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2020年10月23日12:57

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●戦争とは平和とは何だろう

●戦争とは平和とは何だろう
★大航海時代は功罪どちらが大きいでしょうか?  2014/09/27
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12136137202
ヨーロッパにとっては世界進出の扉を開いたので功のほうが遥かに高いでしょうし、現地人にとっては人口の9割が死滅しているので、罪のほうが高いでしょう。
殺した数はナチスよりも多く、奪った財貨は王室をいくつ潰しても足りません。
世界稀に見るジェノサイドでしょう。
しかしこれでヨーロッパ文化は世界に広まり、影響力は世界一となりました。
ヨーロッパが新大陸で虐殺をしなければ、アメリカもカナダも無く、ヨーロッパはイスラム圏に押されたままの田舎国家のままで、後の科学発展や戦争で得られる技術も今より低かったかもしれません。
これを人類の功と見るか、罪と見るかは人や立場によるでしょう。

★大航海時代 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/大航海時代
大航海時代(だいこうかいじだい)とは、ヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代。15世紀半ばから17世紀半ばまで続き、主にポルトガルとスペインにより行われた。
★定義    https://ja.wikipedia.org/wiki/大航海時代#定義
「大航海時代」の名称は、1963年岩波書店にて「大航海時代叢書」を企画していた際、それまでの「地理上の発見」、「大発見時代」(Age of Discovery / Age of Exploration)といったヨーロッパ人の立場からの見方による名称に対し、新しい視角を持ちたいとの希求から、増田義郎により命名された。増田は、大航海時代の時間的範囲について、議論があると前置きした上で、具体的な始まりと終わりの年を提案している。増田によれば、大航海時代の始まりは、1415年におけるポルトガルのセウタ攻略。終わりの年は、三十年戦争が終結し、ロシア人の探検家セミョン・デジニョフがチュクチ半島のデジニョフ岬に到達した1648年である。

★大航海時代 - 世界史の窓
https://www.y-history.net/appendix/wh0901-001.html
15〜17c、ヨーロッパ人によるインド航路や新大陸到達などによって、世界の一体化が進んだ時代。ポルトガルとスペインが先鞭を付け、当時形成されつつあったヨーロッパの主権国家、オランダ、イギリス、フランスが続いて海外進出を進めた。背景には香辛料貿易の利益の拡大を求める北イタリア商人の商業活動、同時期に展開されたルネサンスによる新たな知識・技術の獲得、宗教改革によって窮地に立たされたカトリック教会の布教願望などがあった。このヨーロッパ勢力による大航海の展開はアフリカ、アジア、南北アメリカ新大陸への進出の始まりであり、それらの地域にも大きな変動をもたらし、中世から近代への移行期(現在の時代区分では「近世」と捉えられている)となった世界史的な動きであった。

★大航海時代の幕開けと、冒険者たちのイベリア船 (1420年頃〜1600年頃)
https://suichukoukogaku.com/iberian-ships/
ここからいよいよ「大航海時代」の船について紹介していきたいと思います。前半は大航海時代を開いた国「ポルトガル」について、このヨーロッパ最西端の小国がどの様に世界の海へ乗り出していったのか、その歴史的背景をまとめていきます。
後半は大航海時代の船にみれらる11の特徴を紹介していきます。この大航海時代初期にその覇者となったポルトガルとスペイン、この2つの国がヨーロッパ最西部のイベリア半島にあり、大航海時代前半から中盤にかけて(15世紀中盤〜16世紀末)とても似た造船技術を擁していたため、この大航海時代に活躍したこの2つの国の船をまとめて私たち船舶考古学者達は「イベリア船(Iberian Ships)」と呼んでいます。

