山内上杉家の家宰・長尾景信が死去、続いて扇谷上杉家・上杉政真が五十子での攻防戦で古河軍によって討たれると状況が一変しました。家宰を継げなかった長尾景信の子・景春は、上杉顕定を恨んで足利成氏方に寝返って挙兵しました。「長尾景春の乱」の勃発です。1476年、長尾景春は山内上杉軍が駐留している五十子を囲みました。堀越公方軍と扇谷上杉軍の主力を率いていた上杉政憲と太田道灌が、今川氏の内紛仲裁のために兵を率いて駿河国に入っていたため上杉顕定は援軍を得られませんでした。翌1477年2月1日、五十子城は陥落して上杉顕定は辛うじて上野国に逃げ帰りました。こうして、長年にわたった「五十子の陣」は解体しました。その後、「長尾景春の乱」を抑えるのは扇谷上杉家の当主・上杉定正を補佐する太田道灌です。これを見た上杉顕定は、扇谷上杉家の台頭を危惧して足利成氏と講和を望むようになります。以後、戦局は山内・扇谷の両上杉家の対立へと構造を変えて行く事になります。

次に、不平士族の反乱:佐賀の乱勃発です。佐賀の乱は、江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つです。征韓論問題で下野した前参議・江藤新平を擁する中島鼎蔵などの「征韓党」と、前侍従で秋田県権令・島義勇、副島義高らを擁する「憂国党」による旧佐賀藩士を中心とした反乱で、以後続発する士族による乱の嚆矢となりました。征韓論をめぐる「明治6年の政変」で中央を追われた江藤新平は、副島種臣や後藤象二郎の説得を振り切って佐賀に戻りました。この頃の佐賀は、征韓論を奉じる反政府的な「征韓党」と、封建主事への回帰を目指す保守反動的な「憂国党」が結成されるなど、政情は不安定でした。「征韓党」は、江藤新平(前参議)、山中一郎(海外留学生)、香月経五郎(岩倉使節団通訳・佐賀県中属)、朝倉尚武(陸軍少佐)、石井貞興(佐賀県大属)、山田平蔵(佐賀県中属)、中島鼎蔵(左院奉職)、西義質(佐賀県大属・陸軍中尉)らでした。「憂国党」は、島義勇(前秋田県権令)、重松基吉(島義勇の弟)、副島義高(島義勇の弟)、村山長栄(佐賀藩一心隊隊長)、中川義純(元佐賀藩士)、福地常彰(佐賀藩極役)らでした。そのような情勢下の1874年2月1日、「憂国党」に属する武士が官金預かり業者である小野組におしかけ、店員らが逃亡するという事件が起こりました。これは即、内務省に電報で通知され、政府は熊本鎮台司令長官・谷干城に佐賀士族の鎮圧を命令しました。内務卿・大久保利通は、文官でありながら兵権を握る権限を得て、嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)が征討総督として現地に着任するまで、すべての事項を決裁しました。大久保利通は東京から引き連れた部隊に加えて、大阪の鎮台部隊等を直ちに動員しました。さらに、博多に向かうと貫属隊の名目で兵を集めました。本隊を指揮する野津鎮雄を朝日山へ向かわせ、博多の本陣には山田顕義を残しました。こうして「佐賀の乱」が始まりました。

その次に、第二次人民戦線事件です。人民戦線事件は、1937年12月15日、コミンテルンの反ファシズム統一戦線の呼びかけに呼応して、日本で人民戦線の結成を企てたとして労農派系の大学教授・学者グループが一斉検挙された事件です。第一次検挙では、代議士の加藤勘十・黒田寿男、運動家の山川均・荒畑寒村・鈴木茂三郎・岡田宗司・向坂逸郎・大森義太郎など446人が検挙されました(第一次人民戦線事件)。1938年2月1日の第二次検挙で、大内兵衛・有沢広巳・脇村義太郎・宇野弘蔵・美濃部亮吉や佐々木更三・江田三郎など大学教授・運動家を中心に38人が検挙されました(第二次人民戦線事件)。いずれも「国体変革」、「私有財産否定」を目的としたとして「治安維持法」で起訴されました。多くの者は、1944年9月2日の二審で無罪が確定しましたが、加藤勘十・鈴木茂三郎・山川均らは有罪とされました。その後、1945年の敗戦で「治安維持法」がなくなると加藤勘十らは全員、免訴となりました。この事件を機に、日本共産党に限定されていた検挙が、非共産党のマルキスト・社会主義者一般に及ぶようになりました。

