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2020年10月11日22:49

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織田信長の足利義昭を奉じての上洛と明智光秀京都奉行任官

 三好三人衆はすでに阿波三好家と結んでいたが、美濃斎藤氏や六角氏とも同盟を結んだ。松永久秀と三好義継は室町幕府再興を目指す足利義昭を担ぐ勢力と連携し足利義昭を担ぐ勢力の代表は織田信長であったが、三好三人衆と同盟した斎藤竜興によって上洛を阻害されている状況だった。だが永禄10年(1567)夏に信長は斎藤氏の重臣を味方に引き入れて竜興を放逐し美濃を掌握することに成功。
永禄11年(1568)7月、織田信長は美濃国に足利義昭を招き、室町幕府再興に力を尽くすことを誓った。信長は9月に入ると三好三人衆を敵に睨み上洛戦を開始する。しかし、三好三人衆方でまともに抵抗したのは勝竜寺城に籠った石成友通と池田城の池田勝正だけであった。三人衆は実にあっさりと退散し、9月末には信長と義昭は三好政権の政庁であった芥川山城に入り、従属してきた大名たちの参賀を受けた。久秀と義継も芥川山城に出向き、義昭に従う態度を示したようである。義昭は芥川山城で新しい人事を発し、久秀には大和が、義継には河内北半国が与えられた。摂津は義昭の上洛に最も献身的であった和田惟政が管轄し、摂津国人の伊丹忠親と池田勝正に領域が保障される。義昭と信長が10月14日に京都に入ると空になった芥川山城は和田惟政が一時預かった後廃城となった。義昭と信長は三好政権の政庁であった芥川山城を象徴的に利用することで三好政権からの継承と否定を同時に行った。
義昭が京都六条の本圀寺に移り、信長は清水寺へ入る。
大所帯なので、軍規の乱れが起きないよう、治安維持に気を配っていた。
足利義昭が朝廷へ参内し、正式に征夷大将軍を任命された。室町幕府15代将軍の誕生。
出陣から約一ヶ月半であり、足利義昭が織田信長のもとへやってきてから、わずか三ヶ月というスピードだった。
 信長は自身の代わりに京を統轄する京都奉行を置いたが、この職に任じられたのが明智光秀だった。これ以後、光秀は織田家臣として飛躍的な出世を果たす事になる。
 足利義昭との大事な取次役と言うことで、織田信長が注目したのは細川藤孝だったのではないかと考えられる。細川藤孝はこの時点での官職が、幕府の兵部大輔(軍務局長?)であったからだが実際には、如何に幕府方の人間とは言え、それ以前に歴史上の露出のほとんどない明智光秀が起用されることとなった。
 明智光秀の京都組の曾祖父に当たる明智玄宣という人物は、京都の連歌界では超有名人で、光秀が細川藤孝の家臣をやっていながら、京都の政財界で厚遇されたのは、細川藤孝の身分もありますが、この曾祖父、玄宣の知名度に依るものと考えるのが妥当で偶然機会を得た光秀が織田信長と接見する内に、信長は独特の嗅覚で明智光秀の才能を見抜き、配下に入るようにくどいたのではないかと思われる。
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