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2020年10月13日11:27

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Newsweekの記事を転載します

瀬戸大也、不倫で五輪出場絶望的? 繰り返される「道徳自警団」の集団リンチで問われる日本の民度


https://www.newsweekjapan.jp/furuya/2020/10/post-1.php


<道徳違反でしかない不倫が刑事罰にも等しい制裁を伴う先進国は他にない。日本は形は先進国でも精神的には今も封建制を引きずっており、それが日本の唾棄すべき生きづらさの根源だ>

最近、この国の社会がますます全体主義的傾向を強めている風潮を感じ、慄然と肌に粟を生じるのを感じる。犯罪ではない、道徳やモラルの逸脱ひとつで社会的生命が抹殺されていく。直近の筆頭では水泳選手・瀬戸大也氏が不倫スキャンダルを報じられ、所属するANAから契約を解除された。事実上、五輪出場は絶望的となった。

瀬戸選手のような才能のあるスポーツ選手が、単に道徳的に逸脱した行為を犯したというだけで選手生命を事実上剥奪されるのは、あまりにも異常である。当たり前のことだが、道徳とは時代や国によって異なる。道徳とは何か?という問題に答えを見つけ出すことはできない。ただその都度、社会の空気感で「道徳とはこういう事である」とあやふやに決められているにすぎず、そしてその道徳観は逐次微妙に調整され、振幅しながら漸次的に変化していく。

道徳違反は犯罪ではない


道徳的価値観の逸脱がそのまま社会的制裁とイコールだったのは、洋の東西を問わず中世世界である。中世世界に於いては、道徳的逸脱がそのまま刑事罰の対象となった。概ね宗教的価値観が道徳を形成し、そこからはみ出たものは犯罪者になった。しかし、宗教的道徳心に背いたものと、人類普遍の世俗的悪である盗み、強姦、殺人等の犯人を一緒にすると社会の公正的発展に支障をきたすこととなる。中世世界では宗教的権威と世俗的権威が別々の次元で統率されており、常にこの両者の間で勢力の駆け引きがなされ、実際の行政や軍事力を世俗的権威が、道徳的規範や社会観念を宗教的権威が温存し、世俗的権威に宗教的権威が様々な「大義」を与えることで世俗の運営がなされていた。

しかしこの両者の駆け引きによる勢力圏は重層的な関係にあり、時として未整理であった。このような重層支配は恣意的で非効率であり、なにより公正ではない。そこで西欧社会は宗教と世俗を分離することとした。ごく平たく言えば、これが「近代」の誕生である。もちろん、西欧社会が近代に到達しても、古くからの宗教的因習にとらわれた道徳観は人々の心底に色濃く残ったままであった。

が、やがてこれらの関係性は整理され、宗教的権威の有する道徳観は建前として社会に残存したが、一方でその観念に反したからといって世俗社会で罰を受けるということは無くなっていった。近代法が確立され、約1世紀を経て西欧近代のこうした発想は概ね世界を席巻した。現在、日米欧を含むいわゆる「世俗国家」では、道徳違反は犯罪ではなく、世俗悪を裁く刑事罰とは完全に分離されている。要するに極端なことを言えば不道徳を幾ら極めても、法に違反しない限り国家はその個人を犯罪者として裁くことはできないのである。



日本では明治国家が西洋を範とした近代法を確立させたが、その法体系の中にはまだまだ前近代の道徳観に基づく世界観が温存されていた。家長の絶対的な権威を既定したイエ制度がそれで、近代法の中に家長の権限が明記されていた。家長は、特に家族の婚姻同意権という絶大な権力が明記されていた。これは前近代からの儒教的道徳心がそのまま法の中に反映されたものである。

だが明治国家が敗戦を迎え、GHQを主導とした民主的改革が実行されると憲法は日本国憲法に改正され、家長の権限は喪失した。このようなイエ制度の消滅によって、当時の人々が最も憂慮した問題は、「家族の崩壊」であった。家長の同意なき婚姻が横行すると、家族制度が根幹から揺らぐという懸念であった。だがその心配は杞憂であった。実際には、明治国家でも、前近代でも、家長の同意のない駆け落ちや心中が横行していたからである。

