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2020年09月24日02:29

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合法的「差別」、社会的差別、個人的差別

■「なぜ業種で差別するんですか?」 デリヘル店が「持続化給付金」もとめて国を提訴
(弁護士ドットコム - 09月23日 15:21)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=149&from=diary&id=6241913

社会規範との関係でみると、差別は3つのタイプにわけられます。
第 1 は 合 法 的「 差 別 」、 第 2 は 社 会 的 差 別 、 第 3 は 個 人 的 差 別 で す 。 合 法 的「 差 別 」と い う の は 、「 差 別 」を することが社会規範によって広範な人々に支持されているものです。これは、そもそも正しい行為とみなされて いるのですから、その社会では「差別」とは認識されていません。このタイプのものを合法的「差別」と呼んでお きましょう。
た と え ば 、「 分 を わ き ま え ろ 」と い う の は 、 近 世 身 分 制 度 の も と で 美 徳 で あ り 、 社 会 規 範 で し た 。 逆 に「 分 を わきまえない」行動や「分を越えた」行動は、逸脱した行動で非難の対象になり、厳しい制裁が加えられました。 しかし、明治以降、身分制度や身分意識の崩壊とともに、次第に「分をわきまえろ」と要求すること自体、差別であると認識されるようになりました。 今どき、「元士族」という表札を掲げていると物笑いの種になるでしょう。
明 治 4 年 の 解 放 令 を 境 に し て 、 合 法 的「 差 別 」は 社 会 的 差 別 に 転 換 し ま し た 。 社 会 的 差 別 と い う の は 、 あ る 行為を「差別だ」ととらえる社会規範がある一方で、同時に「差別とはいえない」と支持したり、黙認したりする 集団規範が存在する状態です。 社会的差別は、区分されるシンボルとして、民族的もしくは社会的出身、人種、皮膚の色、性、言語、宗 教などさまざまなものが持ち出されることになりますが、見落としてはならないのは、差異自体に意味があるので はなく、その背景には力関係におけるアンバランスがあるということです。力関係の優位な立場から、マジョリ ティは異なった取扱いをすることを正当化する論理をでっちあげてきました。 アルベール・メンミは、「人種差別とは、現実の、あるいは架空の差異に、一般的、決定的な価値づけをす ることであり、この価値づけは、告発者(引用者注:人種差別主義者)が自分の攻撃を正当化するために、被 害者を犠牲にして、自分の利益のために行うものである」と指摘しました※1。メンミの人種差別のとらえ方の特 徴は、単なる慣習ではなくて、自己の集団の利益を図るためのものだという点と、もう1つ、マジョリティとマイノリティとの間に存する差異は、現実のものであっても、あるいは架空のものであってもどちらでもいいのであっ て、差別することの後ろめたさを解消するために、自分たちとは「決定的な違い」があるのだと強調することだ と指摘している点にあります。 このように、差別をすることを正当化する人たちがいる一方で、差別の現実に憤り、「それは差別だ」と告発 する人々があらわれます。 差別を差別としてとらえるように問題提起し、差別撤廃運動や解放運動が展開され ます。 両者のどちらが多数派を獲得するのかをめぐって思想闘争がおこなわれます。 差別撤廃運動や解放運動の主張がある程度認められると、「差別をしてはいけない」という社会規範が確立 さ れ て い き ま す 。 他 方 で 、 差 別 を 正 当 化 す る 論 理 は 、 限 ら れ た 集 団 の 間 に 限 定 さ れ 、 密 か に 集 団 規 範 とし て 存続するようになります。 今日の部落問題に関していえば、住むところとして同和地区を避けるという意識や同和地区出身者との結婚 を避けるという意識は、まだ多くみられます(2010年(平成22年)人権問題に関する府民意識調査、36ページ 参照)。しかし、そのような行為を支持するような言説は、私的な場面では語られても、公的な場では語られま せん。そうした点では、地区を避ける・結婚を避けるというような行為をうながすような集団規範は存在しても、 社会規範としては存在していないといえます。 さらに、差別を支持・正当化するような集団規範さえも存在しなくなると、差別は個人レベルでのみおこなわ れるようになります。これを個人的差別ということにします。 個人的差別とは、差別を正当化する論理が誰から も支持されず、単に個人レベルの好き嫌いといった程度になったものをいいます。
ひいき たとえば、学校の先生が、クラスの特定の生徒を「かわいい」からといって贔屓することは、社会的に認められません。 学校の教師集団の間でも、あるいは、クラスの生徒の間でもサークルの部員の間でも、それは支 持されません。そういう意味では、教師が自分の好みによって生徒を贔屓することを正当化するような集団規 範は存在していません。 「人の世の中であるかぎり、差別はなくならない」と考える人がいますが、このレベルの個人的差別を考えて いるのであれば、たしかにいつまでもなくならないでしょう。しかし、社会的差別はなくすことができます。 もちろん、個人的差別だからといって是認されるべきものではありません。その人の社会的地位や影響力によって無視できないこともあります。たとえば、社長が「オレの会社だから誰を採用しようと誰からも指図は受け ない」といって、部落出身者を社員として採用しないという行為は、個人的差別としても許容されるわけではあ りません。 採用選考という行為は公的領域に属しており、単なる私的行為ではありません。 雇用者が守るべき公正採用選考というルールから逸脱しています。プライベートな時間の食事で「私は中華料理が嫌いだから、 中華レストランには行かない」というのとは違います。 また、行為の主体と客体の社会的地位の違いや力関係も考慮されなければならないでしょう。 採用選考や 雇用の場における社長の行為は、単なる個人の好みのレベルを越えて従業員全体に影響力をもちます。また、 採用される側と採用する側とでは、採用する側が圧倒的に優位な立場にいますから、平等な関係ではありませ ん。だから、個人的差別といっても、それが許されるか、許されないかは、単なる個人の趣味や好き嫌いの
レベルなのか、私的な領域にとどまるものか、あるいは、当事者同士が対等な立場にあるのかなどによって変 わってくるでしょう。 以上のことから明らかなように、わたしたちが問題にしているのは社会的差別のレベルです。 社会的差別は 一方の極を合法的「差別」とし、他の極を個人的差別とするスケールの中間にあって、差別を正当化する集団 規範の有無、強弱によって変わるグラデーションの領域です。 わたしたちは差別をめぐる価値観や思想の闘争のまっただ中にいるのです。そこでは中立の立場や傍観者の 立 場 を と る こ と は 、 本 来 的 に は で き な い で し よ う 。 わ た し た ち 一 人 ひ とり の 意 思 表 示 が 、 社 会 規 範 や 集 団 規 範 のありかたを左右しているのです。
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