「おいしい浮世絵展」
https://oishii-ukiyoe.jp/
7月23日、朝一の回は一番沢山チケットが売れてるので少し早めに行った為、順番は6人目でした。
案の定、皆音声ガイドや説明書き読むのに必死で入場直後の場所に集中して溜まってしまうので、予備知識があり作品だけ観る私はそうした人達を後目にどんどん誰も居ない中を前進します。
私が作品を観るスタイルはまず引き下がった位置から全体を眺め、続いて接近して細部に描かれてるものや技術を詳細に観察します。
掛け軸は皆絵が描かれた本紙しか見ませんが、風帯や柱も全体を構成する一部なので観察を怠ってはいけません。
入った直後、奥へとサッサと行ってしまった男性が居たので何かと思ったら、最後の作品から逆に辿ってると判明。でもそれでは戻った1/3の辺りで先頭グループに遭遇してしまうデメリットがあるのでは・・・。
撮影可ポイント
こうした屋台は、元々は天秤の両側に岡持ちというスタイルから進化したもので、まだ車輪付きカウンター方式へとは至っていませんし、小回りが利くので車両式とは一長一短で共存してました。
勿論、移動する際は天秤を担ぐ要領で持ち上げます。
誰も居ないうちに撮影。
勿論レプリカです。
この20分後に終点から戻ってみると、案の定人だかりに成ってました。
背景の壁の前で絵に背を向け何するでもなく動かないオバチャンに対し、スマホで撮影しようとしている人達のイライラが伝わってきて超怖いです。
書籍やTVで知ってる作品も、生で見るとまた印象が変わって見えるのはいつもの事
醤油番付ではヤマキが大関、キッコーマンが関脇で、昔から有名銘柄だったと分かります(当時の相撲はまだ横綱は無い)
六本木ヒルズから北北西方向。
画面左手に青山墓地、その向こうに新宿高層ビル街。
↓
ミュージアムカフェのメニューは再現料理(風)で。
握り鮨は今の3倍くらいの大きさ。
東方向。
右手手前の廃墟風は岩崎小弥太旧居跡。
ミュージアムショップで「新版御府内流行名物案内双六」が売ってて、これが「江戸自慢 酒肆双六」だったらアブナイと思いました
ミュージアムカフェの「豆腐小僧パフェ」と「白玉」。
白玉は「ひゃっこい、ひゃっこい」と言いながら食べるのです
赤い部分は紅で色が付いているだけで、味食感は白い普通の部分と変わりません。
見た目が違うだけで味は一つなのは伝統和菓子の特徴ですね。
江戸時代に砂糖が普及すると、水売りが夏のデザートとして砂糖水に漬けた白玉も売るように成り、競争相手と差別化して客の購買意欲を得る為に全体とか部分的に紅く着色するのが流行ったそうです。
エレベーターを下り出口ゲートを出ると、正面のお店のウインドウにソフビ人形用の「電鋳」と呼ばれる型が飾ってあって驚きました。
少し前までは製造現場の物は「汚らしい」と蔑まれれいたのに、今はこれ自体がアートですよ
職人が型の上の穴から溶けたビニールを適量注入し、型をグルグルとランダムに回すと全体が均等な厚さの中空部品が出来ます。
同じ事を初心者がやると、入れ過ぎで重く成ってしまったり、寄って変形したり、穴が開いたりと大変なので、その場合は一旦全体に溶けたビニールで一杯にして、型に触れた部分が冷えて固まるところでまだ固まって無い中身を捨てると中空の部品が完成します。
おいしい浮世絵展で歌川広重の東海道五拾三次の中でも私の一番好きな「鞠子の茶屋」を見てしまったので、現存しているそのお店に居ても立ってもおられず8月8日に始発で出かけてしまいました
東海道本線安倍川駅から1kmほど歩くと旧東海道が北東から来て西に向きを変える大曲に遭遇します。
かつては鞠子宿まで松並木だったそうですが、今は松より茶運び飛び出し小僧の方に目が行ってしまします。
古道ではここより海側(南側)に街道が通っていたので、道の付け替えが何度か行われた結果複雑なコースが出来たと思われ、所謂枡形等の道づくりとは無関係と私は考えます。
さらに500mほど西進すると一里塚の碑が。
真新しく見えますが、大正十四年と刻まれてました。
さらに200mほど進むと鞠子宿に到着、見付のクランク跡から突然道が細くなります。
味わい深い住宅が点々とあり中々前に進めません。
真新しい住宅でも屋号が掲げられてるのも鞠子宿地域の特徴。
水上神社が見えてきました。
鳥居の階段を上ると、丸子川の堤防土手でした。
「しらい酒店」は朝早くから営業しており、観光案内所を兼ねています。
