石松の大恩人にして育ての親たる森の五郎は、不慮のことから人手にかかって憤死を
遂げたのであった。石松悲憤して、五郎の為に復讐せんことを誓った。次郎長また之を
援け、八方模索の結果、遂に五郎の仇人が甲府にいることを探知し、清水一党大挙して
之を甲府の長楽寺に襲い、首尾よく復讐を遂げた。
万延元年、次郎長41歳、石松は30歳の時、金毘羅代参に旅立ち、その帰途都鳥吉兵
衛一味のために非業の死を遂げる。
(村松梢風は森町飯田出身の作家であるが、略伝と書名がされてはいるが、あくまで
フィクションととらえるべきだ。)
天宮の「新屋旅館」に伝わる石松の養家説
同家は昔から石松の養家として伝えられているが、この石松は三州生まれの石松でなく
一時的に寄寓した別の人物を指すのだろう。では、誰かと言えば、森の太市あたりが、
最も相応しい。投じ、新虎には一子保蔵があったので、他に養子がいたとは考えられ
ない。ちなみに、森の太市は安政四年、石松はこの三年後の万延元年、そして新虎は
さらに三年後の文久三年に、それぞれ人手にかかって落命している。
石松は都鳥一家により殺されて、菰包みの遺骸が、村送りで吉川沿いに、生まれ故郷
の問詰へ帰ってきたときには、既にウジが沸き愛刀が一本添えられていた。遺骸は近
くの玄泉庵の墓地に葬られた。玄泉庵は廃寺となり、今は蔵雲院の過去帳に残る「
還郷隠座禅門」安政四年八月 問詰仙太郎」なる者が石松に比定せられている。
ここでは、明らかに 仙太郎=石松として伝えられていて、新たに建てられた石碑に
も「義侠遠州森の石松の墓」俗名 仙太郎 と刻まれている。
結びに
渡世人森の太市というのは、即ち問詰の仙太郎その人であり、そして仙太郎こそが
森の石松に擬せられた人物であることに思い至った。石松はいたが森の石松はいなか
った。巷間に伝えられる「森の石松」は、明治時代以降に浪曲やら講談などにより、
でっち上げられた虚像・幻影であって、実在した人物像とは異なる。が、しかし仙
太郎は、次郎長よりも7歳年長であることで、石松とは別人であることは歴然だ。
一体、石松は誰の事なのか??
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