★南蛮人が大いに利用した「武勇の民」日本人奴隷の戦闘力  2019/04/27
https://ironna.jp/article/12468
渡邊大門(歴史学者)
 前回述べたように、多くの日本人は多くが東南アジア各地またはポルトガルに送り込まれ、さまざまな形で労働を強いられた。天正遣欧少年使節の面々は、ヨーロッパの人々が親切であるとか、日本人奴隷がキリスト教の教えを受けることをもって、自らを納得させていた感がある。
 ところで、日本人奴隷たちの実態は、どのようなものだったのだろうか。以下、歴史学者、岡本良知氏の研究によって、確認することにしよう。1551年11月、ポルトガル人司教のカルネイロは、マカオから書状を送った。次に、岡本氏の『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』からその内容を掲出する。
 当地方(マカオ方面)に来るポルトガル人は、皆真理を忘却している。その理由の一つは、商売の欲望である。もう一つは、日本から来たポルトガル人が女奴隷のために罪に陥っていることだ。

★「日本人奴隷は神の恩寵」秀吉の逆鱗に触れたイエズス会の解釈
https://ironna.jp/article/11884  2019/02/09
 前回、豊臣秀吉がいかにして、人身売買の対策を講じたのかを確認した。今回は、世界的な規模に達した奴隷貿易と日本との関係について触れておこう。
 最初に、キリスト教の布教について説明しておく。船による長距離の移動が可能になり、ヨーロッパの人々がアジアに行き来することも可能になった。これが大航海時代である。商人たちが貿易のために各国を訪れ、同時にキリスト教の海外での布教も積極的に行われた。その中心的な役割を果たしたのが、イエズス会である。
 1534年、スペインの修道士、イグナティウス・デ・ロヨラら6人は、パリのモンマルトルで宗教改革に対抗しイエズス会を結成した。彼らは清貧・貞潔・服従を誓約し、イエズス会がイエス・キリストの伴侶として神のために働く聖なる軍団となることを目標とした。

★クリストファー・コロンブス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/クリストファー・コロンブス
クリストファー・コロンブス(伊: Cristoforo Colombo、羅: Christophorus Columbus、西: Cristóbal Colón、葡: Cristóvão Colombo、英: Christopher Columbus、1451年ごろ - 1506年5月20日)
は探検家・航海者・ コンキスタドール、奴隷商人。
定説ではイタリアのジェノヴァ出身。
ランス・オ・メドーが発見されるまでは大航海時代においてキリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達したとされていた。
★ジェノヴァ時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/クリストファー・コロンブス#ジェノヴァ時代
★生誕
コロンブスは、1451年8月25日から10月末までの間に、ジェノヴァもしくはその近郊で生まれたという説が主流であっが、これについては史料として裏付けとなる根拠がなく、異説も多いため、はっきりした事実は判明していない。
通説(ジェノヴァ説)では、毛織物職人一家で育った父ドメニコ・コロンボと母スサナ・フォンタナローサの間にはクリストファーを含み7人の子がいたが、上の2人の子は若くして死亡したと考えられ、何の記録も残っていない。弟は1 - 2歳下にバルトロメと17歳下にジャコモ(のちにディエゴと呼ばれる)、妹は2人いたが記録に残るのはピアンチネータだけである。
父は毛織物業を自営していたが一家は決して裕福ではなく、ワインやチーズの売買も行っていた。
★西廻り航海の着想
https://ja.wikipedia.org/wiki/クリストファー・コロンブス#西廻り航海の着想
トスカネッリはマルコ・ポーロの考えを取り入れ、大西洋を挟んだヨーロッパとアジアの距離はプトレマイオスの試算よりもずっと短いと主張していた。『東方見聞録』にある黄金の国・ジパングに惹かれていたコロンブスはここに西廻りでアジアに向かう計画に現実性を見出した。
また、現存する最古の地球儀を作ったマルティン・ベハイムとも交流を持ち意見を交換した説もある。
これらの収集情報や考察を経てコロンブスは西廻り航海が可能だとする5つの理論根拠を構築した。
ラス・カサス『インディアス史』(第5章)に記載されたその内容は、
1.地球は球体であり、西に進めば東端にたどりつく。
2.地球の未知の部分はアジア東端からベルデ岬諸島以西だけになった。
3.2世紀のギリシア人地理学者のマリヌス(en)はヨーロッパからアジアまでは地球の15/24に当たるという。したがって未知の領域は9/24=約1/3となる。
4.マリヌスが認識していたアジアは(当時認識されていたという意味で)現在のアジア東端までに比べれば狭い。したがって未知の領域はさらに狭くなる。
5.9世紀のイスラム人天文学者アルフラガヌスは経度1度=約56.6マイルと計算した。
 したがって未知の領域は56.6×360/3=約6,800マイル。
 しかもこれは赤道上であり北寄航路ならば距離はさらに縮まる。
この考えの根底にはアリストテレスの地理観を引き継いだ中世キリスト教の普遍史観から、世界はヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸で成り立っていたという概念がある。
地球の大きさについても、北緯28度におけるカナリア諸島から日本までを実際の10,600海里に対しコロンブスは2,400海里と、非常に小さく見積もっていた。

