��十億年以上存続した都市ダイアスパーには、赤ちゃんがいなかったが、
次に紹介するのは、アーサー・C・クラーク『都市と星』（原著1956年刊、山高昭訳、早川書房1977年刊）です。[新訳版]酒井昭伸訳、早川書房2009年刊（本エッセイで、[新訳]とあるのは、これからです。
物語は「胸元に輝く宝石のように、都市は広大な砂漠のただなかできらめいていた。」[新訳]で始まります。都市の名をダイアスパーという。十億年以上の未来、地球の海は消滅し、ダイアスパーの外はぜんぶなにもない砂漠になってしまったと認識されていました。
主人公アルヴィンは、自分が生まれた「最初の瞬間を、また自分が聞いた最初の言葉を、今でも思いだすことができました。「よく来たね、アルヴィン」と、彼の父親として「指名された」男性がいい、母親も紹介します。
生まれてさっそく会話可能というのは、芥川龍之介『河童』で「出産時には事前に河童の生活について知らされ、胎児に産まれたいかどうかを問い、胎児が生まれたくないと答えれば即時に中絶が合法的になされる」というコトに似ていなくもありません。クラークと大英帝国、芥川と大日本帝国には、なにかしら相似の面があるかもしれませんが、ここでは追及しません。
「指名された」親というのは、二人は実の親ではないからです。いわば里親のようなものですが、実は母胎から生まれ出て来たものでもありません。＜創造の殿堂＞から出て来たものとされています。そこでは、肉体から分離したパターンが貯蔵され、それから再びもとの体が再現されるという仕掛けです。
彼はほとんど成長しきって、創造の殿堂からこの世に生まれました。それから二十年経ったのですが、背丈が一、二インチ高くなったくらいで、体は生まれた瞬間からほとんど変わっていないいないのです。
アルヴィンの名目上の両親が、二十年間保護者としての義務と責任を果たし終えたことを確認する儀礼の場で、アルヴィンが思い出していたのは二十年前の自らの出生の場でした。それから二十年経って、いよいよ親からの自立を確認する儀礼の場でいわば立会人の役割を荷うのが教師ジェセラクです。両親はこれまで保護者として彼の性格に、教師は彼の頭脳に責任をもっていました。
教師ジェセラクが演説を始めるが、その前に、短考。二十歳になったまんま生まれたとき、親と指名されたものは可愛いと感じるでしょうか。ローレンツのいうベビー・スキーマの可愛らしさは、もちろん感じないでしょう。しかし夜中に泣いたりするなどの面倒をかけず、ちゃんと反応はするでしょう。だから、愛おしさは少なくとも育っていくかもしれません。ましてやアルヴィンは“ユニーク”なのですから。ちなみに「アルヴィン」という名は、神聖なアルビノに由来するのではないか。鞍馬天狗も金正恩氏も白馬に乗っていますね。
ほとんど成長しきって、創造の殿堂からこの世に生まれ出てくるのは、実はアルヴィンだけではありません。すべての市民が創造の殿堂から、そのような姿でこの世に生まれ出るのです。ではアルヴィンのユニークぶりは何なのでしょうか。さぁ教師ジェセラクの、ひたすらアルヴィンただ一人に向けた演説を聴きましょう。
「どんな人間でも、一つの肉体の中に千年もおればたくさんなのじゃ。これだけ年を経ると、その人間の精神は記憶で詰まってしまい、彼はひたすら休息を、さもなくば新しい出発を求めるようになる。」
彼らが暮らしている都市ダイアスパーは既に十億年以上存続しています。この都市に生きる市民は不死身の肉体を手に入れたのですが、たかだか千年を生きるが精一杯と、教師ジェセラックは説いているのです。彼はアルヴィンに搔き口説くように、いわば終活を伝えます。
「わしは自分の記憶をすっかり遡ってみて、それを整理し、憶えていたくないことは消してしまうことじゃろう。」人は誰しも、少なくとも現代に生きる我々は、憶えていたくないことを消し去ることはできませんよね。そうしようと思えば思うほど、ふと思い出してしまいます。ところが、十億年以上存続している都市ダイアスパーでは、記憶を整理してその一部を消し去ることができる世界なのです。
そのうえで創造の殿堂に入っていき、ジェセラックの老いた肉体は存在しなくなり、意識も失われる。「ジェセラクであったものは、結晶の中心固定された無数の電子の群のほかには、何も残らぬのじゃ。」―あの世の形而下的実現といっていいかもしれません。
「アルヴィン。わしは眠るのじゃ。夢もない眠りをな。やがて、ある日、おそらく今から十万年後に、わしは再び新しい肉体の中に眼覚め、自分の保護者に選ばれたものたちに、まみえるのじゃ。」それというのも「わしは、初めのうちは、ダイアスパーのことは何も知らず、前に自分が何者だったかを少しも覚えておらぬからじゃ。」だからこそ、保護者として指名されたものたちによる保護のもので、いわば前世の記憶が二十年間の「幼年期の終わりに徐々に戻ってきて、わしはそれを頼りに新しい人生の周期を始めることなる。」
