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2020年10月25日22:22

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織田信長と天皇家の関係の実像を考えてみた。想像ですけど

皇室は、戦国武将からは見放され窮状は大河以上のものだった。

正親町天皇の即位式は金がなくて中止に、毛利元就の援助で、4年目の永禄3年(1560年)になってようやく実行出来ている。

織田信長は最初から皇室の味方をしている。

朝廷の権威を利用して、大義名分を手に入れられるからで全面的に皇室をバックアップした

正親町天皇にとっても、信長の援助を受けることは皇居は修理され、さまざまな儀式は復活し、公家社会は安定につながると踏んだ。

宣教師ルイス・フロイスが見た信長は理性と判断力に富み、迷信と神仏を一切信じない人物で反仏教の他に、「フロイス日本史」には信長は自我神格化、つまり自分を神とするという記載がある。

信長は自ら擁立した将軍、足利義昭と対立し、義昭は信長を倒すべく、密かに信長に敵対する朝倉義景、浅井長政と連携して実権を取り戻そうと画策。連携を知った信長は強大な軍事力で義昭を脅かし、それと一時和睦。信長は義昭と連携した朝倉と浅井を駆逐すべく大軍をかけて朝倉と浅井に攻めかけた。朝倉と浅井勢は一時比叡山に上り、引き篭もり、
戦況膠着をみた信長は素早く比叡山に自分に対して忠節を尽くすとともに、朝倉と浅井勢
を収容しないよう中立を求めた。

 織田信長は比叡山がその二つの条件を受け入れれば、「御分国中にこれある山門領、元の如く還付せらるべき」、つまり、昔、取られた比叡山の寺領を還すと約束した。比叡山が断ると比叡山にある寺社、建築物を「悉く焼き払はるべき」(『信長公記』巻四)と、全部焼き払ってやると言い捨てた。ところが、比叡山は信長の恫喝に怯えず、敵対することを決意した。信長は仕方なく比叡山と対峙し続けた。翌元亀二年(1572)、信長は天皇と将軍の力を借りて一時比叡山と朝倉と浅井と和睦。

比叡山は固く断ったが、ついに天皇の要求に応じた。朝倉と浅井勢も和睦により、本国に退くと、信長の条件を拒否した比叡山は織田勢に攻められ、山上の寺院、建物は全て焼き払われたが、初めて神聖なる比叡山に対抗したり攻勢を敢行したのは信長ではなく、室町幕府六代将軍足利義教である。義教は将軍になってから、ずっと比叡山と対立していた。永享七年(1435)、義教は謀略で比叡山の有力僧侶を誘い出して殺した。比叡山は激しく非難したが、ついに屈服して自ら比叡山の根本中堂を焼いて集団自殺した。比叡山は結局炎上して灰燼に帰している。

織田信長は無神論者ではなく、彼は仏教神道を尊重しながらも、中国の文化にも関心を持っていたことは明らかである。比叡山と本願寺への弾圧は仏教嫌いのためではなく、むしろ信長は、政治に干渉する宗教勢力をどうしても排除せねばならないものと考え、それを屈服させたものである。それらを自分の下に置くことができれば、必ずしも滅亡させる必要はなかった。

織田信長は大名に宛てた書状には「天下」をよく使っている。義昭と不和になった後、和
議を結んだ時も、信長はそれを「天下は再興する」とし、義昭が槇島城に篭った事を「天
下を捨て置かれた」と非難した。その「天下」は室町幕府およびその所在地である京都と
一体のものと思われるが、「天下」の概念と定義が変わらないわけではない。特に義昭と
その幕府が退京した後に京都を掌握した信長は義昭の行為を「公儀の御逆心」と責めてい
る。幕府がもはや「天下」の代名詞ではなく、ここの「天下=公儀」は幕府を超える抽象
的存在に過ぎなくなっていた。

朝廷の財政を貧乏から救い、天皇権威の再確立に尽力したのも信長であり、公家社会の回復も信長によって果たされた。従って、旧制度を破壊するというのは織田政権の目的ではなく、むしろ、朝廷を保護し、自らを朝廷の守護者として秩序を再建しようと計画しようとしていた気がする。
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