★極東国際軍事裁判   https://ja.wikipedia.org/wiki/極東国際軍事裁判
極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、英語: The International Military Tribunal for the Far East)とは、第二次世界大戦で日本が降伏した後の1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた、連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の軍事裁判のことである。東京裁判(とうきょうさいばん)とも称される。

極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the Far East)は東京裁判(とうきょうさいばん)ともいい、第二次世界大戦で日本が降伏した後、連合国が戦争犯罪人として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の裁判。


7人の絞首刑(死刑)判決を受けたものへの刑の執行は、12月23日午前0時1分30秒より行われ、同35分に終了した。この日は当時皇太子だった継宮の誕生日(現天皇誕生日)であったので、見せしめのためとの意見もある。

ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、アメリカ軍の将軍(元帥)で、GHQ最高司令官であり、名誉勲章の受章者である。

占領下の日本ではGHQ / SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。
また、東條英機が横浜の野戦病院(現・横浜市立大鳥小学校)に入院している際に彼の見舞いに訪れ、東條は重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという。

引退後の1951年5月3日、上院軍事外交共同委員会で「これらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼ら(日本政府・軍部)は恐れてゐました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたのです」
と証言した。
東条英機ら被告は国内法・国際法に違反したわけではない)
東條は東京裁判をとおして「自己弁護」は行わず、この戦争は「侵略戦争」ではなく「自衛戦争」であり国際法には違反しないと「国家弁護」を貫いたが、「敗戦の責任」は負うと宣誓口述書で明言した。


この様に戦争当事者の両責任者が言って居る。
この戦争は侵略戦争ではなかった。


昭和二十六年にサンフランシスコ講和条約締結
翌二十七年施行される
社会党 堤
改進党 山下
当時の反体制派のメンバーが戦場で習慣されている兵隊を収監させようという運動が始まった。
当時の日本国民七千万の内 赤ちゃんなどを覗いた四千名万の署名が集った。
こんな数字は驚異的なモノ。
日本政府は連合国に釈放の要請をした。
これにより総て返されることになった。
超党派で戦犯など亡くなられた方を法務死扱いとすることが決議された。


法務死(ほうむし)とは戦犯裁判による刑死者や収監中死亡者を指す用語。公文書用語であるとする説が多いが、政府が実際にこの用語を使用しているのかどうか、はっきりした根拠がない。

日本政府は戦犯処刑者も公務死と認定して恩給なども支給している。


村山首相が閣議決定で戦後五十年の謝罪決議をした。
折角 超党派で戦犯は法務死としたことも付け加えるべきである。
今の日本はこんな方々の行為が有って平和もある。

今 米国に変り中国がレアメタルという新しい資源でこの日本に侵略している。
自分達の使っているゲーム機 携帯 テレビ 色んなモノに使われている。

これを読んで今回の戦争を通じて平和とは何か。
携帯やゲーム機を触る手を休めて一度考えて欲しい。

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いま私たちは、ほんの少しの真実しか知らない・・・
  コメント
日本国民の一人として考える、宇宙人としては到底考えられない。
何故なら「鳩」にはなれない。


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