瀬戸の財産権侵害にも当たる

さて、このような人類社会の歩みを見ていくと、昨今の「道徳違反」による社会的生命の事実上の剥奪は、畢竟中世社会への退行であると言える。現在の日本の法律に、不倫を国家が刑事的に裁く条文は無い。不倫をされた側の配偶者等が民事で相手方に慰謝料を請求することができるが、これはあくまで民事事件であり犯罪ではない。よって現在の日本社会では、国家が不道徳・不倫を裁かない代わりに、社会が宗教的道徳心の代弁者となって私的制裁を加える(契約解除やCMからの降板など)という、摩訶不思議な「代理制裁」がまかり通っている。

事実上、今の日本社会で展開されている道徳違反者に対する制裁はリンチであり、実際には選手や俳優の出場や出演が停止されるのだから、財産権を侵犯しているのと同じである。財産権の侵犯という重大な権利侵害行為が、国家権力ではなく個人の私的制裁によって堂々とまかり通っているのだからこれは異常である。すでに述べた通り、西欧社会は近代化の過程で宗教的権威があたえる道徳価値観と、世俗での刑事罰を完全に分離しているので、有名人や芸能人の「不道徳」に起因するスキャンダルは、その人の社会的生命を抹殺するというレベルには到底至らない。アンジェリーナ・ジョリーがブラッド・ピットを不倫の上略奪しても国連特使を務めているし、映画出演のオファーが減ることは無い。イタリアのベルルスコーニ元首相は乱交パーティーのスキャンダルが報じられたが、それと政治家の能力は別とされた。


なぜ日本は法体系こそ西欧近代を範としているものの、道徳違反と世俗の犯罪を一緒のものとして見做し、国家権力の代理行使ともいえる私的制裁を加えるのが当たり前の社会になっているのか。それはひとえに、日本社会の民主主義的成熟度が低く、また現行憲法と近代的法体系の少なくない部分が、自らの権利闘争の結果勝ちえたものでは無く、上から与えられたものにすぎないからである。いわゆる「上からの民主化」によって、戦後日本は憲法や法体系こそ西欧と「ほぼ」遜色ない水準となったが、それは自らが獲得した果実ではないので、心底のところでは前近代からの封建的道徳心を引きずっているのである。

国家が道徳違反者に対して懲罰を実行できない代わりに、権限のない個人や社会が実質的な懲罰を代行する行為の主体を私は『道徳自警団』と名付けた。憲法の理念や法体系だけが「上から」民主化されたが、肝心の社会の構成員の多くはそれに見合ったレベルの民主的自意識を持っていない。ようするに精神的アップデートができていない。だから常に、日本社会では道徳によって事実上、社会的生命が途絶されるという異常事態が続いている。この考え方を延長していくと、実質的には単なる道徳違反である不倫が、刑事罰と同じ意味合いを持ってくる。こんな先進国を私は見たことが無い。要するに日本はインフラ的な先進国では辛うじてあるが、その精神の水準に於いては奇妙な封建制を引きずった半権威社会なのである。これが日本の唾棄されるべき生きづらさの根源である。


(転載は以上です)


大体
「普通に生活している人」にとっての生殺与奪を決めてしまうような法律の制定や
時の権力者が批判に晒されているときに

『限って』


こう言うスキャンダルだったり芸能スキャンダルだったりが
メディアで大きく取り上げられる傾向は
日本がバブル崩壊後に

「枚挙に遑がない」

くらい沢山報じられるものです


つまり 一般ピープルが こう言うスキャンダルでギャースカ騒いでいるタイミングで
本当に「とんでもない事」が ひっそりと決められていたりするのです













瀬戸大也が水連で事情聴取、13日に臨時常務理事会
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=6265349
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