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2020年12月26日02:26

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12月26日の日記

今日の出来事:1614年−大坂冬の陣:鴫野の戦い、今福の戦い、1634年−鍵屋の辻の決闘、1854年−安政大地震「寅の大変」:豊予海峡地震

今日は、大坂冬の陣:鴫野の戦い、今福の戦いです。大坂城東北、大和川の北岸に今福村、南岸に鴫野村がありました。この地域は低湿地帯になっており、軍隊が展開できるのは堤防上のみで、まわりは田圃という地形でした。徳川家康は今福村に付け城を築くため、今福・鴫野の両柵の奪取を命じました。
鴫野の戦い:豊臣方は鴫野村に三重に柵を設置し、井上頼次に兵2000で守備させていました。鴫野へは上杉景勝勢5000、後詰として堀尾忠晴、丹羽長重、榊原康勝が向かいました。12月26日早朝、上杉勢が鴫野の柵を攻撃しました。上杉麾下の安田能元、須田長義らにより柵は占拠され、井上頼次は討死しました。豊臣軍は大野治長ら12000が来援し、反撃に転じました。上杉勢一番手は第一の柵まで後退し、二番手の水原親憲らが崩れかかりそうになるところを、水原親憲が大声で左右に退くように指示しました。そして、その後を追いかけてきた豊臣軍に鉄砲隊の一斉射撃を加えました。そこへ安田能元隊が槍を入れ、豊臣軍を撃退しました。鴫野占拠後、徳川家康の命により上杉景勝に堀尾忠晴と交替して兵を休ませるよう伝えましたが、上杉景勝は「弓箭の家に生まれ先陣を争い、今朝より身を粉にして奪い取った持ち口を、上意とは言え他人に任せることはできない」といって拒否しました。
今福の戦い:豊臣方は今福村に三カ所の堀切と四重の柵を設置し、矢野正倫と飯田家貞にそれぞれ兵300で守備させていました。今福へは佐竹義宣指揮下の兵1500を送りました。12月26日夜明け、佐竹勢が今福を攻撃しました。佐竹麾下の渋江政光、戸村義国らにより第四柵まで占拠され、矢野正倫と飯田家貞は討死しました。豊臣軍は木村重成が来援し、反撃に転じたため佐竹勢はやや後退しましたが、その後は膠着状態になりました。その様子を大坂城天守から見ていた豊臣秀頼は、後藤又兵衛に救援を命じました。後藤又兵衛が駆けつけて木村重成を支援しながら突撃を指揮し、佐竹勢を押し戻しました。渋江政光は第一柵で防戦していましたが、木村重成の指示で狙撃されて討死したため、佐竹勢先鋒隊が潰走しました。佐竹義宣は大和川対岸にいた上杉勢に救援を求めました。それを受けた上杉景勝、堀尾忠晴、榊原康勝の軍勢が大和川の中州まで出て銃撃を加えたため、豊臣軍は撤退しました。この戦いで将軍・徳川秀忠から、佐竹家中の5名に感状と褒美が与えられました。