ここでジェセラクは突然「わし」という一人称単数から、複数の「わしら」に切り換わります。そのわしらにアルヴィンが含まれるかどうかが問題になり、含まれず除外された“ユニーク”であることが明らかになります。「わしらはみな、以前に何回も何回もここに生をうけたことがある。もっとも、ここにおらぬ期間の長さは、一見でたらめな法則に従って変化する故、この現在の住民の組み合わせは、決して二度と繰り返さぬ。」そのうえ新しいジェセラックだけでなく、古い、いわば前世の複数のジェセラックも、残したいと思った分だけは残っている。ジェセラクはアルヴィンに問いかけます。
「お前は、仲間達がもうやっておるように、自分が以前の人生の記憶を思いだすのはいつなのか知りたいのじゃろう。」続けて直ちに断定します。「そういう記憶はない。」現世に生きる我々だって、どだい前世なんてないのですから、前世の記憶をもっているはずがありません。しかし、まさにそれこそがアルヴィンがユニークであるからだと教師ジェセラクは言うのです。いま読んでいるあなたをアルヴィンに同一化させてしまいます。しかし、それにしても戸惑いますよね。「お前は、少なくともこの一千万年の間に地球に生まれた最初の子供なのじゃ」といわれたら。
しかし、そうではなかったのです。アルヴィンがダイアスパーを脱け出して向かった先リスの村で、「小さな興奮した生きものの群が森の中からアルヴィンを、アルヴィンを取り囲んだ」のです。「この騒々しい魅力にあふれた生きものは、人間の子供たちなのだった。」
とアルヴィンは改めて思います。なにしろアルヴィンの故郷ダイアスパーは絶えて見ない光景だったからです。「ダイアスパーは、不死を手に入れるための代価を、それも財布の底をはたいて支払ったのだった。」不死となったものが子供をもつならば、人口はとめどなく爆発しますからね。あるいは宇宙に向けて移民させねばなくなります。
リスの村長（むらおさ）に問われて、答えるアルヴィンは「もはや不屈の探検家ではなく、見知らぬ世界に生まれてきたひとりぼっちの子供だったのである。」謙虚になったアルヴィンに村長は、リスとダイアスパーが成り立っていく原初の時代をテレパシーで一挙に明かします。
アルヴィンは村長の治める村を歩き回り、子供たちの泣き声に胸打たれ、かきむしられるようになったのです。「アルヴィンには、彼らの小さな落胆が、まるで人類の銀河帝国喪失の長い退却よりももっと悲劇的に思えるのだった。」こうした子供たちの存在がなかったなら「恋そのものさえ究極の絶頂に達することはできず、永遠に不完全のままに終わってしまうようなものだった。かれは愛情の意味を知り始めていたのである。」
村長は年老いた女性でした。その息子とともに、アルヴィンはリスで誰も行ったことの場所に出かけ、三つ目小僧のロボットに助けられ、ダイアスパーに連れ帰ります。ダイアスパーのセントラル・コンピューターに合わせるためでした。それでもアルヴィンがダイアスパーに再び帰ってきたのですから、再会しなければならない人々がいます。
ダイアスパーでの最新の恋人と出会う前に、彼女にしても、その前に恋人たちだった女性たちにしても本当には愛していなかったことをアルヴィンは初めて悟ります。それというのも、リスを離れた今こそ、リスの村で見た「自分の子供を膝の上であやす母親たち」の姿がくっきりと脳裏に浮かび上がったからでした。そこにこそ「愛の本当の意味」があるとアルヴィンは感じたのです。そんな姿はダイアスパーで起こりえません。青年の姿で創造の殿堂から生まれ出て来たものを、名目上の母親が膝の上であやすなんて滑稽以外の何物でもありえません。
リスに行き、ダイアスパーに帰ってきたからこそ、アルヴィンは「小さな頼りなげな生きものたち全部を守ってやりたいという優しさ―愛の私心なき双生児である感情」を抱いたのでした。一方、十億年続いた「不死の都市の中には、ほんとうの感情、深い情熱はない」ことにアルヴィンは気づくのです。いや、そういう感情がほんの束の間のものであり、永遠に続かず、それを追放したからこそ、ダイスパーは不死になったかもしれません。
「この瞬間にこそ――もしそんな瞬間があったとすれば、アルヴィンは自分に定められた運命を自覚したのだった。」その運命とは何か、もちろん読者にこの時明かされることなく、まさにその運命なるものが展開されるかたちで物語がいやおうなく進展します、
