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2020年09月12日10:28

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最高の親日国 パラオ

南国に浮かぶ「第2の日本」・・・日本を憎むどころか、日本が大好きな国=中国報道
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=97&from=diary&id=6229087

パラオ語でブラジャーの事を何と言うか?「チチバンド(乳バンド)」だそうだ。
その他、「オカネ」「テッポウ」「コイビト」「ドクリツ」「レキシ」「サビシイ」「ベンジョ」「ヤスイ」「ダイジョウブ」「ベントウ」など数え切れないほど多くの日本語がパラオ語になっている。名前も「ジロー」「ユキエ」「マツタロウ」「マユミ」など日本風の方が多いとか。

パラオ ペリリュー島の激闘は硫黄島戦の前哨戦である。
守備隊を率いる中川大佐は、それまでの日本軍の伝統だった水際撃滅戦を止め、バンザイ突撃を禁じ、全島に強固な地下要塞網を構築。内陸へ敵を引き込み、徹底的な持久戦に持ち込む選択をした。結果、米上陸軍指揮官ウィリアム少将が「二、三日で落ちる」と豪語した小島を73日も護り抜き、米軍の戦死者 2336名、戦傷者 8450名、発狂による戦線離脱者者数千名という空前の大戦果を挙げたのである。

日本軍将兵は、米軍の投降勧告ビラの下手な日本語を笑いのネタにし、逆に米軍に英語の宣伝ビラを撒いた。そこにはこう記されていた。

「アメリカの勇敢な兵士諸君に告ぐ。諸君は上陸以来苦難の連続であろう。苦難に喘ぐ諸君らに、綺麗な飲料水ではなく、銃弾しか贈る事が出来ないのは大変申し訳なく思う。我々は間も無く諸君らに対して大攻勢をかけるつもりである。今からでも遅くはないので武器を捨て、白い旗かハンカチを掲げて日本軍に投降したまえ。我々は諸君らを歓迎すると共に快適にもてなすつもりである。」

米第一海兵師団の損耗率は6割を超え、あまりの惨状に師団長は心臓発作に見舞われた。遂に"戦闘継続不能=全滅判定"された事で上陸から45日目までに完全撤退。 隣のアンガウ島を攻略して一息ついていた第81師団をペリリューに投入せざるを得なくなった。
ニミッツ提督は「ペリリューの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最悪の損害比率(約4割)を甘受しなければならなかった。」と回想している。

歴史を振り返ってみよう。

大正3(1914)年に第一次世界大戦が始まると、ドイツに対して宣戦布告した日本が海軍を派遣し、パラオのドイツ守備隊を降伏させてこれを占領。パリ講和会議によって、パラオは日本の“委任統治領”になる。
日本は、この島に南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)を置き、稲作、なす、きゅうり、さとうきび、パイナップルなど野菜や果実の栽培を持ちこんでいる。

また、缶詰やビールなどの工場を建設し、道路を造り、舗装し、橋を架け、電話をひき、学校、病院をつくるなど、各種インフラの整備を行なった。
さらに日本は、パラオ全住民に対して無料で数種類の疾病に対する予防接種を受けさせている。

当時はまだパラオ語を顕すための文字が無かった。日本は、パラオに尋常小学校を建て、文字をもたないパラオの人々のために、日本語教科書を用いて、日本語教育を行っている。パラオ人は大変優秀で小学校1年生で九九を暗証出来たそうだ。
当時日本が統治していた国々からの代表選手が一堂に会して競う算数学力大会では、パラオの小学生が優勝。そしてそのことを、当時の日本人は大変喜んだ。

そして昭和16年、大東亜戦争が勃発。フィリピン奪還に燃える米軍にとって、ペリリュー島は絶対に素通り出来ない要衝の地である。
パラオの村民たちは、白人統治時代の地獄と、日本統治時代の天国を身をもって経験している。
日本兵と仲良くなり、日本の歌を一緒に歌っていたペリリュー島村民は仲間たちと話し合った。そして全員一致で、大人も子供も一緒になって日本軍と共に戦おうと決め、守備隊長である中川大佐に「自分たちも一緒に戦わせてほしい」と申し出た。

彼らの訴えを黙って聞いていた中川大佐は、一人一人の目をじっと見つめると、いきなり驚くような大声をあげた。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
烈迫の気合である。村人たちは、ただ茫然とする他なかった。驚いた、、日本人は皆仲間だと信じていたのに、・・・見せ掛けだったのか。。。。
村人たちは、日本人に裏切られた思いで、みんな悔し涙を流した。
いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきた。港に日本兵は一人も見送りに来ない。

