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2020年12月18日19:02

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●インパール作戦は失敗だった

●インパール作戦は失敗だった
●インパール作戦とパル判事  転載 2011年02月14日09:57全体に公開
インパール作戦とパル判事
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1164.html
https://youtu.be/5z9mEsz4Le0   2017/11/23
川幅600メートルにも及ぶ大河と2000メートル級の山々が連なるインドとミャンマーの国境地帯。今から73年前、日本軍はこの国境地帯を越えインドにあったイギリス軍の拠点「インパール」の攻略を目指した。しかし、誰一人としてその地を踏むことが出来ず3万とも言われる将兵が命を落とした。歴史的敗北を喫した戦場で何があったのか。新資料と新証言でその全貌に迫る。
白骨街道というのは、ご存じのとおり、インパール作戦における退却路です。
インパール作戦で敗退した日本軍は、退却戦に入っても飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受けながら、退路地を退いて行きました。
飢えて衰弱した体でマラリヤや赤痢に罹患し、負傷して痛む体を引きずって、この道を約7万の日本陸軍の兵士たちが退却した。
そして街道で約4万人の日本兵が亡くなり、無事に帰還できた者はわずか2万名でした。
途中の退路には、日本兵の白骨死体や腐乱死体が点々と折り重なっていたところから、白骨街道の名前がつけられました。
その道筋では、亡くなって一か月経過した者は白骨となっています。
亡くなって一週間程度の屍はどす黒い汁が流れ、黒い大型のピカヒカ光る蠅が群がり、黒い大きな固まりがそこにあるように見えたそうです。
 
◆白骨街道   https://ja.wikipedia.org/wiki/ビルマの戦い#白骨街道
撤退した第31師団の最後尾を務めた宮崎繁三郎少将は、歩兵第58連隊を率い、インパール救出を目指すイギリス第33軍団の前進を巧みな戦術で遅らせ続けた。だが6月22日、ついにイギリス第4軍団と第33軍団がコヒマ・インパール道(英語版)上で握手した。
7月3日日本軍は作戦中止を正式に決定した。将兵は豪雨の中、傷つき疲れ果て、飢えと病に苦しみながら、泥濘に覆われた山道を退却していった。退却路に沿って死体が続く有様は「白骨街道」と呼ばれた。
インパール作戦は、イギリス軍側の損害17,587名に対し、日本軍は参加兵力約85,600名のうち30,000名が戦死・戦病死し、20,000名の戦病者が後送された。
インパール作戦の失敗はビルマ方面軍の戦力を決定的に低下させた。また、作戦にはインド国民軍7,000名が参加し、占領地の行政は自由インド仮政府に一任すると協定されていたが、作戦の失敗により雲散霧消した。
抗命事件を起こした佐藤は精神錯乱として扱われ軍法会議への起訴は見送られた。
ビルマ方面軍司令官河辺正三中将、参謀長中永太郎中将、第15軍司令官牟田口廉也中将らは解任され、後任にはそれぞれ木村兵太郎中将、田中新一中将、片村四八中将が任命された。
 
◆戦後70年に学ぶ   ミャンマー白骨街道のいま
https://www.yomiuri.co.jp/special/imphal/
太平洋戦争の中でも最も無謀な作戦といわれた「インパール作戦」。飢えやマラリアなどの病気で消耗した兵士たちがばたばたと倒れた退却路は「白骨街道」と呼ばれた。その1ルートで、長らく外国人の立ち入りが規制されていたミャンマー西部チン州の「ティディム道」に入った。現地では、戦後70年たった今でも旧日本兵の遺留品が数多く残され、日本に帰れない遺骨が眠っている。
 
◆ビルマの戦い〜インパール作戦 「白骨街道」と名付けられた撤退の道
https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/special/vol6.html
ビルマの戦い〜インパール作戦 「白骨街道」と名付けられた撤退の. 68年前の昭和19年3月、日本軍は3個師団を繰り出して、連合軍の反攻の中心地であるインド・マニプル州の州都インパールを攻略する作戦を開始した。前年から始まった ...
もくじ
1. ビルマ攻略戦〜拉孟・騰越での玉砕戦 第56師団の戦い
2. 密林に倒れた「最強」部隊を救出せよ 〜第18師団・敦賀第119連隊〜
3. インパール作戦開始〜コヒマまでたどり着いた高田第58連隊〜
4. 伸びきった補給線〜インパールを目指した第15師団〜
5. 英軍将兵の見た「ビルマの戦い」
 
◆インパール作戦では60キロに 白骨街道歩いた元通信兵が語る「装備」
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/614013/    2020/06/04
後に白骨街道といわれるようになった退路を古賀は負傷しながら必死に歩き続け、何とか生き延びた。
モノが語る戦争 嘉麻市碓井平和祈念館から(10)


 携帯用の天幕、鉄兜(てつかぶと)、水筒などをくくり付けた大きな布製のかばん「背嚢(はいのう)」には、兵1人の戦場での生活に必要な品々すべてが入っている。飯盒(はんごう)、飯椀(めしわん)、汁椀(しるわん)等の食器類や炊事具、乾パン、乾飯(かれいい)などの携帯用の糧食、軍足(靴下)、襦袢(じゅばん)、三角巾などの衣類、衛生用品など日常の生活用具に加え、小円匙(しょうえんぴ)(小型のシャベル)など野営地や進路を切り開くための土工器材や兵器も持ち歩く。旧日本陸軍の歩兵が標準的に用いた三八式歩兵銃は銃剣を取り付けると長さは160センチ、重さは4キロを超える。携帯する装備品一式の重量は数十キロになる。
 さらに、兵種によって野砲、高射砲などの大型の火器・弾薬、工兵の器材、通信兵の通信機器などさまざまな部隊の兵器もある。兵たちは個人の装備に加えて部隊の装備品も運ばなければならない。


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