次に、鍵屋の辻の決闘です。鍵屋の辻の決闘は、1634年12月26日に渡辺数馬と荒木又右衛門が、渡辺数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件です。「伊賀越の仇討ち」とも言います。「曾我兄弟の仇討ち」と「赤穂浪士の討ち入り」に並ぶ「日本三大仇討ち」の一つです。1630年、岡山藩主・池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫に藩士・河合又五郎が横恋慕して関係を迫りますが、拒絶されたため河合又五郎は逆上して渡辺源太夫を殺害してしまいました。河合又五郎は脱藩して江戸へ逐電、旗本の安藤次右衛門正珍にかくまわれました。激怒した池田忠雄は幕府に河合又五郎の引渡しを要求しますが、安藤次右衛門は旗本仲間と結集してこれを拒否し、外様大名と旗本の面子をかけた争いに発展してしまいました。1632年、池田忠雄が疱瘡のため急死しました。よほど無念だったのか、死に臨んで河合又五郎を討つよう遺言しました。子・光仲が家督を継ぎ、池田家は因幡国鳥取へ国替えとなりました。幕府は、喧嘩両成敗として事件の幕引きをねらい、旗本たちの謹慎と河合又五郎の江戸追放を決定しました。しかし、源太夫の兄・渡辺数馬は仇討ちをせざるをえない立場に追い込まれました。戦国時代よりの仇討ちの習いとして兄が弟の、父祖が子孫の、主君が配下の仇を討つことは異例な事でしたが、主君・池田忠雄の遺言による上意討ちの内意を含んでいました。渡辺数馬は国替えに従わず、仇討ちのために脱藩しました。剣術が未熟な渡辺数馬は姉婿の郡山藩剣術指南役・荒木又右衛門に助太刀を依頼しました。渡辺数馬と荒木又右衛門は河合又五郎の行方を捜し回り、1634年12月に河合又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏している事を突き止めました。河合又五郎は危険を察し、再び江戸へ逃れようとしました。渡辺数馬と荒木又右衛門は河合又五郎が伊賀路を通り、江戸へ向かう事を知り、道中の鍵屋の辻で待ち伏せする事にしました。河合又五郎の一行は、又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南役・河合甚左衛門、妹婿で槍の名人・桜井半兵衛などが護衛に付き、総勢11人でした。待ち伏せ側は渡辺数馬と荒木又右衛門、門弟・岩本孫右衛門、川合武右衛門の4人でした。12月26日早朝、待ち伏せを知らずに鍵屋の辻を通行する河合又五郎一行に渡辺数馬、荒木又右衛門らが切り込み、決闘が始まりました。岩本孫右衛門と川合武右衛門が馬上の桜井半兵衛と槍持ちに斬りつけ、桜井半兵衛に槍が渡らないようにしました。荒木又右衛門は馬上の河合甚左衛門の足を斬り、落馬したところを切り伏せました。次いで、荒木又右衛門は岩本孫右衛門と川合武右衛門が相手をしていた桜井半兵衛を打ち倒しました。この時、川合武右衛門が斬られて命を落としました。頼みとしていた河合甚左衛門、桜井半兵衛が討ち取られた事で、河合又五郎側の多くは戦意を喪失し、逃げ出してしまいました。 逃げ遅れた河合又五郎は渡辺数馬、荒木又右衛門らに取り囲まれました。河合又五郎を倒すのは渡辺数馬の役目でした。この二人は剣術に慣れておらず、延々5時間も斬り合い、やっと渡辺数馬が河合又五郎に傷を負わせたところで、荒木又右衛門が止めを刺しました。 また、決闘地の領主である津藩・藤堂家が河合又五郎一行の情報を提供したり、兵を密かに配置して決闘が始まると周囲を封鎖して河合又五郎の逃走を阻止するなど、渡辺数馬、荒木又右衛門らを支援しました。支援の理由はこの事件を外様大名と直参旗本との争いとみなしたためでした。見事本懐を遂げた渡辺数馬と荒木又右衛門は世間の耳目を集めました。特に、実質仇討ちを主導した荒木又右衛門は賞賛を浴びました。渡辺数馬と荒木又右衛門、岩本孫右衛門は伊賀上野の藤堂家に4年間も預けられました。この間、荒木又右衛門を鳥取藩が引き取るか、旧主の郡山藩が引き取るかで紛糾しました。結局、3人は鳥取藩が引き取る事になりました。1638年、3人は鳥取に到着しましたが、その17日後に鳥取藩は荒木又右衛門の死去を公表しました。荒木又右衛門の死があまりに突然なため、毒殺説、生存隠匿説など様々な憶測がなされました。

最後に、安政大地震「寅の大変」:豊予海峡地震です。豊予海峡地震は、1854年12月26日8時〜9時頃に豊予海峡を震源として発生した地震です。震源地は現在の九州の大分県と四国の愛媛県との間にある豊予海峡のやや大分県寄りで、マグニチュードは7.4と推定されています。安芸灘から伊予灘を経て、豊後水道に至る領域を震源とするプレート内地震の一つです。この地震の直前に、12月23日の「安政東海地震(M8.4)」、12月24日の「安政南海地震(M8.4)」と巨大地震が相次いで発生し、これらの地震の余震として発生しました。この地震は「安政南海地震」の約40時間後に発生し、豊前では「安政南海地震」より強く感じられました。2日前に発生した「安政南海地震」と被害地域が重なるため、いずれの地震による被害か区別が困難ですが、豊後国鶴崎で100棟の家屋が倒壊したほか、伊予国大洲・吉田、豊前国小倉でも家屋倒壊の被害がありました。「安政南海地震」の死者1万の中には、この地震による死者も含まれています。

今日の誕生日:菊池寛、毛沢東、藤沢周平、児玉清、音無美紀子、原田美枝子、仁村徹、堤大二郎、石野卓球(電気グルーヴ)、エスパー伊東、ジェロム・レ・バンナ、中江有里、松中信彦、菅山かおる、緒沢凛、田畑智子、小栗旬、藤澤恵麻、高橋優、RiRiKA、城田優、森田彩華(元美少女クラブ31)、佐藤かよ、松井愛莉(元さくら学院)、小栗有以(AKB48)

今日の記念日:プロ野球誕生の日、ジャイアンツの日

今日の「今日訓」:1934年12月26日に、アメリカのプロ野球との対戦のため、現在のプロ野球リーグとして最古のプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(後の読売ジャイアンツ)が創立されました。これにより、「プロ野球誕生の日」、「ジャイアンツの日」となりました。
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