赤い車に隠れてしまいましたが、脇本陣跡に明治天皇御小休所址碑(昭和九年)があります。
問屋場跡を過ぎると本陣跡碑が。
そしてもう一つの脇本陣跡にも明治天皇御小休所址碑があり。
「まりこ美容室」も味わい深く。
お七里役所跡まで来ると鞠子宿の終点が見えてきます。
突き当りが京都側のクランク&西見付跡です。
が、売り物件の長屋発見
思わず街道を外れて路地を進んでしまう。
このままだと現在の国道1号線に出てしまうので、我に返って引き返します
空き家なので狂ったように細部写真を撮ってしまう。
見付跡には十返舎一九などの石碑が集められてます。
東見付から西見付までは500mくらいです。
駿府城用に切り出された通称「辰石」。
鏨の跡が残っています。
無残な状態の支那事変戦没者慰霊碑(1939年)。
勿論、観光案内等ではその存在は無視されています。
鞠子の茶屋こと「丁子屋」
まだ9時過ぎで、提灯横で女将が開店準備の掃除をしていたので「後で来ます」と挨拶しました。
丁子屋から左折して丸子橋を西へ渡るのが旧東海道のコースですが、ここは北東に進みます。
自然薯は名物なので、とろろ料理を出す食事処が丁子屋の他にもいくつもあります。この位置は元々街道の角を望むお寺でした。
石碑が見えますが、1764年の道標で、位置的におかしいのでお店に箔を付ける為に別の場所から持って来た可能性があります。
他に細川幽斉歌碑等、丁子屋周辺には石碑類が多く、意図的に集められたのかも知れません。
丸子川。
現在の国道1号線を歩道橋で北に越えます。
画面やや左のピークが丸子城址です
城址東側麓の観光施設「駿府匠宿」で上田毅八郎原画展+静岡プラモメーカー展をやっていたので寄り道しました。
吹き抜けに斜めに展示された大名行列が斬新。
https://www.sunpurakuichi.co.jp/takumi/archives/3120
まだ10時前ですが、観光施設なので朝早くからやっているのです。
木製模型メーカー、ウッディジョー社の鞠子の茶屋。
メーカーの他に、青木周太郎氏のジオラマも展示されてました。
「たばこのみあるき厳禁」の看板がある場所から城址に登る「丸子の里自然歩道」を行きます。
画面真ん中から右下にかけて谷筋を甲斐から続く古道「歓昌院坂」があり、登り口まで来た道で東海道に連結しています。
元々の大手道を城へと東側から登り始めたばかりですが、この日は気温38度の予報で早くも死にそうで引き返したくて仕方がありません。
林業用モノレールが見えますが脳が沸いていて全然興奮しません
中腹の「丸子稲荷」に到着。
ここから先がいよいよ丸子城の縄張りです。
さらに登って土橋を超え・・・
七郭の土塁も見えます。
六郭、五郭と進みますが、南(東海道)側は結構急峻です。
一方、北側は勾配が緩く横堀が見えますが、水平の郭を防御の為に土塁強化したようにも見えます。
南斜面寄りでふり向いたところ。
さらに西に進みます。
四郭下に張り出した防御構造が見えます。
いや、凄いですよこの山城。猛暑と興奮で脳が完全に沸騰しています。
竪堀も多数ありますが、城が最初に築かれた当初の古い防御構造に思えます。
基準点も多数設けられてました。
段差を上がると獣目線を味わえます。
三郭へ。
二郭と一郭の間の堀切。
各堀切は竪堀の延長構造なのが特徴で、城が出来た当初は優れた防護構造でしたが、情勢が変わると弱点と変わったと思われます。
南側は低い土橋ですが、これは後世の散策道として付け加えられた印象です。
北側は本来の土橋のようです。
城が元々作られた頃、東西で戦争をしていた頃は東西尾根伝いの戦闘が想定されたので竪堀+堀切は有効だった筈です。
一方、南北の争いと成ると、竪堀を伝った敵勢は堀切を通路として城を突破してしまう事に成りかねません。
なので堀切は跳ね上げ木橋ではなく北側を土橋で埋めて防壁兼通路とした一石二鳥の改装と考えるのが自然ではないでしょうか。
一郭の北東端から南方向を望む。
こちらは西から東方向。
一郭はそこそこの面積があり、それなりの建造物も構えてたと思われます。
写真には木立が邪魔をして上手く写らないですが、北側にはとにかく凄い防御構造が見て取れます。
そこで疑問。
この城の防御構造の特徴からそれらを築いたのは武田氏と言われています。
でも何で自分達に向けて防御するんでしょうか?