最後に、第二次世界大戦:クェゼリンの戦いです。クェゼリン島の戦いは、日本軍の守るクェゼリン環礁へアメリカ軍が侵攻して行われた戦闘です。防衛態勢が整っていなかった日本軍は短期間の戦闘で全滅しました。アメリカ軍が日本の領土を占領したのは、これが初めてとなりました。1944年1月、フェニックス諸島およびギルバート諸島からの第57任務部隊(ジョン・H・フーヴァー少将)の陸上航空部隊の航空機によって、マーシャル諸島への攻撃の幕が切って落とされました。アメリカ軍が近々、マーシャル方面に来襲してくる可能性があると連合艦隊に通報されていたにもかかわらず、連合艦隊は1月25日にトラック諸島に配置してあった第二航空戦隊の航空機を、ラバウルに移動させてしまいました。1月30日早朝、第58任務部隊は約750機の艦載機で制空権を確保するため、マーシャル諸島各地への航空攻撃を行いました。第57任務部隊の航空機もこれに呼応して、空襲を行いました。日本軍機のほとんどは地上で撃破され、日本軍の航空部隊は午前中にほぼ壊滅しました。戦艦や巡洋艦を主力とする水上部隊も、昼夜分かたずマーシャル諸島の要地に対して艦砲射撃を繰り返し、空と海からの攻撃によって通信施設や滑走路、弾薬、在泊艦船なども壊滅状態となりました。2月1日未明、第5水陸両用部隊の諸艦船は艦砲射撃の援護を得て環礁内に進入し、クェゼリン、ルオット両島攻撃の足がかりとなる各小島の攻略に取り掛かりました。第53任務部隊はエニマネック、エニブニ、エニビン、ミルの各小島に上陸しました。エニビン島の日本兵は25名ほどで、半時間の戦闘の後に占領すると砲兵隊陣地を構築しました。ミル島も上陸後間もなく占領し、同じく砲兵隊陣地として活用される事となりました。ルオット方面での小島掃討戦で日本軍は34名が戦死し、アメリカ軍の死傷者は64名でした。掃討戦を終えると、駆逐艦は間断なく砲撃を続けて反撃を封じ、夜間には照明弾を発射して日本軍の監視を続けました。第52任務部隊は砲撃を行いながらクェゼリンに近接し、エニブージ、エンニラビガン、ギー、ニンニの各小島の占領を行いました。第23海兵連隊がルオット島に、第24海兵連隊がナムル島に上陸しました。ルオット島では唯一生き残った47ミリ速射砲がM5軽戦車を撃破しましたが、残存部隊は海岸線で銃剣突撃を行うと午後には玉砕しました。ナムル島では、少数の日本兵が椰子の木の丸太に隠れて抵抗を試みましたが、火炎放射器と爆薬で相次いで粉砕され、翌日までに全滅しました。ルオットとナムルでの死傷者の数は、日本軍が戦死2540名と捕虜11名を出し、アメリカ軍は戦死313名、負傷者545名を出しました。その後、クェゼリン島に上陸しました。秋山門造少将は「各隊は、一兵となるまで陣地を固守し、増援部隊の来着まで本島を死守すべし」と命じました。秋山少将は、前線視察に出た時にアメリカ軍の砲弾を浴びて戦死しました。阿蘇太郎吉陸軍大佐が折からの豪雨の中を機動大隊と第六十一警備隊を率いて夜襲を決行し、一時は成功したものの海とエニブージ島からの砲撃に阻まれ、多大な損害を出して後退しました。残った第六根拠地隊の主要幹部全員が自決し、残存兵は阿蘇大佐に指揮される事となりました。2月5日、朝から日本語による降伏勧告が行われましたが、これに対する答えは、10時から行われた阿蘇大佐以下残存兵総員による突撃でした。阿蘇大佐以下も12時30分頃までには全員玉砕して果て、2月6日に最後の掃討戦が終わり、クェゼリン島の占領が宣言されました。日本軍の戦死者の中には、第六根拠地隊参謀で元皇族で侯爵・音羽正彦海軍大尉も含まれていました。クェゼリン方面の最後の戦闘は、クェゼリン島の北端部から約2海里の地点にあるエビジェ島の戦闘でした。エビジェ島には水上機基地が置かれており、航空隊員と地上要員合わせて約800名が守備していました。エニブージ、エンニラビガン両島を占領したアメリカ陸軍第17連隊が攻略を担当し、2月4日から攻略作戦が行われました。エビジェ島守備部隊は、一時は夜襲により第17連隊を押し返すほど抵抗しましたが、2月5日10時までには全滅しました。エビジェ島占領に続いてロイ島、グゲゲ島およびビゲ島を占領して、クェゼリン方面の戦闘は事実上終了しました。戦いを通じて日本軍は、若干の抵抗を行った以外は、成すすべなく壊滅しました。この一連の「クェゼリンの戦い」での日本軍の戦死者は計7870名でした。