ビッグ・コンピューターとの交渉は無事に成立します。アルヴィンは新たな旅立ちに際し、教師ジェセラクを見送らせようとします。それはジェセラクにはとても辛いことでした。外の世界を見まいとする制止力が働くからです。アルヴィンはリスの村で母親が子供に歩くことをおしえている姿を思い出していました。ジェセラクが一歩一歩ずつ進むのに、声をかけて励ましていました。
アルヴィンは呼び出した宇宙船に搭乗し、出発します。見送ったジェセラクはつくづく感慨にふけります。「アルヴィンがおとなになることはけっしてないだろう。アルヴィンにとっては、全宇宙が遊び場であり、嬉々として解くべきパズルなのだ。」（新訳）
アルヴィンはリスに立ち寄り、そこでもダイアスパーでの騒ぎと似た騒ぎを引き起こし、村長の息子とともに、銀河系を旅し、“純粋精神体”ヴァナモンドを地球にもたらします。
村長はいいます。「その知識には限界がないみたい。でも、彼は子供なのよ。文字どおりの意味で、子供なの」（新訳）
しかし、アルヴィンはヴァナモンドとは思考を交換できません。リスの人々とは異なり、テレパシーができないからです。アルヴィンは自信を失います。どうしたらいいのだろうか。もういちど馴染じみ深いダイスパーにもどり、その庇護のもとで自分の夢と大望を正面から見つめ直す必要がある。「都市と決別して、星々へ冒険の旅に出たはずの人間が、怯えて母親のもとへ駆けもどる小さな子供のように、故郷へ逃げ帰ろうとしている」（新訳）のは、皮肉といえば皮肉ですが、もともとアルヴィンは永遠の子供ともいえるのですから、ごく当然でもありましょう。
それは、しかし、ダイアスパーが成立する始原の歴史と、まさしく共振する姿であることが明らかにされます。リスに行き、ダイアスパーに戻った最初のとき、幼子たち全部を守ってやりたいという気持ちがあふれ出て、自らの運命を自覚したのでした。
アルヴィンが村長の息子ヒルヴァーと共に、銀河系を旅して地球に帰還したとき、ダイアスパーとリスとの交流が既に始まっていました。アルヴィンは思うのです。「自分は運命の定めを果たした。たぶんこれからは、ほんとうの人生が始まるのだろう。」
“ユニーク”としての運命を定めたのは、ダイアスパーを設計し建設した始祖たちでした。ダイアスパーの外を探索させる目的でした。15人目のアルヴィンが「これほど大きな成功を収めることも、まったくの予想外ではあったがね。」（新訳）
どうやら地球の砂漠をもとの海原に戻すことがアルヴィンの新しい人生の目標になったようなのです。かれは自分が成し遂げた偉業をふりかえり思うのです。「ときどき新生児の泣き声を聞けるならーーそれも、自分の子供の【「自分の子供の」に傍点】泣き声を聞けるなら――自分があげた業績のすべてを放りだしてもいいとさえ思う。」（新訳）
私は初め、これをアルヴィンが父親として自分の子供誕生を喜ぶ姿ととりました。しかし、わが子をあやす母親の姿に感動するあまり、自分も性転換をし、自分の腹で痛めた子供の泣き声を聞きたいと願うようになったと解釈することも可能なのではないでしょうか。
いずれにせよ、『都市と星』の物語は冒頭の「人類は銀河系を捨てて、ダイアスパーという人工の子宮内に引きこもったの」（新訳）ですから、物語の終焉に際し、ひとめぐりして上昇ないし下降したことになります。人工の子宮ではなく、リアルな人間の子宮から産まれ出るものの泣き声を聞きたいということになったのですから。
こうして『都市と星』には三つのタイプの赤ちゃん、ないし子供が登場します。リスのほんものの
幼児、永遠の子供のようなアルヴィン、そしてまだ生まれたばかりのヴァナモンド。これら三つのタイプの幼児が綾なす物語が、アーサー・Ｃ・クラーク『都市と星』であるといえましょう。
じつはあと二人、子供がいます。ひとりは著者のアーサー・Ｃ・クラークです。新訳書の解説者中村融によると、クラークの墓標には、「彼はけっして大人にならず、けっして成長することをやめなかった」とあるそうです。
もうひとりの子供は今、これを読んでいる貴方じしんです。しかし、あなたはダイアスパーのような日本に満足し、星々の世界を夢みることはもうないかもしれません。ちなみにダイアスパーはディスペアー（絶望）でもあるのですが。あるいは年老いた教師ジェセラクが幼童に導かれ、ダイアスパーの外を見る勇気を得た翁かもしれません。鎌田東二『翁童論』に通じる道です。どこまで『都市と星』につきあい、豊穣な世界のどこで立ち止まり楽しみつくすかは貴方の自由です。
とりあえず本書は次の章へと進みます。
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