南から北方向を守らねば成らないのは徳川であって、徳川氏が旧来の城の防御を強化したんだと考えるのが自然な気がします。
とかく「詳しい人」はただ1点の証拠のみだけを根拠に論説を展開して、それ以外の情報は眼中に無し的な傾向がどの分野でも見られますが、困ったもんだと思います
では一郭から北側に降りようとすると・・・
タイガーロープで封鎖されてます。
初夏の豪雨で土砂崩れしたのでしょうか。でもそんな風には見えません
仕方がないので南西の端にある散策路を降りる事にします。
城址南側は急斜面で、古そうな竪堀以外は特に防御構造は見えません。
たまに石が有ったりします。
城址本体と北側は海底が隆起した砂岩泥岩ですが、南斜面はアルカリ玄武岩層です。
が、所々に散見される石の色や砕け方の印象は海洋底玄武岩な感じです。
因みに鞠子宿周辺の地質は当然ながら丸子川の河川堆積物です。
もう少し降りると北側の馬出等に周れる道がありますが、やはり閉鎖されてました。
南側の郭に行くと思われる道も封鎖されてました。
どうやらハイキングコース以外に人が立ち入っては欲しくない感じです。
城址で「やらかす」人達対策でしょうか。
でもやらかすタイプの連中は入っていけない場所に入って撮影し(厳重に柵や塀等があると長い竿の先にカメラ付けて中に差し込んだり上に掲げたりする)、ネットで公開するという社会正義を行っていると妄想していますから、ロープや立ち入り禁止の札は効果が無いどころか、逆にその行動に箔を付けるんですよね。
尾根を下って行きます
かなりなだらかに成りました。
北西側の集落のTVアンテナが何本も立ってます
麓近くまで下ると植物の植生も随分変化してきます。
本来この辺りには居ない筈のナガサキアゲハが飛んでいて驚きました。
ついここ数年で北限がどんどん移動していて、昨年は遂に福島県南部でも発見されたそうです。
階段を下った最初の御屋敷は別棟の茶室とかもあって思わず覗き込んでしまいました。
この時点で11時前、丁子屋からは1200mくらい西の地点です。
南東へてくてく歩いて500mほど先の国道1号線へと。
里芋が農村を感じさせますね。
庚申塚も見逃さずに。
この辺りの国道1号は、旧道を一直線に塗り潰す感じで敷かれています。
なので旧道、旧東海道は現在の1号の両側に三日月湖のごとくブツブツに残されてる感じです。
さらに西に3kmほど行くと宇津ノ谷峠なので隧道と集落観察に行く予定だったのですが、既に熱中症ぎみで脳内には「死ぬ」の文字しか浮かばず断念しました。
国道1号線下のトンネル歩道を抜けて南側の旧東海道へ。
トンネル内には沢蟹が何匹かおわしました。
東へ向かいます。
突き当りのカラフルな建物は廃ラブホテル。
再び建物ウオッチ。
このお宅は昔ながらの別棟厠があり、全体の作りも実に味わい深いです。
丸子川の河原をカワウが飛びます。
振り向いた西方向の光景。
大木が先ほどの農家。
橋は国道1号線。
北方向。
中央のピークが丸子城址で、その左手の尾根が下って来る時に一旦道がなだらかに成った部分です。
印度総督のの住居よりは近代的なアパート。
製材所の材木台車が残念な感じです。
ひたすら歩いて丁子屋を目指しつつ、振り向くと丸子城址が見えます。
高札場(再現)
元々は西見付にありました。
11時過ぎ。
広重の時代、自然薯は秋の季節物だった為、絵の「とろろ汁」は立て看板で取り外しが効き、お店の表には茶屋としてのメニューが並びます。
今はとろろ料理専門店で、「竹」とろろ飯を注文しました。
ご飯は麦飯。自然薯のすりおろし。丸いのは「むかご(山芋の子供)揚げ」。ジャコと自然薯漬物の珍味等。
あとデザートの和菓子が付きます。
お味は何とも派手さが無い円やかな感じで、都会人が思う田舎の風味です。
この時は営業時間が昼のみで短かったせいか、開店直後から客がドッと詰めかけてる印象でした。
古い藁葺店舗は今はエントランスと博物館に成っていて、お客は増築した奥へ通されます。
会計時に女将に挨拶。主人と話をしたら「是非展示も見ていってください」と。元よりそのつもりできました。
https://chojiya.info/。
見付跡は丁子屋の増築部で、高低差付きクランク跡横は大きな駐車場になってます。
増築一階(地下階?)はお茶屋さんの支店に。
「ココノツ君、サクラ棒が売ってるわよ!!」(声:竹達彩奈)
猫がおんねん
ここから東方の徳願寺城址、狩野山砦跡、安倍川鉄橋観察も予定してましたが勿論断念。
安倍川駅に引きか返すも余りの暑さに途中で力尽きそうに。
と、オモチャ屋が。
殆ど内容的にプラモ屋です
たまたま店番をしていた私と同世代の二代目は平日は別の職に就いてるそうで、職業柄とても頭の切れそうな人物でした。
社会環境が変われば玩具やプラモメーカーも相応に市場戦略を変えるべきなのに、まぁこの業界に限った話ではありませんが、これこれこの様な方向に進むべきでは?とか話をしたら、二代目が普段商工会議とかでプレゼンしてる内容そのままですとか。
他にお客も居なく、正午過ぎまでしばらく涼ませて頂き生き返りました。
おまけ。
帰りの東海道線車内で見た防犯カメラ。
蛍光灯設備の転用なので、普通の防犯カメラの設置のように改造負担が無くて済む点がミソ。
照明部の長さが短く成ってるので、光源自体はLEDですね
おしまい。
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