mixiユーザー(id:3097311)

2021年01月03日00:16

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思うんだけれども、

思考には(何語でも良いから)言語が必須であろう、では、言語無き自我という物は果たして成立しうる物であろうか?

西洋哲学などを読んでいると、ここから言語を取ってしまうと、ソレこそ何も残らないのでは無いか?分厚い本も白い帳面になってしまうのではないか?と、思ってしまう。

しかし、人間は、恐らくはその殆どは乳児の時には多分言葉を殆ど習得していないし、理解もしていない様に思う。言葉無き、故に恐らくは思考なき自我とは一体どういう物なのであろうか?

「人は生まれるとき、泣きながら生まれてくる。」などと言われることがあるが恐らくは、泣きながらと言うよりも鳴きながら、もっといえば鳴動に近い物では無いか?と、思う。

何しろ非常に難儀して出てきたと思ったらいきなり生まれて初めての自立呼吸をしなくてはならない。今まで使ったことの無い呼吸器官を直ちに使わないといけない、ついでに発声器官の試用も必要であろう、群居性であるが故に自らの存在を周りの固体に知らせなくてはいけない。しかもいったん始めたその呼吸はそう簡単に止めるわけにも行かないのである。無事に出てきたら今後の栄養補給は原則経口摂取と言うことになる。これまた使ったこと無い消化器官を使っての栄養補給を実現しなくてはいけない。

人間は他の哺乳類に比べて非常に未成熟な常態で生まれ出る。それでもナントカ生き続け成長していかなくてはならないのである、この所謂新生児から乳児くらいまでの自覚は「常態」と「非、常態」であり、この頃、「非、常態」を感知すると、自分で問題解決する能力もまだ無く、方法も知るよしも無いのだから「泣く」と言う唯一可能なアウトプットを試用するしか無い。

しばらくすると「笑うこと」を多分学習する、この頃になってポジティブ、常態、ネガティブの3っつの状態表現を身につける。生まれ出てから赤ちゃんが受け取る刺激や情報の量は膨大な物である。見ることによって視覚野は成長し、聞くことによって聴覚は成長する、重力によって骨格や筋肉も成長する、そして言葉を学習する、これは机上で学習するのでは無くて五感と連動した、脳にとっては非常にダイナミックな学習と言えるだろうと思う。思考に最低限必要な言語を習得した時点で感覚や経験を同時並行的に言語化して能動的に再入力するようになる。恐らくはコレが可能になった時点で「物心がついた」事になるのでは無かろうか?

で、もう一度考えるのだけれども言語による思考を伴わない自我とは、果たしてどういった物なのか?そう考えて行くとその延長線上に読書や、(言語により思考する自我を持った群居性の生体である以上、)学校教育も重要であるように思われてならない(ただしそのシステムは良質で無ければならないとも思う。)勿論運動や娯楽も同様重要であろう、

そういう風に考えてみると、あくまで理想的には、人間というのは恐らくは元から人間と言うのでは無く、生きるにつれてより人間になっていく類いの者なのではないか?と、言う風に思えてならない。まぁ、勿論理想の通りには行かないこともあるだろうけれども・・・、

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