村人たちは悄然として船に乗り込む。そして、汽笛が鳴る。船が岸辺を離れた。。。。

その時である。ペリリュー島に残る全日本兵が、浜に走り出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送った。

その瞬間、船上にあったパラオ人たちは全てを理解した。日本軍人は、我々村民を戦火に巻き込むまい、と一芝居うったのだ、と。。。
岸辺に見える日本兵に向かって、村人たちは、号泣しながら手を振り続けたそうだ。。。

昭和19年9月12日、ペリリュー島攻防戦の火ぶたが切って落とされる。
島に立てこもる日本軍10500余名。対する米軍、総員実に48740名。圧倒的劣勢にもかかわらず日本軍は上記のような信じ難い敢闘をみせる。
この中川大佐の異例の奮闘に対しては、昭和天皇より嘉賞11度、感状3度が与えられている。このため、ペリリューは「天皇の島」と呼ばれ、中川大佐は死後2階級特進し陸軍中将となった。

なお組織的戦闘終結後も生き残りの日本兵34人がゲリラとなって洞窟陣地を転々として戦い続け、昭和22年に投降している。
浦賀に帰還したペリリュー復員兵は昭和天皇のお出迎えを受け、次のお言葉を賜った。
「パラオ集団は、まことに善く統率力徹底して立派に戦闘し、復員も善く出来て満足に思う。」
中川大佐が受け取る事が出来なかった12度目のご嘉賞であった。

なお、この歴史的激戦でペリリュー島村民の死傷者は0人である。

平成27年4月8日、9日、天皇・皇后両陛下がペリリュー島に行幸啓。
ペリリュ−島戦を生き抜いた土田喜代一さん(当時95歳。平成30年逝去)は車椅子で訪問され、両陛下よりお声をかけられた。
 戦友を追悼された両陛下のお姿に、土田さんはつぶやいた。
 
「1万の英霊たちが喜ぶ姿が、はっきりと見える」

 

【両陛下パラオご訪問】
 元日本兵に「ご苦労さまでした」 戦友2人、万感の思いで立ち会い
https://www.sankei.com/life/news/150409/lif1504090022-n1.html

ペリリュー神社には下記詩文の碑がある。
敵の将軍、ニミッツ提督より贈られた一万一千余の日本兵に対する賛辞である。  
(碑の表面:英文)
 TOURISTS FROM EVERY COUNTRY
WHO VISIT THIS ISLAND SHOULD
BE TOLD HOW COURAGEOUS AND
 PATRIOTIC WERE THE JAPANESE
SOLDIERS WHO ALL DIED 
DEFENDING THIS ISLAND

  
PACIFIC FLEET COMMAND IN
 CFIEF(USA)C.W.NIMITZ  

(碑の裏面)
諸国から訪れる旅人たちよ
、この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
、そして玉砕したかを伝えられよ

 
米太平洋艦隊司令長官
 C.W.ニミッツ  

昭和56年、パラオ共和国が誕生した時、パラオの人々は日本軍ペリリュー島守備隊を讃える歌を作った。

【ペリリュー島守備隊を讃える歌】
一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
つわものたちはみな散って
ペ島はすべて墓(はか)となる

二 小さな異国のこの島を
  死んでも守ると誓いつつ
  山なす敵を迎え撃ち
  弾射ち尽くし食糧もない

三 ヘいしは桜を叫ぴつつ
  これが最期の伝えごと
  父母よ祖国よ妻や子よ
  別れの”桜"に意味深し

四 日本の”桜"は春いちど
  見事に咲いて明日は散る
  ペ島の”桜"は散り散りに
  玉砕れども勲功はとこしえに

五 今もののふの姿なく
  残りし洞窟の夢の跡
  古いペ島の習慣で
  我等勇士の霊魂守る 

六 平和と自由の尊さを
  身をこなにしてこの島に
  教えて散りし"桜花"
  今では平和が甦る

七 どうぞ再びペリリューヘ
  時なしさくらの花びらは
  椰子の木陰で待ちわびし
  あつい涙がこみあげる    

平成6年、パラオ共和国はアメリカから完全独立を果たす。
独立に当たって国旗を制定することになり、国民の間からデザインを一般公募した結果、日の丸をもじった「月章旗」が採用となった。
フォト

周囲の青は太平洋。中央の黄色い円は月を表している。月は日章旗の太陽との友好を示すものなのだそうだ。
そして、パラオ国旗の満月は日の丸の太陽と違って,中心から少しズレている。日本に失礼だからと,わざと中心を外したのだ。
パラオの人たちの慎み深さ、奥ゆかしさがよく分かる話だ。

パラオと日本に幸あれ!
パラオと日本の為に散華された偉大なる一万余柱の英霊に敬礼!!
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