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2021年01月30日07:05

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文化     フランスで枯葉剤裁判が始まった 映画『花はどこへいった』とベトナムの村歩きで遭遇したこと

 日刊ベリタ記事の転載です。
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202101292221435




2021年01月29日22時21分掲載  無料記事  印刷用
文化
フランスで枯葉剤裁判が始まった 映画『花はどこへいった』とベトナムの村歩きで遭遇したこと

 フランスでベトナム戦争で使われた枯葉剤の裁判が始まったという知らせが、国際有機農業映画祭の運営委員仲間のレジーヌ(Regine、在フランス)さんからあった。「ベトナム戦争中に何百万人もの人々を毒殺した落葉剤に対する裁判が、1月25日(月)フランスで始まります。犠牲者の一人TranToNgaさんは、長年戦ってきました。2014年にBayer-MonsantoやDowChemicalを含む多国籍企業を告訴しましたが、裁判が延期されてきました」とある。その裁判がようやく始まったのである。国際有機農業映画祭では2012年に枯葉剤の悲劇を描いた『花はどこへいった』を上映した。その前、ぼく自身はアジアの村歩きの中で訪れたベトナム中部の少数民族も村で枯葉剤による汚染に遭遇。その後ダナンにある枯葉剤被害者救援センターを訪れたことがあった。映画を紹介しながらその折のことを書いた当時の原稿をストレージから引っ張り出した。以下に再掲する。(大野和興)


■映画『花はどこへいった』
制作・監督 坂田雅子

 2008年に公開されたえいが『花はどこへいった』を、昨年12月に都内で開かれた国際有機農業映画祭で改めてみた。ベトナム戦争中、米軍によってベトナムの森や野にまかれた枯葉剤の影響を追う映画を何故有機農業を銘打った映画祭が上映したのか。
 この映画祭では水俣病に文字通り生命をかけて取り組み、昨年亡くなった医師原田正純氏を追った熊本テレビが制作した作品も上映された。3・11原発事故がもたらした底知れない放射能禍を重ね合わあわせると、農業や環境をテーマとした他の作品とならべて枯葉剤と水俣病を取り上げた映画祭運営委員会の意図が浮かびあがる。

 夫を肝臓がんで亡くした妻。フォトジャーナリストとして世界中を飛び歩いていた米国人の夫は青年時代ベトナム戦争に従事し、枯葉剤をかびた経験があった。夫の友人から、夫が若くして死んだのはそのせいではないかと示唆され、カメラをかかけてべトナムに飛
ぶ。
 この映画を制作・監督した坂田雅子さんだ。坂田さんがベトナムで目にしたのは、枯葉剤が、ベトナム戦争が終わって30年たった当時もなお人々のいのちと大地と水を蝕み続けている現実だった。
映画はその現実を追って、村に入り、人びとの話を聞き、ありの
ままを淡々と追う。

 枯葉剤。オレンジ爆弾とよばれたこのものは、猛毒ダイオキシンを大量に含む強力な除草剤を兵器化したものだった。ベトナムの山や森に潜む解放軍兵を狩りだすためには、樹木を枯らさなければならない。その目的で使用されたものだ。
 ダイオキシンの毒性はサリンの2倍、青酸カリの1000倍といわれている。極く微量で遺伝子の特定部分と結合し、発ガン、催奇性、免疫の異常、発育の異常などをもたらす。

 タイトルとなった「花はどこへいった」はビート・シガーによって制作され、1956年に発売されたが、その度さまざまな歌手によってカバーされ、ベトナム戦争を背景に広く歌われた曲だ。特に
ピーター・ポール&マリーによってべトナム反戦歌として定着した。

「花はどこへ行った 少女がつんだ」「少女はどこへ行った 男の下へ嫁に行った」「男はどこへ行った 兵隊として戦場へ」「兵隊はどこへ行った 死んで墓に行った」「墓はどこへ行った 花で覆われた」と続き、最後に「いつになったらわかるのだろう」という言葉で締めくくられる。

■枯葉剤被害者救援センターにて

 映画を見ながら、2009年に訪れたベトナム・ダナンの枯葉剤被害者サポートセンター(DA NANG SuportCenter for Agent Orange
Victimus)で遭遇したことを思いだした。

 ピースボートに水先案内人で乗船し、その旅の途中で立ち寄ったものだ。訪れたセンターはベトナムを逃れて米国に渡り、ベトナム戦争に翻弄される人びとの様子を描いて世界的に有名になった『天と地』(1993年、オリバー・ストーン脚本・監督で映画化されている)の女性作家が支援して立ち上げ、日本を含む世界の市民がサポートしている施設だ。センターには日本からの女性6人を含め、米国、フランス、イタリアなどからのボランティア13人が働いていた。

 ここに通っている枯葉剤の被害者は5、6歳の幼児を含め80人。みんな心身の障害を持つ人たちだった。サイゴン陥落でベトナム戦争が終わったのは1975年だから、この時点ですでに34年が経過している。センターにいる幼児は直接被曝者の3代目に当たる。枯葉剤の悲劇が代を継いで引き継がれている実態を前にして、暗然となった。

■少数民族の村で

 枯葉剤との遭遇はこれ一度ではない。90年代後半、ベトナム中部の古都フエから山間地帯に入った山岳少数民族の村を訪れたことがある。山の中をホーチミンルートが通り、その村にはベトナム民族解放軍の兵士たちを攻撃するための空軍基地がおかれていたところ
だった。基地には枯葉剤の置場もあった。

ぼくが訪れた数年前、カナダのNGOが来て、環境調査をしたということを聞いて、その調査資料を探し出し、自転車を借りてフエの街を駆け回ってコピーしてくれる店をさがしまわった。コピー代はとても高かったが、いくら払ってもいいという気持ちだった。

 調査報告書によると、村人が住み、耕し、水を使い、赤ちゃんを育てる、そのすべてに高濃度のダイオキシン汚染が見られた。一度自然界に放出された汚染物質、とどまることなく生命を侵し続ける。

 ベトナムの地で実行された戦争犯罪が裁かれるのはいつになるのか。


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