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2020年10月14日09:12

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『はちどり』(キム・ボラ)・・・漢文の先生のウーロン茶と歌のこと

この映画はいろいろいい場面やいい映像ーショットやクローズアップがあり、人によってはそれを分析したり褒めたりするかもしれない。それもこの映画を見た者の予想できる反応であるだろう。しかし、私は家族をめぐる、友人や恋人をめぐるあれこれの逸話をすっ飛ばして、ただひとりの「漢文の先生」のことを書きたい。

漢文の塾は友達といくから楽しいのであって、そうでなければつまらなかった。しかしあるときたばこを吸う女性の先生に代わる。この人は名門のソウル大学に在籍をしているが休学中で何か悩みがありそうな顔をしている。弱ったなあという顔をしている。またあることに絶望しているのもわかる。同時に何かがそれをくぐり抜けたせいか鍛えられているのも感じる。そしてまた何よりも人がよく見える目を持っているのを感じる。

事実主人公の中2の女生徒の悲しみに寄り添う姿勢をいくつも見せる。また諭す場面もあるし、何も言わないが一緒にいてあげるというようなありかたを示す。そのなかで私が一番やられたのが、何も言わず一緒に温かいウーロン茶を飲むという場面。これが何回か繰り返される。教えられたというわけではないが、もし自分が人の悩みを聞く立場にたったら、黙って聞くのはやめようと思った。悩みを聞く前に、特に深刻であればあるほど、そのときの場面や相手をみて「まずお茶に行こう」「では飲みに行こう」と呼びかけるべきだと思った。

映画からこういった人の生き方を学ぶものではないと思うが、人の所作や行動を撮ることで映画が成立している芸術とするなら、言葉はなくてもそこに映し出されている映像的な現実がまぎれもなく語ってくる生き方のかたちは、人をゆさぶってくる。ああ、そういうふうにこの人はこの人に接するのかと。漢文を教えるどころか、だまって温かいウーロン茶を飲ませる、ただそれだけの行動に相手を思う気持ちがにじむ。そして、仲違いしたふたりが一緒にきたときに、この漢文の女性教師はけっして上手ではない歌を歌う。ただそれだけのことが、ふたりを変える。

観客も「温かいウーロン茶をふるまう」ことと先生の「歌」を聞くことで、自分のなかで変わっていくものを感じる。この先生にこれまで何があったかを告白する前に、この映画はある事情があって終わることになるが、それは聞く必要がないいくらいに、この映画は先生の二つの所作とそしてもう一つ加えるなら、ふたりの歩く道の途中にあった住民の抵抗の垂れ幕にも通じるものだろうが、「暴力に慣れるな、抵抗せよ」という病院での言葉がすべてを語っているように思えた。

主人公もさることながら、この漢文の先生を忘れてはいけないという意味で、もう一度二度はこの映画がDVDにでもなったら見直すだろうと思う。
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