今日の誕生日:一休宗純、最上義光、石橋正二郎、子母沢寛、沢村栄治、榊莫山、ボリス・エリツィン(初代ロシア連邦大統領)、海老一染太郎(海老一染之助・染太郎)、吉村作治、山本譲二、中村雅俊、姫野達也(チューリップ)、井沢元彦、唯川恵、みうらじゅん、渡辺英樹(元C−C−B)、堀川りょう、黒田アーサー、布袋寅泰(元BOØWY、元COMPLEX)、村上隆、磯野貴理子、宮田和弥(JUN SKY WALKER(S))、大久保博元、土田尚史、押尾コータロー、ガブリエル・バティストゥータ、島田奈美、川田広樹(ガレッジセール)、佐藤征史(くるり)、綿矢りさ、東出昌大、もえのあずき(バクステ外神田一丁目)、藤江れいな(元NMB48、元AKB48)、ジヒョ(TWICE)

今日の記念日:テレビ放送記念日、琉球王国建国記念の日、ニオイの日、ガーナチョコレートの日、プリキュアの日、2分の1成人式の日

今日の「今日訓」:本日から2月「如月」です。他の月の日数が30または31日なのに対して、2月だけ28または29日なのは、志半ばにして倒れた養父・シーザーの後を継いで内乱を勝ち抜き、地中海世界を統一して帝政を創始したローマ帝国の初代皇帝・アウグストゥスが、紀元前8年に8月の日数を30日から31日に変更し、そこで不足した日数を2月から差し引いたためです。「如月」とは、まだ寒さが残っているので、衣を更に着る月であるから「衣更着(きさらぎ)」となりました。1953年、NHK東京放送局が日本初のテレビの本放送を開始した事で「テレビ放送記念日」、1425年2月1日、明の宣徳帝が尚巴志を琉球王国の王と記載した最古の文書がある事から「琉球王国建国記念の日」、「に(2)お(0)い(1)」の語呂合わせで「ニオイの日」、1964年2月1日にガーナチョコレートが誕生した事から「ガーナチョコレートの日」、2004年に東映アニメーション制作のテレビアニメシリーズ「ふたりはプリキュア」の放送が開始されたのを記念して「プリキュアの日」、成人の半分にあたる10歳の2月に「2分の1成人式」を開催する小学校が多く、子供の成長を振返る大切な日「2分の1成人式の日」となりました。
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