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2020年09月14日04:11

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宇野弘蔵 『資本論』と社会主義 (第6章 社会主義社会における自由)

社会主義の社会の自由は、資本主義的自由の単なる発展でも、単なる「開花」でもないと僕は理解しています。
現に新しい機械が出現してわれわれの生活資料がより短時間に清算されるようになったといっても、それでわれわれの社会の大多数の人々の自由にしうる時間がふえることになるでしょうか。
資本主義は生産力を非常に増進したのですが、そしてそれが社会主義の基礎をつくることになるのですが、それをそういうふうには使っていないのです。
その点では、「自由の領域を著しく拡大した」とはいえないのです。
それは時には、アメリカについても30年代はじめの不況期のことを考えると良いと思いますが、餓死の自由とさえなる--そういう自由は拡大したかもしれないですが、そしてそれが多くの人々によって個人の自由と考えられていることの裏側なのですが、
われわれの社会生活がどうしても逃れることのできない経済原則を資本主義はそういう形の自由で処理しているのです。
ぼくもそういう自由が資本主義以前の社会に対して有する意義を認めないのでは決してありません。しかし、それがどういう代価を支払って得られたものかが理解されないと、その歴史的意味は明らかにならないでしょう。
資本主義社会の自由が、土地を失った農民、言い換えれば生産手段を持たないいわゆる無産労働者を基礎にして実現されたものであることを忘れて、われわれはその自由を考えてはならないと思っています。
それを抽象的に個人の自由とか、個性の独立とかいっていたのでは、案外個人の自由も個性の独立もその意義を見失われることになるのではないでしょうか。

宇野弘蔵 『資本論』と社会主義 (第6章 社会主義社会における自由)
こぶし書房 こぶし文庫5
岩波書店 宇野弘蔵著作集10
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